北条政子の家系図を簡単に解説!兄弟は?子孫は現在まで続いている?

北条政子の家系図を簡単に解説!兄弟は?子孫は現在まで続いている?

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北条政子1157年(保元2年)〜1225年(嘉禄元年)は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻として有名です。

2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、小池栄子さんが北条政子を演じることになっております。

鎌倉幕府で執権を務めた北条家の出身でもある北条政子の家系図は、どのようなものなのでしょうか?この記事では、北条政子の家系図について簡単に解説していきます。

北条政子の家系図をわかりやすく解説!

北条政子は、北条時政の長女として生まれました。母親は未詳となっています。

鎌倉幕府の執権として権力を持っていく北条家でしたが、政子が生まれた当時はまだ伊豆の一豪族でしかありませんでした。

北条政子の家系図

北条政子の夫は源頼朝

北条家は、当時は伊豆一豪族にすぎませんでした。

源平合戦で敗れ、罪人として伊豆に流されてきた源頼朝の監視を任せられることになり、そこから頼朝と関係を築いていくことになります。

そして、北条政子は源頼朝と恋に落ち、二人は結婚することになります。
結婚を決めたとき、父の北条時政や周囲からものすごい反対をされましたが、それでも政子は頼朝と一緒になることを決めました。

北条政子は源頼朝を支え続け、幕府が開かれた際には御台所みだいどころと呼ばれるようになり、源頼朝の死後も幕府を支えて、尼将軍と呼ばれるようになりました。

北条政子の弟は北条義時

北条政子には兄弟がたくさんいました。
腹違いの兄弟も含めると8人兄弟になります。

その兄弟には、北条家の執権としての立場を確固たるものにしたことで有名な北条義時も存在します。

北条政子と北条義時は腹違いの兄弟でしたが、供に頼朝を支え続けたという共通点があります。

また、父北条時政が自分の地位を守るために暴走してしまった際も、二人は協力して父を追放することをしています。

このように、北条政子と北条義時はお互いに信頼しあっていたと言えるでしょう。

北条政子に子供は何人いた?

北条政子と源頼朝の間には子供が4人いました。

しかし、この子供達はそれぞれ、若くして亡くなっています。

【北条政子と源頼朝の子供たち】

  • 大姫:若くして病死
  • 源頼家:暗殺
  • 三幡:若くして病死
  • 源実朝:暗殺

源頼家みなもとのよりいえは、北条政子の実家である北条家によって暗殺されました。
源実朝みなもとのさねともは、実の兄である源頼家の子供 公暁くぎょうに暗殺されてしまいました。

公暁は将軍の座を狙っていたようです。

このように、北条政子には子供が4人いたものの、全員が北条政子より先に亡くなってしまったのです。

北条政子の子孫は現在も続いている?

北条政子と源頼朝の間に生まれた4人の子供たち。

その子供達は子孫を残していったのでしょうか?
ここでは、北条政子の子孫がどうなっていったのかを簡単に解説していきます。

北条政子の子供も孫も早くに命を落とした?

北条政子の4人の子供のうち、子供を授かったのは、長男である源頼家だけです。

先程もお伝えしたように、北条政子の子供達はみな、政子よりも先に亡くなってしまっています。

それでは、孫はどうだったのでしょうか?

北条政子の孫にあたる、源頼家の子供は全部で5人いました。

【源頼家の子供】

  • 一幡
  • 公暁
  • 栄実
  • 禅暁
  • 竹御所

しかし、この5人の孫たちもそれぞれ殺害されてしまったり、自害に追い込まれてしまったりと非業の死を遂げます。

そのため、誰も子供を残すことが出来ずに、北条政子と源頼朝の血筋は完全に断絶してしまったのです。

日本で初めての武家政権を確立した、源頼朝とその妻である北条政子の血筋が断絶してしまっているなんて、なんだか切ないですね。

北条政子の子孫は現在も続いている?

北条政子の子供も孫も早くに命を落としてしまい、子供を残せたものがほとんどいなかったため、源頼朝と北条政子の子孫は現在まで続くことなく断絶してしまいました。

源頼朝には北条政子には、ただ一人だけ庶子として認められていた子供がいました。

それが妾との間の子である貞暁じょうぎょうです。

しかし、貞暁は将軍の座につくことなく、そのまま出家し、子供を残すことなく亡くなっています。

そのため、源頼朝の血筋も完全に断絶してしまっています。

北条政子と戦国武将の北条早雲に繋がりはある?

戦国時代に、北条早雲という武将がいました。

北条政子と同じ名字を持つこの人物は繋がりがあるのかと思いきや、この間には血縁関係はないとされています。

現代では、北条政子の北条氏は「執権北条氏」、北条早雲の北条氏は「後北条氏」と呼ばれています。

北条早雲は、元々は北条氏ではなく、伊勢氏と名乗っていました。

伊勢氏は、伊勢平氏を祖とした家格としても大名にふさわしいものでした。

二代目の氏綱のときに北条氏に改姓します。

なぜ家格の高い姓から北条氏に改姓したのかというと、かつて相模国を支配した執権北条氏と同族であることを顕示して、相模国を支配することの正当性を主張するためだったのではないかとされています。

また、二家の家紋は、両方とも三つ鱗を使用しています。

北条という名も、家紋も非常に似ていることから、後北条氏は執権北条氏の子孫なのではないか?と誤解されることもあるようです。

北条家の家紋については、こちらの記事で詳しく解説しております。

>>北条家の家紋「三つ鱗」執権北条氏と小田原北条氏も使用したその由来と意味は?

北条政子は悪女だったのか?

北条政子は、日本三大悪女の1人だと呼ばれることがあります。
それはなぜなのでしょうか?

ここでは、北条政子が悪女だと言われている理由についてを簡単にご紹介していきます。

北条政子は嫉妬深かった?

北条政子は非常に嫉妬深かったという話があります。

当時は、一般的に正妻の他に複数の妾を持ち、より多くの子孫を残すことが普通とされていました。
源頼朝も例に漏れず、北条政子の他に複数の妾がいたとされています。

しかし、北条政子は源頼朝が自分以外の女と関係を持つことを許せませんでした。

特に政子の嫉妬深いエピソードとして挙げられるのが、亀の前という女性とのことです。

亀の前は、北条政子が源頼家の妊娠中に、源頼朝に寵愛されていた女性です。

「自分が妊娠しているのに、他の女と浮気するなんて!」

と北条政子は怒り、牧宗親に亀の前の住んでいる伏見広綱の邸の打ち壊しを命じました。

愛人の家を壊してしまったわけですね。

亀の前はなんとか逃げ出しましたが、このことを知った源頼朝は、牧宗親の髷を切り落とすという処罰を与えています。

しかし、これだけでは満足しなかった政子は、伏見広綱を遠江国に流罪にしてしまいます。

北条政子が、いかに徹底的に自分以外の女を排除しようとしていたかが伺えます。

このように、北条政子の嫉妬がすごかったために、源頼朝は妾に会いにいくのに隠れてこそこそと行っていたようです。

その結果、子供をたくさん授かることが叶わなかったわけですね。

北条政子は鎌倉幕府を乗っ取ろうとしていた?

源頼朝の死後、鎌倉幕府は執権北条氏が権力を持つようになります。

執権北条氏と言えば、北条政子の実家です。

実は、北条政子は北条氏が権力を持つように動いていたのではないかという説もあるのです。

嫉妬により、自分以外の源頼朝の女性関係の一切合切を排除していた北条政子ですが、その結果、頼朝の子供はほぼ政子との子供だけとなりました。

その子供達も、次々と早くに命を落としています。

そして、源氏の嫡流が途絶えると、北条政子が実権を握ることになるのです。

北条政子の死後は、そのまま執権北条氏が代々権力を握っていくことになりました。

周りが次々と死んでいく中、北条政子だけが生き残り、実権を握る。

こんなに出来すぎた話があるでしょうか?

このことから、北条政子は実は鎌倉幕府を乗っ取ろうとしていたのではないかと考える人もいるのです。

北条政子は演説によって御家人をまとめあげた?

悪女とまで呼ばれていた政子でしたが、実は演説によって御家人をまとめあげ、戦を勝利に導いたことがあります。
ここでは、北条政子の演説についてを簡単に解説していきます。

北条政子の演説で承久の乱は勝利した?

1221年(承久3年)に、幕府と後鳥羽上皇の溝が深まった結果、承久の乱が勃発します。

上皇が挙兵したと聞いて、さすがの幕府の御家人たちも恐れ、動揺しました。
そこで北条政子が動きます。

北条政子は御家人たちに向けて、最後の詞と呼ばれる演説を始めます。

【北条政子の演説】

「故右大将の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義を討って、三代将軍の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」

現代訳:
故右大将(頼朝)が朝敵を征伐し、鎌倉に幕府を創って以来、官位といい、俸禄といい、その恩は山よりも高く、海よりも深いものであり、感謝の気持ちは浅くないはずです。しかしながら、反逆者が事実でないことを訴え、道理から外れた院宣が発せられました。名声を大切にしようと思う者は、足利秀康、三浦胤義を討ち取り、源氏三代の将軍(頼朝・頼家・実朝)が遺したものを最後まで守りなさい。ただし、後鳥羽上皇の元に参ろうと思う者は、今すぐ申し出なさい。

この北条政子の演説が御家人たちの心に響き、団結や奮起を促しました。

そして、見事幕府側が承久の乱に勝利するのです。
この北条政子の演説がなければ、御家人たちは団結することなく、戦に敗れてしまっていたのかもしれませんね。

北条政子の子供は早死にしており、子孫は断絶している

北条政子の子供は4人いましたが、どの子も政子よりも早くに命を落としてしまいました。

源頼家が唯一子供を残していましたが、その子達も早くに亡くなってしまい、子供もいなかったことから、子孫が現在まで続くことなく断絶してしまいました。

今回の内容をまとめると、

  • 北条政子と源頼朝の間には子供が4人いた
  • 4人の子供のうち、子供を残せたのは頼家ただ一人で、他は子供を残す前に亡くなった
  • 北条政子に孫は5人いたが、やはりどの子も子供を残す前に亡くなってしまい、北条政子の子孫は断絶した
  • 源頼朝にも妾が複数人いたが、北条政子がことごとく排除してしまった

鎌倉幕府をつくった源頼朝、夫がつくったものを守ろうとした北条政子。日本初の武家政権をつくりあげた二人の子孫が断絶してしまっているのは、なんだか寂しい気がしますね。

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