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前田利家の家系図を簡単に解説!子孫は現在も続いてる?加賀藩はいつまで?

前田利家の家系図を簡単に解説!子孫は現在も続いてる?加賀藩はいつまで?

前田利家(1539(天文7)〜1599(慶長4))は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将です。
前田利家は「加賀百万石の祖」とも呼ばれ、前田家繁栄の礎を築き上げました。
そんな前田利家の子孫は現在も続いてるのでしょうか?
この記事では、前田利家の家系図を見ながら、前田利家の子孫はどうなったのか?加賀藩はいつまで続いたのか?について簡単に解説していきます。

前田利家の家系図をわかりやすく解説!

前田利家の家系図

前田利家の家族構成

  • 前田利家(まえだとしいえ)
  • 1539年(天文7年)〜1599年(慶長4年)  享年:62歳
  • 父:足利利昌
  • 母:長齢院
  • 正室:まつ
  • 側室:寿福院、隆興院、金晴院、明運院、逞正院
  • 子:幸、利長、簫、摩阿姫、豪姫、与免、利政、千世、知好、利常、利孝、利貞、他複数名…

前田利家は、1539年(天文7年)に尾張国(現在の愛知県)で、前田利昌と長齢院の四男として生まれました。
そして、1558年に前田利家は従妹であるまつと結婚。
このとき、利家は21歳、まつはなんと12歳という年の差婚でした。

まつは、幼少期に自分の父親が亡くなって以来、前田利家の父親である利昌に養育されていました。

つまり、2人は同じ屋根の下で暮らしていたことになります。
一緒に暮らしているうちに自然とお互いに惹かれ合っていったのでしょう。
2人は当時としては珍しい恋愛結婚でした。

その後、前田利家はまつとの間に子供を11人(2男9女)ももうけ、さらに側室との間にも7人もの子供がいるのです。

前田利家は子宝に恵まれた人物であったと言っても過言ではないでしょう。

前田利家の妻・まつは戦国時代で一番子供を産んだ?

前田利家は、正室のまつとの間に2男9女の11人もの子供をもうけました。
実はこの11人という数は、戦国時代としては伊達晴宗の正室・久保姫と並んで最も多い数だと言われています。
それほど、前田利家とまつが仲が良かったという証でもあるでしょう。

まつは生涯、利家のため、前田家のために尽くします。
自分の娘を豊臣秀吉の養女に出したり、徳川家にかけられた謀反の疑いを解くために、自ら人質となって江戸に下り、14年もの間江戸で暮らしたりしたのです。

まつは、江戸時代における諸大名妻子江戸居住制の第一号であったと言われています。

前田利家の子孫は現在も続いている?

正室・まつとの間に11人もの子供をもうけるなど、子宝に恵まれた前田利家でしたが、その子孫は現在も続いているのでしょうか?
ここでは、利家の子孫について簡単に解説していきます。

【現在も続いている前田利家の子孫】

  • 前田利祐
  • 前田利宣
  • 今上天皇

前田家の現当主は?

前田利家は子供が多かったため、前田家の子孫は途切れることなく、現代まで続いています。

その中でも、加賀藩の系統の当主は前田利祐さんが現在務めていらっしゃいます。(18代目)

前田利祐さんは、学習院大学を卒業後、日本郵船に入社。
そして、日本郵船のグループ会社である「八馬汽船」の常務取締役に就任しました。
その後は、全国石川県人会連合会の会長を務めておられます。

そして、実は利祐さんは、徳川家の現当主である徳川恒孝さんと繋がりがあるのです。
というのも、2人は学習院大学、日本郵船出身の先輩後輩の関係なのです。

利祐さんのほうが5年先輩のようです。
日本郵船在籍中には同じ部署で働いていたこともあるようで、一緒に上司から叱られたなんてこともあったとか。ちなみに、そのとき2人を叱った上司は、

「前田と徳川を呼びつけるなんて、太閤・豊臣秀吉さん以来俺だけだろうなぁ」

と言って、喜んでいたそうです。

前田利家の子孫はイノダコーヒの社長?

現当主である前田利祐さんには、前田利宣さんという息子さんがおられます。

何もなければ、前田利宣さんは次期当主になられるでしょう。
そして、この利宣さんは現在、京都でイノダコーヒというチェーン店を経営されています。

このイノダコーヒの本店は、映画などにも出ておりとても芸術界との関わりが深く、谷崎潤一郎(作家)や池波正太郎(作家)、BONNIE PINK(歌手)などが常連客として訪れていたようです。


前田利家の子孫は天皇家にもいる?

実は、前田利家の子孫として今上天皇もいらっしゃいます。

そこに繋がるきっかけとなったのが、前田利家の子供の千世です。

千世の子孫が嫁入りを重ねていった結果、最終的に天皇家に嫁入りすることになったのです。

【前田利家から今上天皇までの流れ】

前田利家・まつ→ 千世(細川忠隆室)→ 徳(西園寺実晴室)→ 公満ー女(久我通名室)→ 広幡豊忠→ 女(正親町実連室)→ 公明→ 実光→ 雅子(仁孝天皇内侍)→ 孝明天皇→ 明治天皇→ 大正天皇→ 昭和天皇→ 明仁上皇→ 今上天皇

前田利家の祖先は菅原道真?

前田利家の祖先は平安時代に活躍した菅原道真という話があります。

その根拠となるのが、前田家の家紋です。
加賀前田家の家紋は「加賀梅鉢」という梅の花がモチーフの家紋です。
この梅鉢紋は、菅原道真が梅の花を好んでいたことから、その後菅原氏が使い始めたことに由来します。
なぜその菅原氏の使用していた梅鉢紋を前田氏が使用しているのかというと、前田氏はその出自を菅原氏だと自称していたからなのです。

つまり、自分の先祖が菅原氏だと証明するために梅鉢紋を採用していたということですね。
しかし、実際は記録がないため確証はありません。

前田利家の子孫は徳川将軍家と親戚だった? 

前田利家の子供である利常は、第二代将軍の徳川秀忠の娘を正室に迎えます。

そして、それ以来というもの、江戸時代の前田家当主の半数以上が将軍家、徳川御三家、松平家などの徳川一門から嫁を迎えているのです。

つまり、前田利家の子孫と徳川将軍家は親戚だったということになります。
前田家と徳川家の繋がりは強かったようで、歴代藩主の名前は当時の将軍から一字を拝領していたくらいでした。

  • 4代光高: 3代将軍家光から「光」
  • 5代綱紀: 4代将軍家綱から「綱」
  • 6代吉徳: 5代将軍綱吉から「吉」
  • 7代宗辰: 8代将軍吉宗から「宗」
  • 8代重煕: 9代将軍家重から「重」
  • 9代重靖: 9代将軍家重から「重」
  • 10代重教:9代将軍家重から「重」
  • 11代治脩:10代将軍家治から「治」
  • 12代斉広:11代将軍家斉から「斉」
  • 13代斉泰:11代将軍家斉から「斉」
  • 14代慶寧:12代将軍家慶から「慶」

元々、前田利家は豊臣政権の五大老で、豊臣家と関係が深かった前田家でしたが、このように徳川将軍家との繋がりを強くすることによって江戸時代を生き抜いていったのでしょう。

前田利家と前田慶次の関係は?

戦国武将の中には、前田利家と同じ名字を持つ有名な人物がもう一人います。
それが前田慶次です。

同じ苗字であることから、なにか関係があるのではないかと考える人も多いでしょう。

実は、前田利家と前田慶次は全く血は繋がっていないのです。

しかし、前田慶次は前田利久を養父としていました。

利久というのは、前田利家の兄であり、前田家の長男だった人物です。

利久は体が弱く、後継者がいませんでした。そのため、慶次を養子に迎えたのです。

つまり、利家からみると、慶次は義理の甥にあたることになります。

前田利家の加賀藩はいつまで続いた?

百万石以上の巨大な藩であった加賀藩ですが、利家が起こしたこの藩はいつまで続いたのでしょうか?ここでは、加賀藩について簡単に解説していきます。

加賀藩は江戸時代に4つに分かれた?

1600年に起きた関ケ原の戦い以降120万石にまで増えた加賀藩でしたが、江戸時代に入ると少し形を変えることになります。

3代藩主利常の際に、支藩を作りました。
支藩とは、藩主一族の中で本家の家督相続ができない人に、本藩の領地を割くなどした所領にて新たに成立させる藩のことを指します。
つまり、支藩とは簡単に言えば分家のようなものです。利常は以下のように支藩を作りました。

  • 利常の次男・利次
  • 越中富山藩 10万石
  • 利常の三男・利治
  • 大聖寺藩 7万石(後に10万石)

また、前田利家の五男・利孝は、大坂の陣での活躍ぶりを徳川幕府に認められ、1万石を与えられます。これが、七日市藩となります。

こうして、前田家は加賀藩、越中富山藩、大聖寺藩、七日市藩の4つの流れに広がることになりました。

加賀藩は廃藩置県によって金沢県に?

支藩も作って、安泰と思われていた加賀藩でしたが、江戸時代は幕府から命じられた土木事業(普請)に苦しめられ、藩の財政もあまり良くありませんでした。

それでもなんとか続けていたのですが、明治に入り廃藩置県が起こり、加賀藩は廃止されてしまいました。加賀藩が廃止された代わりにできたのが金沢県です。

その後、ここが現在の石川県へとなっていきます。

まとめ:前田利家の子孫は現在まで続いており、イノダコーヒの社長となり活躍していた

前田利家はまつとの間に11人の子供をもうけるなど、子宝に恵まれました。そのため、様々な場所に子孫が残ることとなり、その子孫は現在まで続くこととなりました。
そして、子孫には、今上天皇やイノダコーヒの社長などがいました。

今回の内容をまとめると、

  • 前田利家は従妹であったまつと結婚した
  • 前田利家とまつは、2男9女の11人もの子供をもうけた
  • 前田利家は、側室との間にも7人の子供がいた
  • 前田利家の子孫には、将軍家とゆかりのある者や、今上天皇に続く者、イノダコーヒの社長などがいた
  • 利家が起こした加賀藩は廃藩置県によって廃止され、金沢県になった

戦国時代では、どんなに子供を残しても親が戦で負けたら殺されてしまっていました。

それを考えると、前田利家がいかに戦上手であったかということが伺えます。
前田利家が無茶をしたときはまつがフォローをしていたようですし、この両親であったからこそ後世にたくさんの子孫を残すことができたのでしょうね。

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