藤原宣孝と藤原道長の関係は?紫式部の『源氏物語』は2人のおかげで完成した?
藤原宣孝(不明〜1001(長保3年))は、平安時代中期に活躍した貴族です。
平安時代の女流作家・紫式部の夫としても知られています。
また、2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、佐々木蔵之介さんが演じられることでも話題となっています。
そんな藤原宣孝と藤原道長はどのような関係だったのでしょうか?
この記事では、藤原宣孝と藤原道長の関係性について簡単に解説していきます。
目次
藤原宣孝と藤原道長の関係
藤原宣孝も藤原道長も同じ藤原北家の出身ですが、10親等以上離れており、ほとんど関係はありませんでした。
しかし、藤原宣孝は紫式部との結婚から数カ月後、山城守に任ぜられ出世します。
山城守となった藤原宣孝は、時の権力者であった藤原道長と接点を持つようになりました。
999年の11月には、藤原道長の娘の彰子が一条天皇の女御となるのですが、藤原宣孝はその際に祝いの席の警護を担当しています。
また、同年には豊前国の宇佐神宮への奉幣使にも任じられ、藤原道長から直々に命を受けて一条天皇に拝謁しています。
藤原宣孝の死後、妻・紫式部は藤原道長の愛人となった説がある
藤原宣孝と紫式部は、わずか結婚生活が3年で終わってしまいました。
藤原宣孝が急死してしまったからです。
その後、紫式部は何人かの男性からアプローチされましたが、藤原宣孝のことを思って断っていました。
しかし、藤原道長の愛人だったのではないかとする説もあります。
その根拠として挙げられるのが、貴族の系譜を記した『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』という本です。
この尊卑分脈では、紫式部は「源氏物語作者」「道長妾」と記されています。
「妾」とは愛人のことを指します。つまり、紫式部は藤原道長の妾だと記されているということになります。
しかし、尊卑分脈は、一部の記述の信憑性が低いと指摘されているので、これが確実なものかどうかまでははっきりとしていません。
藤原宣孝と藤原道長がいたから『源氏物語』はできた
紫式部の著書として有名な『源氏物語』ですが、藤原宣孝と藤原道長がいなかったら完成していなかったかもしれないのです。
それくらい、2人は『源氏物語』の完成に関わる重要人物でした。
まず、藤原宣孝は『源氏物語』の制作のきっかけとなった人物だと言われています。
紫式部は、藤原宣孝の死後、その悲しみや将来の不安を紛らわせるために、友人たちと「物語」についての感想を語り合ったり、手紙をやりとりするようになりました。
多くの学者たちの間では、これが『源氏物語』を執筆する大きなきっかけとなったと考えられているのです。
また、藤原道長は『源氏物語』を書き続けていくためのパトロンとなってくれました。
『源氏物語』を書き始めた頃は、紫式部の仲間内で批評し合う程度のものでした。
というのも、当時、紙は非常に貴重なもので、そう簡単に手に入る物ではなかったのです。そのため、紙が手に入ればその都度書く、程度のものでした。
長編にしようとしていたわけではなく、「枡形本」という小さな冊子にして書いていたそうです。
しかし、次第にその評判が広がっていき、藤原道長の元までその評判が届きます。
藤原道長はすっかり『源氏物語』のファンになってしまうのです。
そこで、紫式部を自分の娘の家庭教師として採用するわけですが、それだけではありませんでした。
藤原道長は、『源氏物語』を書くためのパトロンとなってくれたのです。
具体的には、大量の紙や硯の提供や、丁寧な装丁を施したりなどです。
『源氏物語』は、全部で54帖に分かれており、これは400字詰め原稿用紙に換算すると2500枚もの量となっています。
それほどまでの紙を提供してくれる藤原道長がいたからこそ、長編の『源氏物語』が完成したと言っても過言ではないでしょう。
つまり、藤原宣孝と藤原道長がいなければ、『源氏物語』は完成していなかったのかもしれませんね。
藤原宣孝のプロフィール。藤原宣孝はどんな人?
【藤原宣孝のプロフィール】
藤原宣孝(ふじわらののぶたか) 不明〜1001年(長保3年) 享年:不明
父:藤原為輔 / 母:藤原守義の娘
妻:藤原顕猷の娘、平季明の娘、藤原朝成の娘、紫式部
子:隆光、頼宣、隆佐、明懐、賢子(大弐三位)、儀明、藤原道雅室
藤原宣孝は、平安時代中期の公卿・藤原為輔の子として生まれます。
その生年については詳細な記録がなく、はっきりとは判明していません。
藤原宣孝が、歴史上初めて登場したのは、『小右記』の982年(天元5年)正月3日条に左衛門尉として記載されているところでした。
藤原北家出身の貴族として育った藤原宣孝は、数々の要職を歴任していくこととなります。
妻も複数迎えており、中には『源氏物語』の作者として有名な紫式部もいます。
子宝にも恵まれ、全部で7人の子を授かりました。
しかし、紫式部と結婚した後の約3年後、1001年には疫病によって急死してしまいました。
藤原宣孝に関するQ&A
藤原宣孝に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 藤原宣孝と藤原為時の関係性は?
- 藤原宣孝の『枕草子』でのエピソードは?
藤原宣孝と藤原為時の関係性は?
藤原宣孝と、紫式部の父親である藤原為時は、同僚で親しい間柄であったと言われています。
また、藤原宣孝の父・為輔と藤原為時は従兄弟でもあるため、藤原宣孝と紫式部はまたいとこの関係でもありました。
そのため、藤原宣孝と紫式部は、藤原為時の紹介で出会ったのではないかとする説も存在します。
藤原宣孝の『枕草子』でのエピソードは?
藤原宣孝は、『枕草子』にて、清少納言に以下のように話しています。
「あはれなるもの、孝ある人の子。よき男の若きが御嶽精進したる。(中略)なほいみじき人と聞ゆれど、こよなくやつれてこそ詣づと知りたれ」
(『枕草子』115段より)
この段で、清少納言は
「父母を敬う身分の若い男性が、御嶽詣での前に精進している姿は、しみじみと感じられて良い(中略)よほど身分の高い人であっても、御嶽には質素な身なりで参詣するものだと聞く」
と言った後、藤原宣孝に関する噂話を口にするのです。
「藤原宣孝は、『清潔な着物を着て参詣すれば、何の問題もないだろう。御嶽の蔵王権現様がみすぼらしい着物で参れと言ったわけではあるまい』と驚くほど派手な着物を着て、息子とともに参詣したと言います。参詣で藤原宣孝父子を見た人々は、こんな姿の人は見たことがないと驚いたそうです。しかし、参詣から帰って1ヶ月ほどで藤原宣孝は筑前守に任じられたので、『(藤原宣孝の)言葉に間違いはなかった』と評判になりました」
このエピソードから、藤原宣孝のおおらかな人柄が伺えますね。
まとめ:藤原宣孝と藤原道長は『源氏物語』を完成させるための重要人物だった
藤原宣孝と藤原道長はほとんど関係はありませんでした。しかし、2人は紫式部の『源氏物語』を完成させるための重要人物でした。
今回の内容をまとめると、
- 藤原宣孝と藤原道長は同じ藤原北家出身だがほとんど関係はなかった
- 2人とも『源氏物語』を完成させるための重要人物だった
- 2人とも紫式部の才能に惹かれていた
藤原宣孝も藤原道長も、同じ紫式部という女性の才能に惹かれていたという点では、気が合う2人だったのかもしれませんね。