平清盛の家系図を簡単に解説!子孫には天皇も?平家と平氏の違いは?

平清盛の家系図を簡単に解説!子孫には天皇も?平家と平氏の違いは?

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平清盛(1118(永久6)〜1181(治承5))は、平安時代末期の武将です。

武士として初めて太政大臣に任命されるなど、平氏の最盛期を築き上げた人物でもあります。
日本初の武家政権を打ち立てたこともある平清盛ですが、その子孫はどうなったのでしょうか?
この記事では、平清盛の家系図を見ながら、平清盛の子孫がどうなったのか?について簡単に解説していきます。

平清盛の家系図を簡単に解説!

平清盛の家系図

平清盛の家族構成

平清盛(たいらのきよもり)

1118年(永久6年)〜1181年(治承5年) 享年:64歳
父:平忠盛  母:不明(祇園女御の妹という説も…)
正室:高階基章の娘
継室:平時子
側室:厳島内侍、常盤御前?
子供:重盛、基盛、宗盛、知盛、重衡、徳子、維俊、知度、清房、他複数名…

平清盛は、伊勢平氏の棟梁だった平忠盛の嫡男として誕生しました。
出身は山城国(現在の京都)という説が有力ですが、はっきりとはわかっていません。
母親についても詳細は不明です。しかし、3歳の頃に母親が亡くなったとされていて、その後は祇園女御という女性の下で育てられました。

1138年(保延4年)には、自分よりも身分の低い高階基章たかしなのもとあきの娘を正室に迎えます。
2人の間には、重盛と基盛という子供が生まれましたが、高階基章の娘とは死別してしまったと言われています。
その後、1147年(久安3年)には、鳥羽法皇の判官代であった平時信の娘・平時子を継室に迎えることになります。
時子との間にも4人の子供を授かりました。
その他にも側室との間にたくさんの子供を授かりましたが、清盛が壇ノ浦の戦いで負けたことにより、男系の子孫はほとんど亡くなってしまいました。

平清盛の父はどんな人だった?

平清盛は武士として初めて太政大臣になるなど、平氏の最盛期を築き上げました。
平清盛が出世していった背景には、父である平忠盛の存在があります。

桓武平氏の末裔と言いながら、忠盛の前の代までは平氏は単なる受領でしかありませんでした。
しかし、平忠盛の父である平正盛が院の近臣で重用されていたことなどから、忠盛は若いころから武勇を発揮する機会に恵まれました。
その結果、平忠盛は武士として初めて昇殿を許されることになります。
平忠盛は院の近臣、北面の武士としての功績も欠かせませんが、それに加えて和歌や舞などの宮廷人としての素養も身につけていました。そのため平忠盛は、平正盛が引いたレールを継承・発展させながら、自らの才能や努力によって、朝廷に大きな足跡を残したのです。

このように、平清盛の父・忠盛は、平家栄華の土台を築き上げました。
さらには、平氏だけにとどまらず、広く武士一般の地位向上の象徴にもなりました。

平清盛の子孫は現在も続いてる?

平清盛はたくさんの子供を残しましたが、子孫は現在まで続いているのでしょうか?
ここでは、平清盛の子孫について簡単に解説していきます。

【平清盛の子孫一覧】

  • 平重盛(享年42)
  • 平基盛(享年24)
  • 平宗盛(享年39)
  • 平知盛(享年34)
  • 平重衡(享年29)
  • 平徳子(享年58)
  • 平維俊(不明)
  • 平知度(不明)
  • 平清房(不明)

源平合戦で平家が敗れ、絶滅したと言われていますが、平清盛の血脈は現在の今上天皇に続いている可能性が高いです。

平清盛の子孫は壇ノ浦の戦いで滅亡した?

平清盛は、源平合戦の最中に亡くなってしまいます。

強力な指導者を失った平家はそのまま戦いに破れてしまいました。

当時敵の遺児を生かしておくことは、いつ復讐されるかわからないため危険なことでした。
そのため、平清盛の子孫も例に漏れず壇ノ浦の戦いの後、鎌倉幕府によりことごとく探し出され殺されてしまいました。

結果、平清盛の子孫はほぼ滅亡してしまいました。

平清盛の娘が産んだ安徳天皇

平清盛の子孫は、壇ノ浦の戦いの後にほとんど亡くなってしまいました。
しかし、ここで亡くなった子孫は男系の子孫だけだったのです。
女系の子孫は生き残って、様々なところに嫁いでいました。

平清盛の女系子孫の中で最も有名なのは、高倉天皇の中宮・建礼門院徳子です。
平清盛は徳子を天皇に入内させ、子供を産ませました。
その子供が後の安徳天皇です。

高倉天皇が安徳天皇に譲位し、院政という形をとるのですが、これが実質平氏の傀儡政権となっていました。

平清盛の娘の子孫には、他にも天皇を産んだとされる人物がいます。
清盛の次女と花山院兼正との間に生まれた家経の孫である忠経の娘・忠子は、後宇多天皇に入内して子供をもうけました。この内の一人である尊治親王が、後の後醍醐天皇になります。

平清盛の血は今上天皇に引き継がれた?

平清盛の男系の子孫は滅んでしまったものの、女系の子孫は生き残ったとお伝えしました。
それでは、その平清盛の子孫は現在まで続いているのでしょうか?

平清盛の血脈を辿っていくと、面白いことがわかります。
なんと平清盛の血脈は今上天皇に引き継がれているという話があるのです。
平清盛の娘の一人が藤原隆房と結婚します。そして、その二人の間に生まれたのが藤原隆衡です。

この藤原隆衡の娘が、のちに北山の准后と呼ばれることになる藤原貞子になります。
貞子は、西園寺家の藤原実氏と結婚し、そしてその孫が後嵯峨天皇の後宮となり、後深草天皇と亀山天皇の母となりました。現在まで続いている皇統は後深草天皇の子孫にあたります。
つまり、平清盛の血脈が今上天皇にも流れている可能性が高いということなのです。

平家は滅んだが平氏は残った?

よく平清盛の話を聞いていると、「平家」と「平氏」という言葉を聞くことがあると思います。
どっちも同じ意味なのではないかと思う人もいるかもしれません。

しかし、この言葉は厳密に言うと少し意味が変わってくるのです。
ここでは、平家と平氏の違いについて触れながら、平氏がどうなっていったのかを簡単に解説していきます。

平家と平氏の違いとは?

まず、そもそも平家と平氏の違いとはなんなのでしょうか?簡単に説明すると、

平家=平清盛一門(家族)のこと

平氏=桓武天皇から平姓を賜った家系

ということになります。つまり、平家に比べて平氏とは、もっと広い範囲の同族集団を指すことになるのです。

そして、壇ノ浦の戦いにて、平家は滅びましたが、東国に根を張っていた平氏は後世に渡って残ることになります。

ちなみに源平合戦は、実は東国の源氏平氏連合軍と西の平家との戦いでもありました。
これはつまり、平家は源氏だけでなく、元々の同族である平氏をも敵に回していたということです。
そのくらい、平家とは平氏の中でも特別な位置づけにあったと言っても過言ではないでしょう。

平氏のルーツは?

平氏とは、桓武天皇から平姓を賜った家系のことを指します。

そして、ルーツともなる桓武平氏の祖先は、平高望(高望王)だと言われています。

平安時代の天皇は安定した皇位継承のため多くの皇子をもうけていました。
しかし、天皇になれるのは当然ですが一部の皇子だけ。そのため、天皇になれなかった皇子が財政を圧迫する要因になってしまっていました。そこで、桓武天皇は多くの皇族を臣籍降下させることにするのです。

高望王もそのうちの一人で、臣籍降下した後、宇多天皇の勅命にて平の姓を与えられました。

これが、後に坂東平氏、伊勢平氏などに分かれていく高望王流桓武平氏の始まりなのです。

残った平氏は様々な支流を作り、現代にまで続いている

清盛が所属していた平家は源平合戦にて滅びてしまいましたが、この際に源氏側(鎌倉幕府側)についた「坂東平氏」の一族は様々な支流を作り、現代にまで続いていると考えられています。

ちなみに、坂東平氏は、「坂東八平氏」ともいい、東国に勢力を誇っていた平良文を祖とする8氏のことを指します。その8氏は、千葉・上総・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾のことを指します。

これらの一族の根拠地は関東全域にまたがっていて、この8氏以外にも平氏は様々な支流が生まれ、それぞれ武士団を形成していました。

まとめ:平清盛の血は天皇家に引き継がれていった

平清盛の子孫は、壇ノ浦の戦いの後、ほとんど滅んでしまいました。しかし、女系の子孫は様々なところに嫁ぎ、清盛の血を引き継いでいきました。その一部には、今上天皇に繋がるものもありました。

今回の内容をまとめると、

  • 平清盛は、父親の忠盛が地盤を築いていてくれたおかげで平家栄華を極めることができた
  • 平清盛には子供がたくさんいたが、壇ノ浦の戦いの後男系子孫は滅ぼされてしまった
  • 平清盛の女系子孫は様々な場所に嫁いで、その血を残していった
  • 平清盛の女系子孫の中には、安徳天皇や後醍醐天皇を産んだ人物もいた
  • 今上天皇にも平清盛の血が流れている可能性が高い

平清盛が平家として栄華を極めた背景には、平正盛・平忠盛という2人の功績があったからこそでしょう。
そう考えると、平清盛は先祖の念願を達成したと言えるのかもしれません。

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