明智光秀の家系図。光秀の子孫は現代に続いているの?
大河ドラマ「麒麟が来る」でも話題の明智光秀。明智光秀と言えば、本能寺の変で謀反を起こし織田信長を討ったことでも有名ですね。実は、明智光秀は非常に謎の多い人物なんです。今回は、明智光秀の家系図をもとに、光秀の謎、家族構成、子孫(末裔)についてまとめてみました。光秀は一体どんな人物だったのか?家系図からみていきましょう。
目次
明智光秀の家系図。光秀の出自は?
明智光秀は、出自が記載されている信憑性の高い資料が非常に乏しく、はっきりとしていません。織田信長と出会う少し前から、本能寺の変で謀反を起こし山崎の戦いで討たれるまでの資料でしか、光秀がどんな生活を送っていたのかを知ることができないんです。また、子孫についてもはっきりと記述されている資料が非常に乏しいんです。
光秀の出自について記載してある資料では、
- 美濃に古くからあった土岐氏の分家、明智氏の生まれ
- 名前がはっきりしない武士の次男として生まれた
- 刀鍛冶の息子だった?
- もともとは御門といいのちに「明智」姓に改めた
など様々な記述があり、最も有力なのは、美濃の土岐氏の分家だった明智の出身だという説ですが、今だにはっきりとしたことはわかっていないのが現状です。
明智軍記から見る光秀の謎
光秀のことを語る上で欠かせないのが、江戸時代中期(1688〜1702年)頃に書かれたと言われている「明智軍記」です。この明智軍記は、光秀の出自こそ書かれていないものの、美濃の脱出(斎藤道三が息子の義龍に敗れたのち、義龍に責められて美濃を追われた)から、本能寺の変での謀反、そして山崎の戦いで敗れたのち、落ち武者に討たれたところまでを描いた全10巻で描かれています。著者は不明ですが、同書によってしか知り得ない情報も記載してあるところから、その信憑性は全てが創作物とは言えない、いわば光秀を知るためには欠かせない軍記物です。
明智軍記によると、
- 美濃の守護職だった土岐氏の一族である
- 先祖は、明智城を本拠地としていた
- 美濃を追われたあと、流浪の日々を送った
- その後、のちに朝倉義景に仕えた
- 光秀の家臣だった妻木広忠の娘「煕子」との間に3男4女をもうけた
などと、現代に伝わっている物語のベースとなっています。
光秀の子供についての存在が確実だろうと言われているのは、
- 細川藤孝の嫡男「細川忠興」に嫁いだ玉(のちの細川ガラシャ)
- 光秀の家臣「明智秀満」に嫁いだ娘
- 信長の甥「津田信澄」に嫁いだ娘
- 本能寺の変ののち、光秀が細川家に送った手紙に記載のある「十五郎」
- ルイスフロイスの書状に記載のある息子
の存在が確実と言われています。
しかし、光秀に関する資料は非常に乏しく、資料ごとに記述も違うことが多いため事実関係が確認できない子供たちも系図には記載されています。
つまり、光秀のことは謎に包まれた部分が非常に多いんです。
光秀の子供で最も有名なのは細川ガラシャ(玉)です。ガラシャは光秀の三女で、信長の構想により、細川藤孝の嫡男忠興と婚姻しています。
忠興は、本能寺の変の後は秀吉に仕え、その後は徳川家康に仕え、その息子は初代熊本藩藩主「細川忠利」です。その後、7代藩主「細川治年」の代まで、明智光秀の血を引く末裔は熊本藩藩主として君臨したのです。実に150年にも渡ります。
現代に続く明智光秀の子孫たち
光秀は本能寺の変で仕えていた信長を討ち、その後山崎の戦いで秀吉に敗れました。戦国時代ですから、謀反を起こした一族全員反逆者として吊るされることもあり得たでしょうが、光秀の血統は途絶えることなく現代にも続いています。
クリス・ペプラーは光秀の血を引いている?
ラジオやDJ、声優として活躍しているクリス・ペプラーさん。クリスさんの母方の祖母は、光秀の実子説がある「土岐頼勝」の末裔だと言われています。
もし、頼勝が光秀と血縁関係だったという説が本当であれば、ドイツ系アメリカ人のハーフであるクリスさんは光秀の末裔だということになります。
光秀の血を引く現代の子孫
光秀の血脈は、光秀の没後400年以上たった現代でも続いています。私たちに馴染みのある、著名な人を紹介します。
- 細川隆元さん
衆議院議員も務めたたこともある政治評論家。細川護煕さんとは遠い親戚にあたります。 - 細川隆一郎さん
政治記者、評論家。細川護煕さんとは遠い親戚にあたります。細川隆元さんの甥にあたります。
- 明智憲三郎さん
作家、歴史研究家。「本能寺の変427年目の真実」「本能寺の変431年目の真実」。TBSの番組で、クリス・ペプラーさんの光秀の末裔説を調査しています。
【明智光秀の子孫ではないかと言われている人物】
- 細川護煕さん
第79代 内閣総理大臣で、肥後熊本細川家の第18代当主です。肥後熊本細川家の初代当主は、細川ガラシャの夫、細川忠興の三男「忠利」です。
しかしながら、細川忠利の子孫は繁栄していきますが、七代藩主の細川治年は子宝に恵まれず、養子が家督をついでいます。
その後も、細川家は反映して現代に続いていますが、細川護熙さんはガラシャの直系の子孫とは言えないようです。
細川護熙さんの祖母が、忠隆の血筋ではないかという説もありますが、確証できる資料は見つかっていないようです。
まとめ
今回は、明智光秀の家系図、子孫についてまとめてきました。
この記事の内容を簡単にまとめると、
- 明智光秀は出自もはっきりせず、非常に謎の多い人物
- 光秀のことを書いた明智軍記でも、資料としての信憑性が問われる記述が多い
- 光秀の子孫は、現代にも続いている
明智光秀は本能寺の変で謀反を起こしたことで、日本史上でも有名な人物です。光秀の子や末裔たちは、明智とは名乗らず、名を変えて現代まで生き延びてきたという話もあります。それでも、現代にまで末裔が続いてるなんて、まさに歴史的発見が多いですね。
ドラマチックな系図で、物語がたくさんできそう。
よく調べられたと感心します。細川家に興味を持ちました。
コメントありがとうございます^^
明智光秀の子孫、細川ガラシャから続く細川家もいろんなドラマができそうですよね♪