織田信長の父「織田信秀」はどんな人だった?信長に与えた影響は?

織田信長の父「織田信秀」はどんな人だった?信長に与えた影響は?

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戦国時代を代表する織田信長。信長は「織田家に突然生まれた天才」という訳ではなく、実は父織田信秀の偉大な影響を受け、それをさらに信長の個性により突出したものにし天下統一目前までいったのです。
今回は、そんな信長の父「織田信秀」の簡単な人物像、そして信長との関係、信長に与えた影響をまとめてみました。

織田信長の父「織田信秀」はどんな人?

尾張の虎とも呼ばれ、尾張国でその名を轟かせていた「織田信秀」。そんな信秀は一体どんな人物だったのでしょうか?信秀を知ると、信長の源流が見えてきます。

信秀の出生は?

織田信長の父「織田信秀」は、1511年尾張の清洲三奉行の一人「織田信定」の長男として生まれます。織田の本家ではなく、尾張の守護代「織田大和守家(清洲織田氏)」に使える庶流の息子です。
つまり、 大和守家(清洲織田)が本家でそれを支える分家の生まれ ということです。意外ですよね。
信長があまりにもインパクトが強いので、本家と思ってらっしゃる方も多いのではないでしょうか?
その後、1526〜27年頃に家督を受け継ぎ、勢力の拡大をはかっていきます。この辺りから信秀は勢いがあり他の大名たちからも注目を受けるようになっていきます。

織田信秀の人物像、一体どんな人だった?

信秀は、当時としては画期的なことを2つしています。

  • 居城の移動
  • 商売の活性化

では、一つずつ見ていきましょう。

居城の移動

信秀は、23歳の頃には今川氏豊が居城としていた那古野城(現在の名古屋城)を奪い取り、本境地としました。そして、古渡城や末森城などを築き、頻繁に引越しをしていました。実に同地域で10年の間にです。城を築き、移動し勢力を拡大していったのです。当時としては居城の変更は非常に珍しいことでした。つまり信秀には、それだけの財力と勢いがあったんですね。

商売の活性化

織田家では実は、信秀の父(信長の祖父)時代から商売を活性化する施策を徹底していました。当時の門前町だった津島の地で、参拝客を相手に商売する商人を集めて商売を活性化させていました。
つまり、商人の商売をある程度自由化していたんですね。そうすることで、商人が承認を呼びさらに経済が活性化するという好循環をつくりだしていました。
居城を移動するたびに、そうして商人を集めていくことでさらなる経済力をつけていったと言われています。信長の楽市楽座の原点はここにあるのかもしれませんね。
こうして得た財力を元に、朝廷に献金し朝廷からの信頼を得たり、近隣諸国との戦さにも勝利して徐々に地位と領土を拡大していったんですね。そしてついには、 本家である「織田大和守家(清洲織田氏)」どころか、その主君だった斯波(しば)家をも超えるほどの地位と勢力 を手に入れていきました。
一言でいうと、非常に優秀な武将だったんです。

信秀の子供は何人いたの?

武将として優秀だったことはもちろんですが、信秀は子沢山ということでも有名です。実に男子12名女子14名総勢26名の子供がいます。。
信秀の子供の中で一番有名なのは「信長」です、そのほかの有名どころではお市の方(のちの柴田勝家の妻)ですね。信長と同じで、「英雄色を好む」という言葉がぴったり当てはまるのではないでしょうか?

信長と信秀の関係は良好だった?

20名以上も子供がいた信秀ですが、なぜ三男である信長に家督を譲ったのでしょうか?信秀が信長を選んだ理由、そして信秀と信長の関係性を見ていきましょう。

なぜ信長が家督を継いだのか?

織田信長は嫡男の順番でいくと長男だった
信長は嫡出子の順番では長男だった

先にも書いた通り、信秀には12人の息子がいます。そして、信長は三男です。実は、信長が信秀から家督を継いだことには理由があるんです。
信長の息子は、長男「信広(のぶひろ)」次男「秀俊(ひでとし)」そして、三男「信長」・・・と合計12人です。
年齢順でいくと信長は三男になるのですが、実は信長は信秀の正室(正式な奥さん)の嫡出子なんです。 嫡出子の順番でいくと、長男「信長」次男「信勝(のぶかつ)」三男「信包(のぶかね)」 となり、信長は信秀の長男ということになるんです。よって家督を継ぐ権利はあったんです!
信長が小さな頃から「大うつけ」と言われ、信秀が可愛がっていたなどとも言われますが、実は正式な権利を持っていたんですね。

信秀の葬式での信長の有名な逸話

信長が信秀の葬儀で焼香を投げつけたという逸話があります。この話は、大河ドラマなどでも欠かせないシーンですね。(ドラマや映画の内容によって若干脚色されていたりしますが。)
では、一体なぜ信長は焼香を投げつけたのでしょうか?
大うつけと言われるほど破天荒だったから?父に対して憎しみがあったから?などなど憶測はありますが、実際はどうだったんでしょう?
信秀の葬儀は、菩提寺である萬松寺(ばんしょうじ)で盛大に行われていたと言いますが、喪主であった信長の意向ではなかったようです。正装の参列者を横目に、身なりは整えず焼香の段になり現れた信長は、抹香を鷲掴みにし投げつけたと言います。
もう参列者は唖然としますよね。「やはり信長は大うつけだ」なんて声も上がるなか筑紫(現在の福岡県)からきた客僧は「あのお方こそ国持ち大名ともなるお人よ」と語ったといいます。
この時の信長の心情とすれば、「よくこんな大変な時に逝ってしまったな」「多くの敵が様子を見ているのにこんな盛大な葬儀をしている場合か」と思っていたのではないでしょうか?
父を思うからこそ、父のあとを継ぎ織田家を反映させていこうという決意の現れだったのかもしれませんね。
しかし、参列者のほとんどが信長に呆れている中、この客僧だけは、信長の実力を見抜いていたんですね。

信長が父からどんな影響を受けた?

終わりの庶流の大名から、主君と肩を並べるほどの大名になった信秀、そんな父を信長はどう見ていたのでしょうか?

父の影響が大きかった?信長の経済政策!

先にも記述した通り、信秀は優れた武将でした。
信秀がしたことを簡単にまとめると、

居城を移動し勢力を拡大

商売の活性化による財力の強化

朝廷や公家などとも適度に近づきパイプを作った

中でも一番注目すべきは、「商売の活性化による財力の強化」です。商人をあつめ商売を活性化させたからこそ財力が強化され、結果として朝廷に献金できパイプを構築できたのです。
これはまさに、信長が行った「楽市楽座」の政策と非常に似ています。そして、朝廷とのパイプを構築する点もまさに信秀が行ってきたことの延長とも取れます。
子供ながらに、しっかりと父「信秀」の政策を学んでいたんですね、まさに信秀がいたからこそ信長はその才能を十二分に発揮できたのではないでしょうか。

まとめ

今回は、信長の父「織田信秀」の人物像と信長に与えた影響を見てきました。
こうしてみると、信長が天下統一目前までいったのも父「信秀」を小さい頃から見てきたからこそだったんでしょうね。信長はトンビから生まれた鷹ではなく、なるべくして成ったんですね。

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