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藤原氏の子孫は現在も続いている?藤原氏の原点は誰?現在の子孫の苗字は?

藤原氏の子孫は現在も続いている?藤原氏の原点は誰?現在の子孫の苗字は?

日本史を勉強していると、藤原氏という名前を目にすることが割と多いのではないでしょうか?
代表的なところを挙げると、藤原道長ふじわらのみちなが藤原不比等ふじわらのふひとなどがいますね。

この藤原氏は誰から始まったのでしょうか?また、現在も子孫が続いているのでしょうか?
今回は、藤原氏の子孫は現代も続いているのか?藤原氏の原点は誰なのか?現在も続いている子孫の苗字は何か?を解説していきます。

藤原氏の祖は中臣鎌足

まず、藤原氏の原点となる人は誰なのでしょうか?それは、大化の改新のときに活躍した中臣鎌足(614~669)だと言われています。藤原氏の始まりからその後をここでは解説していきます。

中臣鎌足なかとみのかまたり
出身地:大和(現在の奈良県)
生誕:614年(推古22年)〜 669年(天智8年):享年55歳

幼少期は中臣鎌子なかとみのかまこと名乗っていました。
645年に中大兄皇子なかのおおえのおうじ(626~672)と供に乙巳の変いっしのへんを決行。
この功績から内臣(うちつおみ)に任じられ、軍事指揮権を握りました。
その後も中大兄皇子の側近として、大化の改新という政治改革を行っていきます。
そして、白村江の戦い(663年)などを経て、様々な功績を認められ、臨終の際に天智天皇てんぢてんのう(626~672)から大織冠と藤原姓を賜りました。
大織冠は当時の最高冠位で、日本史上で中臣鎌足以外に賜った人物はいません。

こうして藤原氏の祖である、藤原鎌足が誕生したのです。藤原氏の原点は飛鳥時代まで遡ることになります。

中臣鎌足から続く藤原氏の「五摂家」

その後は、藤原鎌足の子の藤原不比等ふじわらのふひと(659~720)が後を継ぎ、藤原氏はそのまま続いていくのだと思いきや、三代目で4つの家に分裂します。
それが藤原四家(南家・北家・式家・京家)と言われているものです。
その中でも北家が力を持ち始め、藤原氏の嫡流と言うと北家を指すようになります。
そして、平安時代の中期には有名な藤原道長ふじわらのみちなが(966~1028)を筆頭に最盛期を迎えるのです。

しかし、その後上皇による院政が続いたり、武士が台頭してきたりと、公家が政治の表舞台に立つのが困難な世の中になっていきます。

そこで権力維持のために動いたのが、平安時代末期の公家・藤原忠通ふじわらのただみち(1097~1164)です。
藤原忠通は息子の基実もとざね1143~1166)を平清盛たいらのきよもり(1118~1181)の娘と結婚させて、平家と縁戚関係を結ぶことにしました。

このとき、基実が近衛姓を名乗ったことで、近衛家が成立します。
鎌倉時代になると、藤原氏の子孫たちは摂政・関白の職を独占するため、跡継ぎが途絶えるたびに分家して摂政・関白になれる家を増やしていきました。

まず、近衛家が長男筋の近衛家と六男筋の九条家に分かれます。
そして、そこからさらに、近衛家から鷹司家が、九条家からは二条家と一条家が分家しました。
鎌倉時代末期には、この5つの家が「五摂家」として摂政・関白になる家だと固定されたのです。

この五摂家は、明治維新で摂政・関白の制度が廃止されるまで、ほぼずっと独占してこの職に就いてきました。
廃止後は、華族の中でも一番上の爵位である「公爵」になっています。そして、そのまま現在まで子孫は続いているのです。

藤原氏は苗字ではない!?

名前を書くときに「藤原○○」と書くので、藤原氏が苗字だと思っている人は多いのではないでしょうか?
実は、藤原氏は厳密に言うと苗字ではないのです。

藤原氏というのは、本姓ほんせいといって、古代以来の氏族名を指します。
氏族というのは、男系祖先を同じくする同族集団のことです。これが、氏姓制度しせいせいどの導入により姓氏へと統合再編され、支配階級の構成単位となりました。
つまり、簡単に言うと藤原氏というのは、苗字ではなく支配階級の単位ということです。

なお、古代では氏のあとに格助詞の「の」を入れて読むようになっていました。この「の」は帰属を表しています。例えば、藤原道長(ふじわら「の」みちなが)ならば、藤原氏「の(に属する)」道長となりますし、源頼朝(みなもと「の」よりとも)ならば、源氏「の(に属する)」頼朝という意味になるのです。

本姓の代表的なものは、源氏・平氏・藤原氏・橘氏の四姓で、これをまとめて「源平藤橘げんぺいとうきつ」と呼びます。

藤原氏の子孫は五摂家として現在も続いている

先程もお伝えしたように、現在藤原氏の子孫は五摂家として続いています。この五摂家には、それぞれどのような特徴があるのでしょうか?それをここで解説していきます。

藤原氏の子孫「近衛家」

まず挙げられるのが、近衛家です。近衛家は五摂家の筆頭となります。祖は近衛基実このえもとざねです。
家紋は近衛牡丹。また、五摂家の中で初めて藤氏長者とうしのちょうじゃを務めたのも近衛家となります。

近衛家で代表的な有名人と言うと、日中戦争や太平洋戦争中の総理大臣・近衛文麿このえふみまろ(1891~1945)が挙げられるでしょう。

藤原氏の子孫「鷹司家」

次に挙げられるのは、鷹司家です。
鷹司家は、近衛家三代当主である近衛家実(このえいえざね)(1179~1243)の四男である鷹司兼平たかつかさかねひら(1228~1294)が祖になります。家名は平安京の鷹司小路に由来するようです。家紋は鷹司牡丹。

鷹司家で有名な人は、鷹司平通たかつかさとしみち(1923~1966)が挙げられるでしょう。
鷹司平通は昭和天皇の三女・孝宮和子内親王たかのみやかずこないしんのうを一般平民の身分で妻としたことで有名になりました。

現当主は伊勢神宮大宮司を経て、神社庁統理の職に就いているようです。

藤原氏の子孫「九条家」

九条家は、藤原忠通の六男である九条兼実くじょうかねざね(1149~1207)が祖になります。
京都九条にあった、九条殿に住んだことが家名の由来です。家紋は九条藤。

また、藤原氏の末裔が集まる「藤裔会」というものがあり、この藤裔会の会長は代々九条家当主が務めると決まっています。ちなみに、藤裔会は毎年秋に、藤原氏の氏神である春日大社に集まって行われているそうです。

藤原氏の子孫「二条家」

九条家から分家した二条家は、九条家三代目当主である九条道家くじょうみちいえ(1193~1252)の次男二条良実にじょうよしざね(1216~1271)が祖になります。この二条良実が二条富小路の邸宅を二条殿と称したのが家名の由来です。家紋は二条藤。

二十六代当主である二条斉敬にじょうなりゆき(1816~1878)は、最後の関白でした。
これは、王政復古の大号令により摂政関白が廃止されたためです。

また、足利将軍家や徳川将軍家から代々偏諱(いみな)を受けており、五摂家の中では最も親幕派とされています。

藤原氏の子孫「一条家」

最後に挙げられるのは、一条家です。一条家は、九条道家の三男 一条実経いちじょうさねつね(1223~1284)が祖となります。
九条道家が創建した一条殿を一条実経が受け継いで住んだことが家名の由来です。家紋は一条藤。

一条家には、九条流の政治的権威を裏付ける桃華堂文庫(後二条師通記、玉葉、玉蘂(ぎょくずい))が伝来しています。

また、二十二代当主である一条忠香いちじょうただか(1812~1863)の三女が明治天皇の皇后となったことでも有名です。

藤原氏の子孫「五摂家」の成り立ち

藤原氏は五摂家に分かれて現在も続いています。それでは、藤原氏から五摂家へと分かれたのには、どのような流れがあったのでしょうか?ここでは、五摂家の成り立ちを解説していきます。

藤原氏はまず藤原四家に別れた

藤原氏はまず、藤原不比等の死後、その子四人がそれぞれ家を興します。
武智麻呂むちまろ(680~737)は南家、房前ふささき(681~737)は北家、宇合うまかい(694~737)は式家、麻呂まろ(695~737)は京家。
これが藤原四家と呼ばれるものです。

それぞれの家の名前は、南家と北家はそれぞれの屋敷の位置が相対的に南と北であったことから由来し、式家は宇合の官職が式部卿だったことから、そして、京家は麻呂が左京大夫だったことから由来しています。

奈良時代以降はこの四家で、一族内政争が行われ、最終的に北家が力を持っていきます。つまり、摂政・関白は北家が代々担うと定着していったのです。有名な藤原道長藤原頼通もこの北家の嫡流でした。

分家して始まった五摂家

藤原氏の摂政・関白政治で得た地位や権力は安泰かと思われましたが、その後武士の台頭や上皇による院政が続いたことにより危うくなります。そこで、藤原忠通は息子の基実を平清盛の娘と結婚させて、平家と縁戚関係を結ぶことにします。

このときに、基実が近衛姓を名乗ったことで、近衛家が成立。
その後、そこから権力維持のために分家を繰り返していき、出来上がったのが五摂家と呼ばれるものです。

五摂家は、近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家の5つの家で構成されています。
この五摂家の子孫たちが現代まで続いているのです。

五摂家以外の藤原氏の子孫の家「清華家」

藤原氏の子孫には、五摂家の他にも、清華家せいがけと呼ばれる人たちも存在します。
清華家とは、公家の家格を表していて、最上位の摂家の次の序列に位置します。
そして、大臣・大将を兼ねて太政大臣になることができる主に7つの家のことを指します。

7つの家は、三条、西園寺、徳大寺、久我、花山院、大炊御門、今出川で構成されています。
しかし、これは時代によって数を増やしたり減らしたりしていたようです。
この7つの家は、久我家以外全て藤原北家の流れを汲んでいます。このように、五摂家以外のところにも藤原氏の子孫は存在しているのです。

まとめ:藤原氏の子孫は、現代もそれぞれ違う苗字で続いている

藤原氏は、生き残るためにいろいろな形を模索していったからこそ、長い間政治的権力を持ち続けることができたのかもしれませんね。
今回の内容をまとめると、

  • 藤原氏の原点は中臣鎌足
  • 藤原氏は摂政・関白をすることによって政治的権力を保った
  • 藤原不比等の子らによって、藤原四家(南家・北家・式家・京家)に分かれた
  • 藤原四家の中でも力を持ったのは北家だった
  • そこからさらに五摂家(近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家)へと分家していった
  • 藤原北家の流れを汲む清華家も(三条、西園寺、徳大寺、花山院、大炊御門、今出川)も続いている
  • 藤原氏の子孫は、苗字は藤原ではないものの、現代もそれぞれ違う苗字で続いている

一時は政治争いをしてお互いを潰し合っていた藤原氏でしたが、現代は藤裔会といった形で集まっているなど、祖先を同じくするからこそ一族としての繋がりは強いのではないかと感じますね。

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