藤原頼通のしたことは何?平等院鳳凰堂を建てた?年表や功績などを簡単に解説!
藤原頼通(992(正暦3)〜1074(延久6))は、平安時代中期から後期にかけて活躍した公卿です。
藤原道長を父に持ち、その跡を継いで、若くして摂政に就いたり、関白を50年以上も務めたりしました。
2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、渡邊圭祐さんが演じられることでも話題となっています。
そんな藤原頼通は、一体なにをしたのでしょうか?
この記事では、藤原頼通の年表を見ながら、功績やエピソードなどを簡単に解説していきます。
目次
藤原頼通の年表
【藤原頼通の年表】
- 992年(正暦3年):0歳
藤原道長の長男として誕生
- 1003年(長保5年):12歳
元服して正五位下を授けられる
- 1006年(寛弘3年):15歳
正三位となり、公卿の列に並ぶ
- 1013年(長和2年):22歳
権大納言になる
- 1017年(長和6年):26歳
後一条天皇の摂政となる
藤氏長者も譲られる
- 1019年(寛仁3年):28歳
関白となる
- 1028年(長元元年):37歳
平忠常の乱が起こる
乱の鎮圧に3年も要する
- 1037年(長暦元年):46歳
養女の源子が後朱雀天皇の中宮となる
→外祖父になろうとするが、皇子はできず…
- 1051年(永承6年):60歳
娘の藤原寛子が後冷泉天皇の皇后になる
→今回も外祖父になろうとするも、皇子はできず…
- 1052年(永承7年):61歳
平等院鳳凰堂を建てる
- 1067年(治暦3年):76歳
関白を辞任する
- 1072年(延久4年):81歳
出家する
- 1074年(延久6年):83歳
病死する
藤原頼通の功績。平等院鳳凰堂を建てた以外に何をした?
藤原頼通の功績は主に2つあります。
・摂関政治の全盛期を担った
藤原頼通は、父である藤原道長の影響もあり異例のスピード出世をしていきます。
12歳で正五位下、15歳で従三位、22歳で権大納言に昇進し、26歳で摂政となるのです。
これは摂政の中で、史上最年少記録となりました。
その後、藤原頼通は、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の三代に渡る天皇の在位において、52年間も関白の座を独占します。
若い時期からその生涯権力と向き合ってきた、これが藤原頼通の功績の1つと言えるでしょう。
・平等院鳳凰堂を建てた
1052年に宇治に平等院鳳凰堂を建てます。
1052年は、「末法の世」の始まりだとされていました。(末法思想)
そのせいで社会全体に不安が広まっていたのですが、それを払拭するために極楽浄土のような場所を作ろうとしたのです。
藤原頼通は外戚計画に失敗した
藤原氏は、代々天皇の外戚になることによって、権力を得てきました。
藤原頼通も例に漏れず、天皇の外戚になる計画を立てます。
1037年(長暦元年)には養女の源子を後朱雀天皇の中宮とし、1051年(永承6年)には娘の藤原寛子を後冷泉天皇の皇后にしました。
しかし、いずれも男児が生まれることはなく、藤原頼通は外戚計画に失敗してしまうのです。
関白を務めた3人の天皇が亡くなると、影響力を及ぼすことができる天皇がいなくなり、藤原頼通が権力を維持することが困難な状況になってしまいました。
これが、藤原氏の摂関政治の終焉に繋がったと言われています。
藤原頼通のエピソード
ここでは、藤原頼通に関するエピソードをご紹介していきます。
- 藤原頼通は暴力沙汰を起こさなかった
- 藤原頼通は愛妻家だった
藤原頼通は暴力沙汰を起こさなかった
意外に思われる方も多いかもしれませんが、平安朝の貴公子たちは、ごく日常茶飯的に暴力事件を起こしていました。
気に入らない者、対立する者を拉致監禁して殴る蹴るの暴行を加えたり、門前を通る牛車に投石したりと枚挙にいとまがありませんでした。
藤原頼通の父・藤原道長も若い頃は暴力行為の常習犯でしたし、藤原頼通以外の息子たちにも暴力事件の記録があります。
しかし、藤原頼通だけは目立った暴力事件の記録がないのです。
このことから、藤原頼通は、平和を好む、おとなしい性格であったのではないかと伺えますね。
藤原頼通は愛妻家だった
藤原頼通は愛妻家であったと言われています。
その証拠に、藤原頼通は、基本的に藤原道長に逆らうことがありませんでしたが、妻のことに関してだけは逆らったことがあるのです。
藤原頼通は、17歳のときに隆姫女王という皇族の姫君と結婚しました。
政略結婚の面が強いながらも、2人の仲は非常に良かったと言われています。
皇族からの嫁ということで、これには藤原道長も
「男(おのこ)は妻(め)がらなり」
(男の価値は妻の家柄によって定まる)
と言って、大喜びしていたそうです。
しかし、2人の間にはなかなか子供ができませんでした。
そんなある日、藤原頼通に三条天皇から二の宮を降嫁させたいという話が届きます。
摂関政治を続けていくためには、娘を入内させることが重要となりますから、子供は必須です。さらに、天皇の娘ともなれば、より天皇との結びつきを強化できます。
藤原道長は、こんないい話はないぞと、この話を進めようとしました。
しかし、藤原頼通はこの話を断ろうとします。
なぜかというと、
隆姫女王の立場を案じたからです。
皇族で女王というと、おおむね「天皇にならなかった親王の娘」です。
そのため、もし三条天皇の娘が降嫁した場合、隆姫女王は正室であるにもかかわらず格下となってしまいます。
子供に恵まれない上に、格下であるにも関わらず、正室で居続けることが、女性としてどれだけ辛い立場となることでしょうか。
藤原頼通はそのことがわかっていたので、降嫁の話をよしとしなかったのです。
それでも藤原道長はこの話を進めようとしたところ、
藤原頼通は原因不明の病に倒れ、生死の境を彷徨いました。
病を治すためにお祈りをしてみると、隆姫女王の父親である具平親王の怨霊が現れたため、藤原道長は仕方なく降嫁の話を諦めたのです。
当時は、「病気=怨霊の祟りか神仏の罰」という価値観でしたから、さすがの藤原道長も引かざるを得ませんでした。
こうして、降嫁の話がなくなると、藤原頼通も病が治ります。
基本的に父親に逆らわなかった藤原頼通が、妻の身を案じて逆らったということは、いかに妻のことを愛していたのかが伺えますね。
藤原頼通に関するQ&A
藤原頼通に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 藤原頼通と藤原道長の関係は?
- 藤原氏の摂関政治はなぜ衰退していった?
藤原頼通と藤原道長の関係は?
藤原頼通と藤原道長の関係は親子関係です。
藤原頼通は、藤原道長の長男となります。
圧倒的な権力を持つ父親の影響もあり、藤原頼通は異例のスピード出世をしました。
2人の仲は、基本的に悪くはなかったようです。
藤原頼通は父に表立って逆らうことはなく、摂政・関白になった後も、大事なことは相談するようにしていました。
父親の敷いたレールの上を歩くことを嫌がらず、父親が亡き後も藤原氏の立場を保つべく行動しています。
藤原氏の摂関政治はなぜ衰退していった?
藤原道長・藤原頼通と摂関政治の全盛期を誇っていたのですが、その後徐々に衰退していきます。
その理由として挙げられるのは、藤原頼通が外戚計画に失敗したことです。
藤原頼通も藤原道長同様、天皇の外戚であり続けるために、一人娘の藤原寛子を後冷泉天皇に嫁がせます。
しかし、期待していた男児は生まれなかったのです。
このため、外戚の立場でいられなくなり、自分が影響力を及ぼすことができる天皇がいなくなってしまいました。
さらに、追い打ちをかけるかのように、次に天皇になった後三条天皇は、長年藤原頼通と対立してきた人物でした。
そのため、藤原氏の権力を抑え、政治の実権を天皇に取り戻そうと動いたのです。
天皇になる孫ができなかったこと、対立する立場の人物が天皇になってしまったこと、これらが藤原氏の摂関政治が衰退していった原因と言えるでしょう。
まとめ:藤原頼通は摂関政治の最盛期を築き上げ、平等院鳳凰堂を建てた
藤原頼通は、父・藤原道長の影響で摂政・関白を若い頃から務め、2人で摂関政治の最盛期を築き上げました。そして、社会不安を払拭するために、平等院鳳凰堂を建てたのでした。
今回の内容をまとめると、
- 藤原頼通は摂関政治の最盛期を築き上げた
- 藤原頼道は、平等院鳳凰堂を建立した
- 藤原頼通が外戚計画に失敗したことにより、摂関政治の終焉に繋がった
藤原頼通は、父親の影響で異例のスピード出世をし、若くして権力者となりました。普通であればそこで傲慢になってしまってもおかしくありません。しかし、藤原頼通は目立った暴力事件もなく、あくまで民のための行動をとってきました。このあたりから、藤原頼通の人柄が伺えるかもしれませんね。