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源頼朝の家系図をわかりやすく解説。先祖には誰がいる?兄弟は?子孫は?

源頼朝の家系図をわかりやすく解説。先祖には誰がいる?兄弟は?子孫は?

鎌倉幕府を開いた人物として有名な源頼朝(1147‐1199)は、天皇から連なる家系であることをご存知でしょうか。
今回は、源頼朝の家系図から先祖には誰がいるのか、兄弟や子孫などについてみていきましょう。

源頼朝の家系図

■源頼朝の先祖

源頼朝の先祖

源頼朝は、清和天皇から繋がる、清和源氏の直系です。
清和源氏の流れを辿っていくと、室町幕府を開いた足利尊氏あしかがたかうじや、戦国最強とも甲斐の虎とも言われていた武田信玄たけだしんげんにもつながっていきます。

■源頼朝の兄弟

源頼朝の兄弟

源頼朝は、11人兄弟(9男2女)の三男として生まれています。
頼朝の一番下の弟が、牛若丸と言われている源義経みなもとのよしつねです。
頼朝は三男ですが、父 源義朝みなもとのよしともの正室 由良御前ゆらごぜんとの間に生まれたため、家督を継ぎました。

■源頼朝の子孫

源頼朝の家系図から見る、源氏の流れ

源頼朝は言わずと知れた源氏の流れを汲んでいます。
源氏とは、皇族が家臣に下る際にの姓を賜った人たちを総称です。
皇子・皇孫が増えた平安時代、経費節減のためか多数の皇族が臣籍に入り、その多くが源の姓を受けました。
同じ源姓でも同じ家系とは限らず、祖とする天皇別に源氏の系統は21あります。
例えば嵯峨源氏は、第52代嵯峨天皇さがてんのうの皇子らを祖とする源氏氏族で、臣籍降下し源姓を賜った最初の皇族です。

宇多源氏は第59代宇多天皇うだてんのうを祖とする源氏氏族で、子孫は平安時代から明治維新に至るまで、公家の家格の一つ堂上家とうしょうけとしての地位を保ち、栄えました。

源頼朝の先祖を辿っていくと、清和天皇

源氏のなかでも第56代清和天皇せいわてんのうを起源とするのが清和源氏せいわげんじです。
源頼朝は自らが清和源氏の嫡流であると名乗っていました。
清和源氏は複数の系統に分かれており、源頼朝は源満仲の三男・源頼信みなもとのよりのぶに始まる河内源氏の流れを汲んでいます。
河内源氏は八幡太郎として知られる源義家みなもとのよしいえに代表されるように、武勲をたてる家系として有名で、武家棟梁と呼ばれました。
一方で源満仲みなもとのみつなかの長男・源頼光みなもとのよりみつの子孫である摂津源氏の系統も脈々と続いており、考え方によっては摂津源氏を嫡流とみなすこともできます。

もともと源氏には嫡流という考え方がありませんでしたが、源頼朝は武家政権における自分の地位を特別なものにするため、清和源氏の嫡流という意識を作り上げたのだと思われます。

源頼朝の家系図から見る清和源氏。足利尊氏や武田信玄も清和源氏?

清和源氏を起源とする源姓や流派は数多く存在します。実は足利尊氏や武田信玄も、清和源氏の家系です。

・足利尊氏(1305‐1358)
源義家の四男・源義国に連なる家系です。

源義家 - 源義国 - 源義康 - 足利義兼 - 足利義氏 - 足利泰氏 - 足利頼氏 - 足利家時 - 足利貞氏 - 足利尊氏

・武田信玄(1521‐1573)

 源頼義の三男・源義光に連なる家系です。

源頼義 - 源義光 - 源義清 - 源清光 - 武田信義(武田氏初代当主) - 武田信光 - 武田信政 - 武田信時 - 武田時綱 - 武田信宗 - 武田信武 - 武田信成 - 武田信春 - 武田信満 - 武田信重 - 武田信守 - 武田信昌 - 武田信縄 - 武田信虎 - 武田信玄

源頼朝の家系図から見る、源頼朝の兄弟

源頼朝は父・源義朝の三男として生まれました。
母親は正室の由良御前です。
父・源義朝には正室のほかに4人の側室がいました。

源頼朝に兄弟は何人いた?

源頼朝には8人の兄弟と1人の姉妹がいました。ほかにも生母不明の姉妹がいたとされます。

・長男・源義平みなもとのよしひら(1141‐1160)
母は側室・三浦義明の娘(橋本の遊女という説もあり)。
強い・猛々しいという意味の「悪源太」と呼ばれました。
平治の乱後、平清盛暗殺のため京へ潜伏中に捕らえられ、斬首されました。

・次男・源朝長みなもとのともなが(1143‐1160)
母は側室・ 波多野義通の妹です。
平治の乱後、敗走中に僧兵の落人狩りで負傷し、傷が元で亡くなりました。

・三男・源頼朝みなもとのよりとも(1147‐1199)
母は正室・由良御前です。
三男ながらも母親の家柄が高いため、嫡男とみなされて育ちました。
平治の乱後、伊豆国に配流されましたが、のちに平家や奥州藤原氏を倒し、征夷大将軍に任じられて鎌倉幕府を開きました。

・四男・源義門みなもとのよしかど(生没年不明)
母は由良御前とされ、早世したと言われていますが不明です。

・五男・源希義みなもとのまれよし(1152‐1180)
母は正室・由良御前です。
平治の乱後、土佐国に流されました。兄・頼朝の挙兵後に、平家により討ち取られました。

坊門姫(1154または1145‐1190)
母は正室・由良御前です。
生年に二つの説があり、頼朝の姉なのか妹なのかは不明です。
一条能保の妻。

・六男・源範頼みなもとのよりのり(1150?‐1193)
母は遊女とされています。
治承・寿永の乱で頼朝に仕え活躍しますが、頼朝に謀反の疑いをかけられ、誅殺されたと言われています。

・七男・阿野全成あのぜんじょう(1153‐1203)
母は側室・常盤御前です。
7歳で父・源義朝が敗死し、出家させられました。
源頼朝に仕えましたが、頼朝の死後、将軍職を継いだ頼朝の甥・源頼家により誅殺されました。

・八男・源義円みなもとのぎえん(1155‐1181)
母は側室・常盤御前です。
阿野全成と同じく幼くして出家し、その後頼朝に仕え、墨俣川の戦いで平氏軍に討たれました。

・九男・源義経みなもとのよしつね(1159‐1189)
母は側室・常盤御前です。
平治の乱で父・源義朝が敗死し、常盤御前の再嫁に伴い京都の鞍馬寺に預けられましたが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受けました。治承・寿永の乱で頼朝に仕え活躍しますが、頼朝と対立し再び奥州に逃れ、自刃しました。

・女子
生母、名、生没年不明ですが、女子がいたとされます。

源頼朝と源義経は仲が悪かった?

源頼朝の異母弟である源義経は、頼朝と対立し悲劇的な最期を迎えた人物として有名です。
二人は仲の悪い兄弟だったのでしょうか。

父・源義朝の敗死により源頼朝と源義経は離れ離れで育ったため、二人が初めて対面したのは治承・寿永の乱における富士川の戦いでした。
21歳の義経が、挙兵した33歳の兄・頼朝のために奥州平泉から駆け付けた、劇的な場面です。

源義経は、一ノ谷の戦いで精鋭を率いて馬で崖を駆け下りるという奇襲により勝利し、一躍脚光を浴びました。
源義経は続く屋島の戦い、壇ノ浦の戦いでも先陣を切って戦場を駆け抜け、源頼朝の勝利に貢献しました。

しかし源義経は源頼朝の許可なく朝廷から官位を受け、頼朝の怒りを買います。そして義経の合戦における独断専行や越権行為など、身勝手なふるまいを容認できず、頼朝は義経を朝敵とみなしました。

源頼朝から捕縛の命が出された義経は、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡ふじわらのひでひらを頼って平泉に逃れます。
しかし、藤原秀衡の死後、当主となった藤原泰衡は頼朝からの圧力に屈し、源義経を襲いました。館を包囲された義経は、自分の妻と4歳の娘を殺害した後で自害しました。

義経の死から、弱者や敗者に同情する「判官びいき」という言葉が生まれたように、この兄弟の悲劇は源義経の才能と人気に、源頼朝が嫉妬したことで起きたと解釈されてきました。
しかし今日では、頼朝の政治構想を義経が理解していなかったことが原因とも考えられています。

源頼朝は朝廷とは別に政務を行うことを目指し、鎌倉幕府を開きました。
しかし源義経は、朝廷から官位を受け出世するのは頼朝にとっても良いことだと思い行動しました。
武士が朝廷から官職を与えられては、朝廷の下に武士がいるという構図からいつまで経っても抜け出せないのですが、源義経にはそれが理解できていなかったのです。

また、半ば独立国として強い力を持つ奥州藤原氏は、鎌倉政権を安定させたい源頼朝にとっては脅威であり、いずれ倒さねばならない存在でした。
源頼朝の敵方に逃げ込んだ源義経は、その大局を見通すことができず、離れて育った兄弟の思想は最後まで一致することなく終わったのです。

源頼朝の家系図から見る子孫たち

源頼朝には正室・北条政子ほうじょうまさこの他に妾がいましたが、北条政子の激しい嫉妬を避けるため、ひそかに隠れて生活していました。

源頼朝には子供が何人いた?

頼朝には少なくとも3男2女がいました。

・長男?・千鶴丸
源頼朝には最初の妻・八重姫と長男・ 千鶴丸がおり、八重姫の父・伊東祐親の手により殺害されたと言われていますが、伝承の域を出ません。

・長女・大姫(1178‐1197)
母は正室・北条政子です。
源義高と婚約しますが、婚姻しないまま20歳で亡くなりました。

・長男・源頼家みなもとのよりいえ(1182‐1204)
源頼朝の嫡男として、18歳で第2代征夷大将軍となります。
伊豆修善寺に流され、暗殺されました。享年23歳。

・次女・三幡(1186‐1199)
病により14歳で亡くなりました。

・三男・源実朝みなもとのさねとも(1192‐1219)
兄・頼家の追放後に12歳で 第3代征夷大将軍となります。
源頼家の次男・公暁に暗殺されました。享年28。

・次男・貞暁(1186‐1231)
母は妾・大進局です。
北条政子の嫉妬から逃れるため、頼朝によって隠されて育ち、仏門に入りました。

源頼朝の後継者は誰?

源頼朝の急逝後、跡を継いだのは長男・源頼家です。
頼家は第2代征夷大将軍となりますが、三男・実朝を担ぐ派閥との争いにより追放され、暗殺されました。
頼家には4男1女がいましたが、息子たちはみな殺害されたり自害し、娘も死産がもとで死去しました。

その源頼家が暗殺されたのち、第3代征夷大将軍となったのは三男・源実朝ですが、実子には恵まれないまま、頼家の次男・公暁に暗殺されました。

その公暁も暗殺されてしまったので、日本初の武家政権である鎌倉幕府をひらいた源頼朝と北条政子の直系子孫は完全に途絶えました。

そして、北条氏が実権を握る執権政治が始まったのです。

まとめ:源頼朝の家系図を辿っていくと、清和源氏の流れがよくわかった

源頼朝を先祖から子孫までまとめて見ると、清和源氏が武家棟梁として繁栄し、後世に与えた影響が非常に大きいことが分かりました。 
今回の内容をまとめると、

  • 源頼朝は、清和天皇の流れを汲む清和源氏だった
  • 清和源氏には足利尊氏や武田信玄がいる
  • 源頼朝の直系子孫は途絶えた

源頼朝の家系図には、天皇から続く系図と、のちの室町幕府をひらいた足利尊氏や、戦国最強ともいわれた武田信玄もいるなど、すごい人物ばかりでしたね。

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