細川ガラシャとはいったいどんな人?その生涯を年表形式で解説!
明智光秀の娘であり、細川忠興の妻であり、キリシタンであった細川ガラシャ。
2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」では、女優の芦田愛菜さんが演じることで話題になりました。
戦国大名の妻でありながらキリシタンとなったガラシャはどのような女性だったのか、彼女の生涯を見ていきましょう。
目次
細川ガラシャの人生
細川ガラシャは明智光秀の娘として生まれ、細川家に嫁ぎますが、父が起こした本能寺の変により幽閉生活を余儀なくされます。彼女は洗礼を受けてキリシタンとなり、最期には人質に取られることを拒否して自死を選びました。
細川ガラシャの生い立ち
細川ガラシャは、1563年(永禄6年)明智光秀の三女としてこの世に生を受けました。本名は明智玉(珠)または 玉子と言います。
明智光秀の主君である織田信長の命により、15歳で結婚します。
相手は細川家当主である細川藤孝の息子、細川忠興です。
明智光秀は、もともと細川藤孝の部下でしたが、共に織田信長に仕えるようになり、信長は光秀を高く評価・重用しました。織田信長に藤孝よりも先に仕えたこと、多くの手柄を上げて信長から信頼を得ていたことから、明智光秀と細川藤孝の地位は逆転。明智光秀に細川藤孝が仕えるような形となっていました。
家臣の婚姻を積極的に政治利用する信長の命により、光秀と藤孝は互いの子供を姻戚させることとなりました。
もともと自分の部下だった、明智光秀の娘を自分の息子と婚姻させなければならなかった藤孝の心中は計り知れません。
当のガラシャと忠興は同い年で美男美女。
特に細川ガラシャは、織田信長が「人形のようにかわいい夫婦」と評し羨むほどの美人だったといいます。
忠興は天下一気が短い人物といわれていますが、ガラシャも聡明で意見をはっきり言う性格だったとされているので、お似合いの夫婦だったのでしょう。
二人は3男2女に恵まれたといいます。(3男3女という説もあります)。
細川ガラシャの兄弟、明智光秀の家系図に関することは、こちらの記事に記載してあります。
細川ガラシャの年表
細川ガラシャの人生を年表形式でみていきましょう。
1563年(永禄6年)1歳 明智光秀の三女として生まれる
1578年(天正6年)15歳 細川忠興と結婚
1582年(天正10年)20歳 父・明智光秀が本能寺の変を起こす。夫・忠興により幽閉される
1584年(天正12年)22歳 豊臣秀吉のはからいで屋敷に戻る。キリシタンの教えに触れる
1587年(天正15年)25歳 自宅で洗礼を受け、洗礼名「ガラシャ」を授かる
1600年(慶長5年) 37歳 石田三成の人質になることを拒み、自死
本能寺の変の後、細川ガラシャはどうなった?
1582年(天正10年)、明智光秀が主君である織田信長に謀反を起こしました。かの有名な本能寺の変です。
これにより細川ガラシャは謀反人の娘という立場になり、細川忠興は彼女を山深い丹後国の三戸野に幽閉しました。
当時は、謀反人の娘であれば、離縁されたり、殺されてもおかしくない時代です。
あえて幽閉という形をとることで、細川忠興は豊臣秀吉に忠誠心を示しつつ、愛する妻の命を守ったのです。
豊臣秀吉の取り成しにより、1584年(天正12年)にガラシャは大阪の屋敷へ戻ります。幽閉生活は終わりましたが、今度は夫 細川忠興の厳しい監視下に置かれることとなりました。
忠興は愛情深い一方で、激しやすく嫉妬深い一面もあり、ガラシャに見とれた庭師をその場で手打ちにしたという逸話が残っているほどです。
不自由な生活を送るなか、ガラシャは忠興からキリシタン大名である高山右近の話を聞き、キリスト教への関心を深めていきます。
細川ガラシャはなぜキリスト教を信仰したのか?
長い幽閉生活を送り、屋敷でも監視下に置かれていた細川ガラシャは、うつ状態になっていました。
離れていく妻の心を取り戻すためか、細川忠興は監視を強めますが、そのことがより一層ガラシャを信仰へと向かわせます。
1587年(天正15年)、忠興が九州征伐へ出陣している隙に、ガラシャはカトリック教会を訪れました。
細川ガラシャが教会に行ったのは、生涯でこの一度きりです。
その場で洗礼を受けることは叶わなかったものの、書物などを通じてキリスト教の信仰を深め、侍女たちに洗礼を受けさせました。
そして侍女を通じて、自宅で密かに洗礼を受け、宣教師から洗礼名として「ガラシャ」の名を授けられました。
ガラシャとは、ラテン語で「恩寵・神の恵み」の意味です。
洗礼名は聖人の名を頂くことが多いので、ガラシャは珍しい名前と言えますが、本名の「玉」には宝石・貴重なもの・賜物という意味があるため、宣教師がそこから取ったのかもしれません。
ガラシャが洗礼を受けたのは、1587年(天正15年)7月に豊臣秀吉がバテレン追放令を発したすぐ後のことです。
バテレン追放令は、キリスト教の宣教と南蛮貿易を禁止し、宣教師の国外退去を命じるものです。
個人の信仰を否定するものではありませんでしたが、ガラシャには非常に厳しいと感じる内容でした。
しかし、洗礼を受けたガラシャは心の落ち着きを取り戻し、生来の聡明な振る舞いを見せたそうです。
しかし受洗を知った忠興は激怒し、禅宗に戻るよう迫りましたが、ガラシャは頑として聞き入れませんでした。
細川ガラシャへの当てつけで「側室を5人持つ」と言い放つ夫に対し、ガラシャは真剣に離婚を考えました。
しかし、キリスト教では原則離婚を認められていないため、宣教師の説得により思いとどまりましたが、離婚しなかったことで彼女の悲劇の最期へと繋がっていきます。
細川ガラシャの最後。辞世の句に込められた意味は?
1600年(慶長5年)、細川忠興は会津征伐に出陣します。
これは徳川家康によって行われた会津の大名上杉景勝の征伐、関ケ原の戦いの幕開けとなった戦です。
忠興不在の隙に、敵方の石田光成は細川ガラシャを人質に取ろうと、大阪の屋敷を取り囲みました。
取り囲まれたことを知ったガラシャは、侍女たちを全員外に逃がし、一人で自死することを選びます。
しかし、キリスト教では自殺が教義に反するため、家臣に自分を介錯するよう命じました。
この時、ガラシャは辞世の句を詠んでいます。
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」
訳:花も人も、散りどきを心得てこそ美しいという意味です。
ガラシャは、家臣に障子ごしに胸を突かれ、絶命しました。
家臣はガラシャの遺体が残らないよう屋敷に爆薬を仕掛け、火をつけて自害しました。
細川ガラシャは、武士の妻として、キリシタンとして、潔くも壮絶な最期を遂げたのです。
この細川ガラシャの死に様は石田三成にも衝撃を与え、これ以降大名の妻子を人質に取ることをやめたそうです。
細川ガラシャの死を知った忠興は、声を上げて泣いたと言われています。
その悲しみは深く、受洗にあれほど激怒したにも関わらず、教会葬を行ったほどでした。
まとめ:細川ガラシャは信仰と誇りを持って、その人生を全うした
父の謀反が原因で幽閉され、夫の嫉妬心から監視下に置かれ、キリスト教への信仰心を深めた細川ガラシャ。一方で人質となることを拒み、自死を選んだ彼女は、戦国時代を生きた女性として誇り高い最期を迎えました。
簡単にまとめると、
- ガラシャは、織田信長も認める美人だった。
- 父・明智光秀の起こした本能寺の変により幽閉生活を送った。
- ガラシャはラテン語で恩寵・神の恵みの意味
- 最期は家臣の手により自死した
現在、細川邸の跡地には、大阪カテドラル聖マリア大聖堂が建てられており、ガラシャの像や絵が飾られています。
ガラシャの壮絶な人生を思いながら、ゆかりの地を巡ってみるのも良いかもしれません。