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徳川家康の子孫・末裔の現在は?芸能人や天皇家にもいる?今の苗字は何?

徳川家康の子孫・末裔の現在は?有名人や天皇家にもいる?今の苗字は何?

徳川家康(1543~1616)は、その後約260年続いた江戸幕府をひらいたことで有名ですよね。争いが続いていた戦国時代を平定した、徳川家康の子孫・末裔は現在までも続いているのでしょうか?この記事では、徳川家康の子孫は現在にもいるのか?徹底的に解説していきます。

徳川家康に子供は何人いた?

徳川家康には、男子が11人、女子が5人、合計で16人の子供がいました。しかし時代背景もあり、中には若くして死去してしまった子供もいます。しかし、男子が11人もいたので、跡取りは十分にいたと考えて良いでしょう。

徳川家康から続く将軍家(徳川宗家)の系図

まずは、徳川家康から続く徳川将軍家の系図を見ていきましょう。

徳川将軍家の系図

徳川家を絶やさないように創設された「徳川御三家」と「徳川御三卿家」

徳川家康は徳川家を絶やさないように、「徳川御三家」というものを創設します。
この徳川御三家とは、家康の子の徳川義直、徳川頼宣、徳川頼房を徳川宗家から独立させて頭首にした大名家のことをいいます。それぞれ、尾張藩、紀州藩、水戸藩に移ったことから、義直を家祖とする尾張徳川家、頼宣を家祖とする紀州徳川家、頼房を家祖とする水戸徳川家と呼ばれるようになります。

この徳川御三家は、家康の子息が始祖となった藩である「親藩」のなかでも最高位に位置づけられていました。さらに、徳川宗家と同じように「徳川」の姓を名乗ることや、徳川家の独占紋である「三つ葉葵」の家紋を使用することが許されていたのです。

そして、「将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀州家から養子を出す」ことになっていて、実際に7代将軍の徳川家継が8歳で死去し宗家が断絶したときには、紀州徳川家から徳川吉宗が8代将軍として養子に迎え入れられました。

なお、水戸徳川家は、幕府と朝廷の間で対立が起きた際、徳川の血筋を守るために朝廷側についたり、将軍家に何かあった場合に代わりに執務を行う「目代もくだい」だったりの役割を担っていたので、ここから将軍になるために養子を出すということはありませんでした。御三家の中でも、水戸徳川家だけは特殊な立ち位置だったと言えるでしょう。

また、徳川宗家が断絶した後に将軍となった8代将軍の徳川吉宗は、自分の子孫で「徳川御三卿家」というものを創設します。この徳川御三卿家には、徳川宗武を家祖とする田安徳川家、徳川宗尹を家祖とする一橋徳川家、徳川重好を家祖とする清水徳川家がありました。

吉宗が徳川御三卿家を創設した理由としては、尾張徳川家との対立を踏まえて、徳川御三家と徳川宗家との血縁関係が次第に疎遠になってきたことを鑑み、御三家とは別個の親族を徳川宗家の新たな藩屏としたかったからだとされています。そのため、これ以降徳川宗家に後嗣がないときは、徳川御三家および徳川御三卿家から適当な者を選定することとされました。

実際に徳川御三卿家からは、11代将軍徳川家斉と15代将軍徳川慶喜が一橋徳川家から、徳川家達が田安徳川家から養子に入り、徳川宗家を相続しています。

徳川将軍家(徳川宗家)は現在も続いている?

徳川家康から始まった徳川将軍家ですが、現在まで続いているのでしょうか?
実は、徳川宗家は4代将軍家綱に直系の子がなかったため、幕府が始まってから77年で直系は途絶えてしまいます。この際には、傍系である弟の綱吉を養子とし、5代将軍にしました。

このように、徳川宗家は実嗣子を欠くたびに、徳川御三家や徳川御三卿家などから養子を迎えて、家系を繋ぐということが少なくなかったのです。そして、養子を迎え入れるなどして繋いでいった結果、徳川将軍家は現在も続いています。

現在の徳川宗家当主は、18代 徳川恒孝とくがわつねなりさんです。この方は、日本郵船の副社長や「徳川記念財団」の初代理事長を歴任したり、「日本美術刀剣保存協会」の名誉顧問に就任したりなど、環境・福祉活動を熱心に行われています。

また、次期当主は恒孝氏の長男である徳川家広氏に決定しています。しかし、家広氏には子供がおらず、家督相続の課題が残っているそうです。

追記:
2023年1月に60年間にわたって18代当主を務めた恒孝さんが、高齢などを理由に退き、徳川家広さんが徳川宗家19代当主となりました。

徳川御三家の子孫・末裔は現在も続いている?

徳川御三家はどうでしょうか?それぞれ見ていきましょう。

【尾張徳川家の現在】
尾張徳川家は、大政奉還後の戊辰戦争で官軍側につき、その後も一貫して新政府に協力をし続けました。これは、尾張徳川家が勤皇思想を持っていたことと、将軍を1人も出せず養子ばかり押し付けられた扱いに不満を募らせた結果、そうなったようです。しかし、これにより廃藩後も侯爵の位を授けられたり、貴族院議員になったりと、政治の世界とは深く関わっていました。
その後も名古屋を拠点として家は続いていって、現在の当主は22代 徳川義崇とくがわよしたかさんとなっています。
義崇さんは、徳川黎明会の会長や、名古屋徳川美術館の館長などを務めて、文化芸術活動に重きをおいて活動してらっしゃいます。ちなみに、徳川美術館のキャラクター「トクさん」はこの義崇さんがモデルとなっていて、2015年にはミュージアムキャラクターアワード第一位を獲得しました。

【紀州徳川家の現在】
紀州徳川家は、徳川御三家の中で唯一将軍を出している家系ですが、現在は断絶の危機に陥っています。
16代当主 徳川頼貞の代では、紀州徳川家は日本でも有数の財産家として知られていました。しかし、その後昭和恐慌の影響があったり、経営に失敗したりで、紀州徳川家の財政は事実上破綻してしまいます。さらに、18代当主・徳川剛さんは消息不明に…。
その後を継いだのが、現在の当主である徳川宜子とくがわことこさんです。
この宜子さんは独身であるので、このままいくと紀州徳川家は断絶してしまいます。他所から養子をもらうという方法もありますが、宜子さんは「紀州徳川家がどうなるかは自然の流れにおまかせするしかない」と発言しており、紀州徳川家の消滅を示唆しているのかもしれません。

【水戸徳川家の現在】
水戸徳川家は、徳川御三家の中では1番勤皇思想が強い藩でした。そのため、朝廷と上手く付き合っていくことができ、版籍奉還後には水戸藩知事になったり、廃藩置県後には陸軍少尉に任じられたりしました。
現在の当主は15代 徳川斉正とくがわなりまささんです。斉正さんは、東京海上日動火災保険の顧問を務める一方で、徳川ミュージアムの理事長や水戸育英会総裁も務めるなど教育分野において活動されています。

このように、徳川御三家は今の所どこも現在まで続いているのです。ただし、紀州徳川家だけは後継者が決まっておらず、今後どうなるのかがわかりません。

徳川御三卿家の子孫・末裔は現在も続いている?

今度は、徳川御三卿家が現在まで続いているかどうかを見ていきましょう。

【田安徳川家の現在】
田安徳川家は、徳川宗武を家祖とする家系ですが、その宗武の血筋はわずか2代で途絶えてしまいます。その後、宗武の正室が3代目当主の代行として就任し、4代当主に一橋徳川家から徳川斉匡とくがわなりまさを迎えます。このことから、田安徳川家は徳川御三卿家の中で唯一、幕末まで徳川吉宗の子孫が当主となった家になりました。
現在も家は続いており、現在の当主は11代当主・徳川宗英とくがわむねふささんです。宗英さんは、石川島重工業に務めてらっしゃいましたが、退職後は著作家として活躍されています。著作も多数あるようです。

【一橋徳川家の現在】
一橋徳川家は、徳川御三卿家の中で唯一将軍を排出した家です。また、多くの養子を他家へ提供したことから、徳川御三卿家の中でも特に広い範囲でその血筋が広まりました。ただし、初代当主であった徳川宗尹の子はいずれも短命だったので、宗尹の子孫は残りませんでした。そこで、尾張徳川家と水戸徳川家から養子を迎え入れたことが功を奏し、将軍を排出する家となったのです。
現在の当主は、14代 徳川宗親とくがわむねちかさんです。
ちなみに、12代 徳川宗敬とくがわむねよしさんは林学者で、森林愛護連盟を結成し、緑化運動に尽力したことで知られています。

【清水徳川家の現在】
清水徳川家は、他の2家に比べると特殊な点があります。それは、収公(幕府が領地などを取り上げること)されたことがあったり、何度も当主不在の状態になったりしていたことです。普通藩主が不在となった家は改易されるものですが、徳川御三卿家であった清水徳川家は当主が不在となっても家の存続が認められていました。
11代将軍・徳川家斉や6代当主・徳川昭武がなんとか清水徳川家を再興しようと奮起しますがなかなか当主不在の状態から抜け出すことはできませんでした。7代当主・徳川篤守(とくがわあつもり)の代になってやっと再び当主が存在する状態になることができるようになりました。現在は徳川豪英とくがわたけひでさんが9代当主を務めていらっしゃいます。

徳川御三卿家も現在まで続いているんです

その他、徳川家康の末裔の現在は?

徳川家には、御三家・御三卿家以外にも分かれた家が存在します。
例を挙げると、越前松平家、会津松平家、越智松平家、高松松平家などがあります。ただし、この中で現在の当主が確認できるのは、会津松平家、高松松平家など数家しかありません。

伊予久松松平家の分家の子孫には、元NHKのアナウンサーである松平定知まつだいらさだともさんがいらっしゃいます。徳川家康の子孫で有名人といえばこの方が挙げられるでしょう。

また徳川家康の三男で第2代征夷大将軍の徳川秀忠の、五女の徳川和子(とくがわまさこ)1607年(慶長12年)〜1678年(延宝6年)は、第108天皇である後水尾天皇の皇后で、明正天皇の生母です。
しかしながら明正天皇には子供はおらず、徳川家康の血脈は途絶えてます。
天皇家にも徳川家康の子孫が嫁いでいたのは驚きですね。

まとめ:徳川家康の子孫は、宗家・御三家・御三卿家ともに現在も続いている

徳川家康は徳川家の権力を盤石なものにするために、御三家を創設したり、将軍職を早々に譲ったりしていました。その甲斐もあって、現在に至るまでその血筋は続いているということがわかりましたね。
今回の内容をまとめると、

  • 徳川家康の子供は11男、5女
  • 徳川将軍家になにかあったときに備えて、徳川家康が徳川御三家を創設した
  • 7代将軍 徳川家継が若くして亡くなり、将軍家の血筋は断絶
  • 徳川御三家の紀州徳川家から徳川吉宗が養子に入り徳川宗家は存続した
  • 徳川吉宗は将軍家の血筋が家康から遠縁になったことを危惧して、徳川御三卿を創設した
  • 徳川家康の子孫は、現在も徳川宗家・徳川御三家・徳川御三卿家として現在にも続いている
  • 2023年、徳川家広さんが徳川宗家19代当主となった

現在の当主である方々の経歴を見てみても、様々な分野で活躍されている方が多いです。それもひとえに才能ある徳川家康の血を引いているからなのだろうかと思わざるを得ないですよね。

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