平安時代の天皇一覧!遷都したのは?院政は?エピソードと合わせて解説!
平安時代(794(延暦13)〜12世紀末)は、桓武天皇が平安京に都を移してから、鎌倉幕府が成立するまでの約390年間のことです。
古代の末期とも、中世の萌芽期とも言われており、古代から中世の過渡期になる大事な時代に当たります。
そんな平安時代の天皇には、誰がいたのでしょうか?また、どのようなことをしていたのでしょうか?この記事では、平安時代の天皇について簡単に解説していきます。
目次
平安時代の天皇には誰がいた?
平安時代は、桓武天皇の遷都から始まり、その後平安時代の天皇は33人続いたと言われています。
それでは、平安時代の天皇には誰がいたのでしょうか?
ここでは、平安時代の天皇を簡単に解説していきます。
平安時代の天皇一覧
平安時代の天皇は全部で33人いました。それぞれの名前と在任期間は以下の通りです。
【平安時代の天皇一覧】
- 第50代天皇:桓武天皇(781年(天応元年)〜806年(大同元年))
- 第51代天皇:平城天皇(806年(大同元年)〜809年(大同4年))
- 第52代天皇:嵯峨天皇(809年(大同4年)〜823年(弘仁14年))
- 第53代天皇:淳和天皇(823年(弘仁14年)〜833年(天長10年))
- 第54代天皇:仁明天皇(833年(天長10年)〜850年(嘉祥3年))
- 第55代天皇:文徳天皇(850年(嘉祥3年)〜858年(天安2年))
- 第56代天皇:清和天皇(858年(天安2年)〜876年(貞観18年))
- 第57代天皇:陽成天皇(876年(貞観18年)〜884年(元慶8年))
- 第58代天皇:光孝天皇(884年(元慶8年)〜887年(仁和3年))
- 第59代天皇:宇多天皇(887年(仁和3年)〜897年(寛平9年))
- 第60代天皇:醍醐天皇(897年(寛平9年)〜930年(延長8年))
- 第61代天皇:朱雀天皇(930年(延長8年)〜946年(天慶9年))
- 第62代天皇:村上天皇(946年(天慶9年)〜967年(康保4年))
- 第63代天皇:冷泉天皇(967年(康保4年)〜969年(安和2年))
- 第64代天皇:円融天皇(969年(安和2年)〜984年(永観2年))
- 第65代天皇:花山天皇(984年(永観2年)〜986年(寛和2年))
- 第66代天皇:一条天皇(986年(寛和2年)〜1011年(寛弘8年))
- 第67代天皇:三条天皇(1011年(寛弘8年)〜1016年(長和5年))
- 第68代天皇:後一条天皇(1016年(長和5年)〜1036年(長元9年))
- 第69代天皇:後朱雀天皇(1036年(長元9年)〜1045年(寛徳2年))
- 第70代天皇:後冷泉天皇(1045年(寛徳2年)〜1068年(治暦4年))
- 第71代天皇:後三条天皇(1068年(治暦4年)〜1072年(延久4年))
- 第72代天皇:白河天皇(1072年(延久4年)〜1086年(応徳3年))
- 第73代天皇:堀河天皇(1086年(応徳3年)〜1107年(嘉承2年))
- 第74代天皇:鳥羽天皇(1107年(嘉承2年)〜1123年(保安4年))
- 第75代天皇:崇徳天皇(1123年(保安4年)〜1141年(永治元年))
- 第76代天皇:近衛天皇(1141年(永治元年)〜1155年(久寿2年))
- 第77代天皇:後白河天皇(1155年(久寿2年)〜1158年(保元3年))
- 第78代天皇:二条天皇(1158年(保元3年)〜1165年(永万元年))
- 第79代天皇:六条天皇(1165年(永万元年)〜1168年(仁安3年))
- 第80代天皇:高倉天皇(1168年(仁安3年)〜1180年(治承4年))
- 第81代天皇:安徳天皇(1180年(治承4年)〜1185年(文治元年))
- 第82代天皇:後鳥羽天皇(1185年(文治元年)〜1198年(建久9年))
平安時代の天皇の系図
平安時代の天皇で特に活躍した人は?
平安時代の天皇は、全部で33人です。その中でも、遷都を行ったり、院政を行ったりと、特に活躍していた人たちがいます。
ここでは、平安時代の天皇で特に活躍していた人を簡単に解説していきます。
桓武天皇
桓武天皇(737年(天平9年)〜806年(延暦25年))は、光仁天皇の長男として生まれた、第50代天皇です。
奈良時代の仏教政治の腐敗を取り除くことを目的として、平城京から長岡京を経て、794年に平安京に遷都しました。そして、僧侶の不法を取り締まり、最澄や空海の説く新仏教を厚く保護したのです。
これら全ては、律令政治再建のためでした。
また、坂上田村麻呂を起用して、3回にわたって奥羽の蝦夷平定を行いました。
これにより、東北地方までも中央政府の支配下に置くことに成功したのです。
平安時代の始まりと言っても過言ではない人物ですね。
嵯峨天皇
嵯峨天皇(786年(延暦5年)〜842年(承和9年))は、桓武天皇の第二皇子として生まれた、第52代天皇です。
嵯峨天皇は、桓武天皇の目指した律令政治再建をさらに推し進めた天皇で、法令や朝廷における儀礼、年中行事などの整備を実施しました。
また、810年に起こった「薬子の変」では、平城上皇による平城京への遷都と、天皇復位の企てを阻止するということも行っています。
ちなみに、嵯峨天皇は漢文詩、文筆にも長けており、能書家としても知られているのです。空海、橘逸勢と共に「三筆」として讃えられています。
仁明天皇
仁明天皇(810年(弘仁元年)〜850年(嘉祥3年))は、嵯峨天皇の第二皇子として生まれた、第54代天皇です。
仁明天皇が在位中、父親の嵯峨天皇が崩御すると、すぐに「承和の変」が起こりました。これは、伴健岑や橘逸勢らが皇太子・恒貞親王を擁して、東国で反乱を起こす計画だったようです。
この企ては朝廷によって即刻潰され、首謀者の2人は流罪になっています。
これにより、皇太子は仁明天皇の皇子・道康親王になったのですが、この道康親王は実は藤原冬嗣の外孫で、藤原良房の甥でもありました。
つまり、承和の変によって、朝廷から伴氏や橘氏といった有力貴族が排除され、藤原北家が政権の中枢を占めていくようになっていくのです。
藤原氏の摂関政治のきっかけとなったのが、仁明天皇の頃だと言えるでしょう。
清和天皇
清和天皇(850年(嘉祥3年)〜881年(元慶4年))は、文徳天皇の第四皇子として生まれた、第56代天皇です。
清和天皇が即位した際、わずか9歳でした。そのような小さな子供に、当然政治ができるはずもありません。そこで、事実上の摂政となった、祖父で太政大臣の藤原良房によって政治を掌握されるようになるのです。
この後、「応天門の変」が起こったことにより、藤原良房は正式に摂政に任命されており、藤原氏の摂関政治が始まっていったのです。
ちなみに、清和天皇は、武家の棟梁として活躍した「清和源氏」のおこりだと言われています。
【清和源氏の子孫で有名な人物】
- 源頼朝
- 足利尊氏
- 武田信玄
- 徳川家康
宇多天皇
宇多天皇(867年(貞観9年)〜931年(承平元年))は、光孝天皇の第七皇子として生まれた、第59代天皇です。
一度臣籍に降りた後、再び皇籍に戻って即位するという特異な経歴を持っている宇多天皇ですが、やはり関白・藤原基経が主導となって政治が進められていきました。
しかし、藤原基経が亡くなると、宇多天皇は天皇中心の新政を推進していくのです。しかし、朝廷は藤原氏の手がかかった者が多く、宇多天皇の新政を補佐する優秀な人材がいませんでした。
そこで宇多天皇が採用したのが「菅原道真」です。
宇多天皇は、菅原道真を側近として重用し、積極的に政治改革に取り組みました。このように、宇多天皇と菅原道真で行われた政治は、「寛平の治」と呼ばれ、徳政として高く評価されています。
藤原氏から政治の主権を取り戻し、優秀な人材を登用したのは、宇多天皇の功績でしょう。
ちなみに、宇多天皇は、仏教を篤く信仰しており、歴代天皇で初めて法皇となった人物でもあります。
醍醐天皇
醍醐天皇(885年(元慶9年)〜930年(延長8年))は、宇多天皇の第一皇子として生まれた、第60代天皇です。
宇多天皇の跡を引き継ぎ、積極的に天皇親政を推進していきました。33年間の在位期間中、摂政・関白からの干渉を受けることがなかった醍醐天皇の治世は、「延喜の治」と呼ばれ、理想的な時代だと後世に高く評価を受けました。
また、醍醐天皇は、文化面での功績も大きいです。
法典『延喜格式』、『日本書紀』から始まる『六国史』の最後となる正史『日本三代実録』や、『古今和歌集』などの編纂をしました。
ちなみに、古今和歌集は、初の勅撰和歌集となっています。
白河天皇
白河天皇(1053年(天喜元年)〜1129年(大治4年))は、後三条天皇の第一皇子として生まれた、第72代天皇です。
歴代天皇で、初めて長期にわたる院政を確立させました。院政とは、天皇が譲位して上皇となった後に、天皇に代わって執政する形態のことを指します。
白河天皇が院政によって実権を握ったことで、藤原氏による摂関政治は徐々に衰退していき、天皇が権威を持つ時代が再び訪れました。
白河天皇の治世は、その後、堀河、鳥羽、崇徳と3代にわたって続いていきました。
崇徳天皇
崇徳天皇(1119年(元永2年)〜1164年(長寛2年))は、鳥羽天皇の第一皇子として生まれた、第75代天皇です。
父・鳥羽天皇から譲位され、天皇となった崇徳天皇でしたが、実は白河法皇の子であるとのことから、鳥羽上皇に非常に嫌われていました。
そのため、白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇から明らかに敵対されるようになってしまったのです。鳥羽上皇の嫌がらせにより崇徳天皇は在位期間中も、上皇になってからも、一度も実権を握らせてもらえることはありませんでした。
それどころか、晩年は反乱の準備をしているという疑いをかけられてしまいます。これは、後白河天皇が崇徳上皇を排除するための策略だったのですが、崇徳上皇は為す術なく島流しにさせられてしまいました。
そして、最後は天皇家を呪いながら憤死。死後は怨霊となり、数々の飢饉や洪水を起こしたと言われています。このことから、崇徳天皇は日本三大怨霊の1人として知られています。
後白河天皇
後白河法皇(1127年(大治2年)〜1192年(建久3年))は、鳥羽天皇の第四皇子として生まれた、第77代天皇です。
保元の乱によって、崇徳上皇を排除した後、わずか3年という短い天皇在位期間を経て、30余年にわたる長い院政を行いました。
後白河上皇は後に出家して、後白河法皇となり、法皇となった後も院政を続けていましたが、台頭してきた武士勢力に破れ、院政は停止されてしまいました。
院政が終わり、政治の主権が武士へと移行していくきっかけとなった天皇だと言えるでしょう。
後鳥羽天皇
後鳥羽天皇(1180年(治承4年)〜1239年(延応元年))は、高倉天皇の第四皇子として生まれた、第82代天皇です。
後鳥羽天皇が即位した頃は、源平合戦がクライマックスを迎えるところでした。源平合戦の最終戦・壇ノ浦の戦いによって、平氏は滅亡します。しかし、この際、天皇の位を示す三種の神器(八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣)が、安徳天皇とともに海に沈んでしまったと言われています。
なんとか、八咫鏡と八尺瓊勾玉は見つけ出されますが、草薙剣は見つからず…。後鳥羽天皇は、三種の神器が揃わないまま即位した初めての天皇となってしまいました。
伝統を重んじていた宮廷社会であったからこそ、後鳥羽天皇は神器を持たずに即位したことに引け目を感じていたと考えられています。
政治の実権は、鎌倉幕府を開いた源頼朝に奪われてしまっていたのですが、源頼朝の死後鎌倉幕府は混乱に陥ります。それを好機と見た後鳥羽天皇は、朝廷の復権を目指し「承久の乱」を起こすのです。
しかし、結果は大敗。後鳥羽天皇はそのまま流罪となり、京へ戻ることができないまま、その地で崩御しました。
平安時代の天皇は権力を手に入れようとしていた?
平安時代の天皇は、何度も何度も天皇中心の新政を行おうと試みていました。
最初は、奈良時代に仏教勢力に奪われていた権力を取り戻すために、桓武天皇が平安京に遷都しました。
次に藤原氏に奪われた権力を取り戻すために、白河天皇が院政を行いました。
さらに、後鳥羽天皇は承久の乱を起こし、朝廷の復権を目指しました。
このように、平安時代の天皇は、何度実権を奪われようとも、諦めずに権力を取り戻そうと試みていたのです。
まとめ:平安時代の天皇は権力を手に入れようとしていたが、貴族や武士に奪われていた
平安時代の天皇は全部で33人いました。そして、藤原氏などの貴族や、平清盛・源頼朝ら武士などに奪われた権力を、何度も何度も取り戻して手に入れようと試みていました。
今回の内容をまとめると、
- 平安時代の天皇は全部で33人
- 平安時代は、桓武天皇が遷都したことにより始まった
- 平安時代は天皇の権力が、貴族や武士に権力が奪われたりしたが、何度も取り戻そうと試みていた
平安時代というと、貴族が主導権を握っているイメージがどうしても強くなりがちですが、天皇の治世もとても長いのです。しかし、最後に後鳥羽天皇が承久の乱を失敗しているところを見ると、武士の世への転換は止められなかったのだなと感じますね。