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最澄と空海の違いをわかりやすく解説!関係性は?天台宗と真言宗はどう違う?

最澄(766(天平神護2)or767(神護景雲元年)〜822(弘仁13))は、平安時代初期に活躍した日本の仏教僧です。天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られています。

そして、空海(774(宝亀5)〜835(承和2))も、最澄と同じく平安時代初期に活躍した日本の仏教僧です。真言宗の開祖であり、弘法大師として知られています。

そんな同じ時期に活躍していた最澄と空海ですが、2人はどのような関係性だったのでしょうか?また、天台宗と真言宗にはどのような違いがあるのでしょうか?

この記事では、最澄と空海の関係性や違いなどを簡単に解説していきます。

最澄と空海の関係性は?

最澄と空海は、遣唐使の一員として同時期に唐へと渡っています。
しかし、この時は立場も違えば、乗る船も違ったため、2人はまだ出会っていませんでした。

当時の最澄は、若い仏教界のリーダーといえる存在で、天皇から直々にバックアップを受けて、国費で通訳を連れ、1年で帰ってこられる還学生(げんがくしょう)という立場にありました。

その一方で、空海は一介の無名の僧侶であったため、私費で密教を極めようとする学問僧でした。こちらは長期間の滞在が義務付けられていたのです。

つまり、同じ時期に唐へ向かったものの、帰国時期はバラバラだったというわけですね。

そんな2人がどうして出会ったのか?
コンタクトを取ったのは最澄の方からでした。

最澄は、唐に天台宗を学びに行ったのですが、実際に現地に行ってみると、真言密教のほうが盛んだったのです。

そのため、自身が日本で仏教を広めていくためには、天台宗のみならず真言密教も学ばなければならないと感じるのですが、短期留学生だったため時間が足りませんでした。

最澄が、「もっと勉強をしたかった」と感じていたところに現れたのが空海です。

空海は、唐へ渡った後、その当時の「真言密教の最高峰」と呼ばれていた青龍寺の恵果に学び、免許皆伝のようなものを受けて日本へと帰ってきたのでした。

真言密教の最高峰の学びを受けて帰ってきた空海は、最澄からしてみたら渡りに船です。

早速、最澄は空海に密教を教えてほしいと手紙を送ります。

そこから、2人は手紙のやり取りをしていくようになり、ときには最澄が空海から貴重な密教典籍を借りたりするようになりました。

最澄は、典籍を読んでいく中で、自分が密教を極めるためには、まだまだ学びが足りないということを自覚させられます。

しかし、天台宗の責任者という立場から、簡単に修行のために動けるような身ではありませんでした。

「空海の下へ行って、直接学びたいが行けないから…」という思いから、自身の弟子である円澄らを空海のもとに預けて密教を学ばせたりもしています。

弟子を通して真言密教を学ぼうとしたわけですね。

このように10年の間、手紙のやり取りや典籍の貸し借りが続いた2人なのですが、ある出来事をきっかけに絶縁することとなってしまうのです。

それは、最澄が『理趣釈経』の借用を願い出た時のことでした。

それまで色々な典籍を貸し出してきた空海でしたが、『理趣釈経』に関してはきっぱりと断ったのです。

何故かというと、この『理趣釈経』というものは、真言密教において非常に重要な典籍で、師僧から直接の伝授を受けていない最澄には、これを読む資格がないという理由からでした。

簡単に言うと、

「真言密教の奥義を、師僧から受け取ることなく、典籍の文面だけで学び取ろうとするとは何事だ」

と怒って依頼をつっぱねたわけですね。

そして、さらにここに追い打ちをかけるような出来事が起こります。

それは、最澄の愛弟子・泰範が離反し、空海の弟子となって真言宗の門に入ってしまったことです。

最澄は、泰範に自分の跡を継がせようとしていたくらいですから、相当お気に入りの弟子だったのでしょう。

そのため、泰範に帰山を願う手紙を出しています。

しかし、この手紙の返信をしたのは、泰範ではなく空海でした。

空海は、またしてもきっぱりと断りをいれ、さらには最澄のことを責めるような一文も書いていたそうです。

【最澄からの手紙の内容】

「天台宗と真言宗には優劣はなく何ら相違はないのだ。だから帰ってきてほしい。もう一度一緒に仏道を進もう」

【空海からの返信】

「私は大豆と麦の区別がつけられない愚か者かもしれないが、玉と石の区別がつけられないほどではない。天台宗と真言宗は全く異なるのだ。泰範が真言の教えにひたすらになっていることを責めないでほしい」

以上の2つの出来事がきっかけとなり、最澄と空海の2人はそれ以降絶縁状態となってしまったのでした。

最澄と空海の宗派の違い

最澄と空海は、それぞれ天台宗と真言宗を開宗しています。

そこにはどのような違いがあるのでしょうか?

まず、簡単に違いを見ていきましょう。

【天台宗と真言宗の違い】

以上のように、宗派1つとっても違いがある2人ですが、その他にも出自や開宗後の活動などにも違いがあります。

・最澄と空海の出自の違い

最澄の家系は渡来人系の家系でした。当時、渡来人系の家系は政治において優遇されることが多く、最澄もその流れで何かと優遇される立場でした。

その一方で、空海は特に渡来人系の家系というわけでもない、本当に無名の僧だったのです。

しかし、非常に優秀な人物であったため、遣唐使を通して真言密教を学び、真言宗を開いて徐々に知名度を上げていき、最終的には、最澄と並んで平安仏教を代表する僧となったのでした。

・最澄と空海の開宗後の活動の違い

最澄は、天台宗の道場で弟子を育てながら、仏教の研究を続けていき、後世に伝わる様々な学問を残しました。

一方空海は、修行はもちろん行っていましたが、その傍らで、土木工事や勉強ができる場所を作っており、人々の生活が豊かになるような環境を作っていきました。

様々な違いがある2人ですが、仏教を通して、少しでも多く苦しむ人々を救いたいという気持ちだけは同じだったと言えるでしょう。

最澄と空海は何した人?簡単に解説

・最澄

最澄は、天台宗の開祖です。

19歳の時に東大寺にて正式に僧になりましたが、当時の仏教のあり方に不満を抱き、故郷に帰って比叡山寺(のちの延暦寺)を建てて、12年もの間1人で修行をしました。

その後、桓武天皇と出会い、最澄は全面的なバックアップを受けることとなり、遣唐使として本格的な天台宗を学びに唐へと渡ります。

そして帰国後に、天台宗を開き、全国的に布教していくこととなりました。

死後、朝廷から「伝教大師」という諡(おくりな)を与えられています。

・空海

空海は、真言宗の開祖です。

20歳を超えたあたりで出家し、最澄と同じ時期に遣唐使になり唐へ渡りました。

そこで、真言密教を学び、帰国後は真言宗を開きます。

真言宗を全国的に布教していたことの他にも、空海は様々な活動をしています。

庶民教育のために、綜芸種智院という学校を建てたり、讃岐の満濃池をはじめとし、各地で井戸や池を掘り、民衆が住みやすい環境を整えたりしました。

さらに、書道にも優れており、その腕前は三筆の1人にも数えられているほどです。

死後、朝廷からは「弘法大師」という諡を与えられています。

最澄と空海に関するQ&A

最澄と空海に関するQ&Aを簡単に解説していきます。

  • 最澄と空海が伝えた「密教」とは?
  • 最澄と空海はいつ遣唐使になった?
  • 最澄と空海の大師号は?

最澄と空海が伝えた「密教」とは?

密教とは、インドで生まれた仏教の教えの中で、秘密の教義や仕来り儀礼を師匠から弟子へ口伝で伝える教えのことです。

日本へは、最澄や空海、円仁、円珍が伝えました。

ちなみに、真言宗の密教は「東密」、天台宗の密教は「台密」と呼ばれており、それぞれの宗派で密かに伝えられていっています。

最澄と空海はいつ遣唐使になった?

最澄と空海は同じ時期に遣唐使として唐へと渡っていますが、帰国時期が異なります。

最澄:804年(延暦23年)7月〜805年(貞元21年)5月

空海:804年(延暦23年)7月〜806年(大同元年)10月

なぜ帰国時期が異なるのかと言うと、2人の留学僧としての立場が異なるからです。

最澄は、国費で通訳を連れ、1年以内に帰国する還学生という立場にあり、その一方で空海は、私費で密教を極めようとする学問僧でした。空海の方は長期間の滞在が義務付けられていました。

以上のことから、同時期に遣唐使となり唐へと渡った2人でしたが、帰国時期が異なるのです。

最澄と空海の大師号は?

諡(号)とは、天皇や貴族らに生前の功績を称えて贈られる名前のことです。

そして、僧侶に対して送られる「大師号」は、「人を教え導く、偉大な指導者」といった意味合いが強いです。

平安仏教を牽引していった最澄と空海の2人にも大師号が贈られています。

最澄:伝教大師(866年に清和天皇から)

空海:弘法大師(921年に醍醐天皇から)

ちなみに、最澄に贈られた「伝教大師」という大師号が、大師号の最初だと言われています。

まとめ:最澄と空海は手紙のやり取りをしていく中で、絶縁するほど仲が悪くなった

最澄と空海は、最初は手紙のやり取りをしたり、典籍の貸し借りをしたりと、お互いに切磋琢磨しあう良い関係を築いていました。しかし、最終的には絶縁するほど仲が悪くなってしまいました。

今回の内容をまとめると、

  • 最澄と空海は同時期に遣唐使として唐へと渡っている
  • 最澄と空海は、帰国後に最澄から空海へ真言密教を学ぶためにコンタクトをとった
  • 最澄と空海は手紙のやり取りや典籍の貸し借りをするなど、良い関係だった
  • 最澄と空海は、典籍の貸与拒否や、弟子の移籍などを経て2人の仲は悪くなってしまった

最澄がもう少し長い期間留学して、真言密教について学ぶことができていたら、空海との関係ももう少し良いものになっていたのかもしれませんね。

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最澄「天台宗」 空海「真言宗」
宗祖 最澄 空海
諡号(おくりな) 伝教大師 弘法大師
開宗年 806年(延暦25年) 810年(弘仁元年)
本山年 比叡山延暦寺 高野山金剛峯寺
本尊 釈迦如来(一般的に) 大日如来
経典 法華経 大日経、金剛頂経
教え 円、禅、戒、密 密教
支持した天皇 桓武天皇 嵯峨天皇
奈良仏教との関係性 敵対 調和