木戸孝允の死因はがん?心血管障害?お酒の飲み過ぎ?西郷隆盛も関係してる?
木戸孝允:1833年(天保4年)〜1877年(明治10年)は、幕末から明治時代にかけて活躍した政治家です。
明治維新の指導者として、西郷隆盛、大久保利通、とともに「維新の三傑」の一人に称される存在です。
木戸孝允は1877年(明治10年)にその生涯に幕を下ろします。1877年といえば、同じ維新の三傑に称されている西郷隆盛の亡くなった年と同じです。木戸孝允の死因と、西郷隆盛の死は関係はあるのでしょうか?
また、木戸孝允は病死したということは分かっていますが、実は病名がはっきりとしていません。
今回は、木戸孝允の死因は一体なんなのか?最後の様子はどうだったのか?また西郷隆盛と木戸孝允の死は関係しているのか?について解説していきます。
目次
木戸孝允の死因は何?
木戸孝允の死因は何だったのでしょうか?病死であることは確実なようですが、病名などの詳しいことは、実はわかっていません。近代と区分される時代の事でも、わからないことがまだ多くあるのには驚きです。
【木戸孝允の死因と考えられていること】
- 胃がん
- 大腸がんからの肝臓転移
- 心血管障害
- お酒の飲み過ぎによる、アルコール性肝硬変
ここでは、木戸孝允の詳しい死因は何だったのかを、様々な可能性を見ていきましょう。
木戸孝允の死因はがん?
木戸孝允の死因は、「がん」だったとの説が、現在最も有力です。
胃がん説が有力でしたが、近年では大腸がんからの肝臓転移説も有力視されるようになっています。
【胃がん説の根拠】
- 木戸孝允は『極めて難治の胃病』との診断結果が、新政府付きのドイツ人医師ウィルヘルムシュルツの「明治天皇紀」に記されていたこと。
- 木戸孝允は『全く胃癌にて死去したのである』と語った記録が、木戸孝允と関係の深かった陸軍中将の三浦梧楼の『観樹将軍回顧録』に記されていること
【大腸がんからの肝臓転移説の根拠】
- 木戸孝允は『肝臓の腫物の病気にかかった』との記事が、当時の読売新聞に載っていたこと。
- 木戸孝允は「肝臓肥大症となる」との記事が、当時の東京日日新聞に載っていたこと。
- 『慢性的な腹痛と下痢が続いている』と、木戸孝允の日記に残されていたこと。
- 『肝臓の腫瘍がいよいよ肥大している』『膿と血液が混じった便』「容体は危険な状態」との内容が、日本人医師三名の連盟の診断書「木戸顧問容態」に、亡くなる5日前の日付で、記されていたこと。
以上の根拠を比べてみると、どちらの方が有力な説だと考えられるでしょうか。
診断された時期を比べて、亡くなる直前に診断した結果の「肝臓の腫瘍(がん)」の方が、亡くなる原因であったと考える方がスムーズです。
「慢性的に腹痛と下痢が続いている」との木戸孝允本人の日記の内容も信頼性が高いと考えてよいでしょう。
ここから、まずは消化器系のがんに罹患し、それが進行して最終的に肝臓がんに至ったと考えても問題なさそうです。
胃がんも大腸がんも早い段階では自覚症状はほとんどなく、かなり進行してから腹痛や血便の症状がみられるそうなので、木戸孝允の原因ががんでだとすれば、かなり早い段階から体が病に蝕まれていたのではないでしょうか。
木戸孝允の死因は心血管障害?
木戸孝允の死因の候補の一つが「心血管障害」です。
心血管障害とは、心臓または血管に生じる病気のことです。現代日本でも、65歳以上の女性における死亡原因の第1位となっている疾患です。木戸孝之は、心血管障害の一つである、「急性心不全」で亡くなったとの説があります。
この説の根拠の一つが木戸孝允の口内環境です。
木戸孝允は、自身の日記の中で常に歯痛に悩んでいたことが記されています。
明治に入り、アメリカ人歯科医師セント・ジョージ・エリオット博士によって治療を受けた際には、一日9本も抜歯せざる得ないほど虫歯が進行しており、38歳で入れ歯を使用しなければいけない程でした。
木戸孝允の口内環境は、非常に悪かったと考えて間違い無いでしょう。
こうした記録と、近年明らかになった「心不全にも歯周病やプラークが関与している」ことを踏まえると、木戸孝允の死因が急性心不全であったとの説も否定できないように思えます。
木戸孝允の死因はお酒の飲み過ぎ?
木戸孝允は「アルコール性肝硬変」で亡くなったとの説もあります。
無類の酒好きだった木戸孝允ですから、アルコールが原因で亡くなったとされる説が浮上したのだと思います。
しかしながら、肝硬変の症状は、腹水や吐血などとされており、木戸孝允の最後の様子とは一致しない部分が多く見られます。
アルコール性肝硬変が木戸孝允の死因である可能性は低いと考えてもよさそうです。
木戸孝允は数々の病に苦しんでいた
木戸孝允は、明治維新を迎えた頃から体の不調に悩まされるようになったと言われています。胃痛や下痢、歯痛などです。さらに1873年(明治6年)には落馬(馬車の転倒との説もあります)により、脳挫傷を起こし、ひどい頭痛を抱えることになります。この事故により左下肢には麻痺が残ってしまいました。
常に体が不調を訴えている状態では、精神状態も安定しなくなってきます。
「木戸孝允は、非常に物事に心配するようになり、不眠症状を訴えるようになった」と伊藤博文が語った記録が残っているほどです。
木戸孝允は、もともと病弱な少年時代を過ごしたともいわれているので、頑丈ではない体で政権の調整役として苦労の絶えない多忙な日々に、心身ともに多大なダメージが蓄積されていたのかもしれませんね。
【木戸孝允の持病とされるもの】
- 腹痛
- 下痢
- 頭痛
- 不眠
- 左下肢麻痺
- 歯痛
こんなに持病を抱えていたら、日々の生活もままならないほど辛い時があるでしょうね。
木戸孝允の最後。
木戸孝允は1877年(明治10年)に現代の京都市の別邸で生涯を閉じます。享年45歳でした。
木戸孝允の最後は、西南戦争の最中に駆けつけた大久保利通の手を握り締めながら、この世を去ったと言われています。同じ維新の三傑に称された、大久保利通と西郷隆盛、二人に喝を入れるような発言をしたとも言われています。
木戸孝允は西郷隆盛を救おうとしていた?
木戸孝允が亡くなった1877年(明治10年)、時を同じくして西郷隆盛が西郷戦争で亡くなります。
【1877年の年表】
- 2月 西南戦争が勃発。木戸孝允は「西郷討伐」に名乗りを上げる。
- 5月 木戸孝允の病気が急激に悪くなり、京都で他界。
- 8月 西郷隆盛が他界。西南戦争が終結。
木戸孝允は、最後まで西郷隆盛の事を気にかけていたようです。
西南戦争の勃発を、木戸孝允は京都の地で知りました。明治天皇の行幸に従うために、体調不良を我慢して東京から京都へ赴いていたのです。木戸孝允は、日に日に悪化する自分の体に、先は長くない事を感じていたのかもしれません。
「どうせ死ぬならば、西郷に説得して、討たれるなら大往生」
と、西郷討伐の総大将として名乗りを上げたと言われています。
しかし、木戸孝允の病気の進行は、本人想像よりも進んでいました。5月の始めころには、長年書き続けていた日記も書けなくなっています。そして、京都から出ることなく、大久保利通に手を握られながら亡くなるのでした。
その際、昏睡状態だった木戸孝允が突然、「西郷、もう大抵にせんか」と呟いたといわれています。明治政府と西郷側の両方を案じる言葉です。最後の最後まで、調整役として献身した人物だったのですね。
まとめ:木戸孝允の死因は、大腸がんの肝臓転移が有力。病の中最後まで、西郷隆盛を救おうとしていた。
木戸孝允の死因は病死であることが確実です。病名は、「大腸がんからの肝臓転移」が最も有力であると考えられます。また、最後まで西南戦争の盟主となってしまった西郷隆盛のことを気にかけていました。
今回の内容をまとめると、
- 木戸孝允は病死。病名は「大腸がんからの肝臓転移」が有力である
- 木戸孝允の晩年は、数々の病に苦しんでいた
- 木戸孝允は、最後まで西郷隆盛のことを気にかけていた
最後の最後まで木戸孝允の気力は尽きていなかったように感じます。病魔に侵されていなければ、その後の木戸孝允はどのような働きををしていたのだろうと、偲ばれる人物の一人ですよね。