足利将軍家の家系図を簡単に解説!子孫は現在も続いている?祖先は源氏?

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足利将軍家といえば、尊氏から始まる室町幕府を開いたことで有名な家ですね。

足利家は、北山文化や東山文化などを生み出し、その中から日本の伝統となるようなものを沢山つくりあげました。

また、足利将軍は15代続きましたが、その足利将軍家の子孫は現在まで続いているのでしょうか?

この記事では、足利将軍家の家系図を見ながら、その子孫について簡単に解説していきます。

足利将軍家の家系図をわかりやすく解説!

足利将軍家の家系図

足利将軍の歴代を簡単に紹介

室町幕府を開いた足利尊氏から続く、足利歴代将軍を見ていきましょう。

【歴代足利将軍】

■初代:足利尊氏(あしかがたかうじ)
1305年(嘉元3年)〜1358年(正平13年/延文3年) 享年:54歳
在職期間:1338年(建武5年/延元3年)〜1358年(正平13年/延文3年)
父:足利貞氏
母:上杉清子
正室:赤橋登子

■二代:足利義詮(あしかがよしあきら)
1330年(元徳2年)〜1367年(正平22年/貞治6年) 享年:38歳
在職期間:1358年(正平13年/延文3年)〜1367年(正平22年/貞治6年)
父:足利尊氏
母:赤橋登子
正室:渋川幸子

■三代:足利義満(あしかがよしみつ)
1358年(正平13年/延文3年)〜1408年(応永15年) 享年:51歳
在職期間:1368年(応安元年/正平23年)〜1395年(応永元年)
父:足利義詮
母:紀良子
正室:日野業子
継室:日野康子

■四代:足利義持(あしかがよしもち)
1386年(元中3年/至徳3年)〜1428年(応永35年) 享年:43歳
在職期間:1395年(応永元年)〜1423年(応永30年)
父:足利義満
母:藤原慶子
正室:日野栄子

■五代:足利義量(あしかがよしかず)
1407年(応永14年)〜1425年(応永32年) 享年:19歳
在職期間:1423年(応永30年)〜1425年(応永32年)
父:足利義持
母:日野栄子

■六代:足利義教(あしかがよしのり)
1394年(応永元年)〜1441年(嘉吉元年) 享年:48歳
在職期間:1429年(正長2年)〜1441年(嘉吉元年)
父:足利義満
母:藤原慶子
正室:日野宗子
継室:正親町三条尹子

■七代:足利義勝(あしかがよしかつ)
1434年(永享6年)〜1443年(嘉吉3年) 享年:10歳
在職期間:1442年(嘉吉2年)〜1443年(嘉吉3年)
父:足利義教
母:日野重子

■八代:足利義政(あしかがよしまさ)
1436年(永享8年)〜1490年(延徳2年) 享年:56歳
在職期間:1449年(文安6年)〜1474年(文明5年)
父:足利義教   
母:日野重子
正室:日野富子

■九代:足利義尚(あしかがよしひさ)
1465年(寛正6年)〜1489年(長享3年) 享年:25歳
在職期間:1474年(文明5年)〜1489年(長享3年)
父:足利義政
母:日野富子
正室:祥雲院

■十代:足利義稙(あしかがよしたね)
1466年(文正元年)〜1523年(大永3年) 享年:58歳
在職期間:①1490年(延徳2年)〜1495年(明応3年)
②1508年(永正5年)〜1522年(大永元年)
父:足利義視
母:日野良子
正室:清雲院

■十一代:足利義澄(あしかがよしずみ)
1481年(文明12年)〜1511年(永正8年) 享年:32歳
在職期間:1495年(明応3年)〜1508年(永正5年)
父:足利政知
母:武者小路隆光の娘
正室:日野永俊の娘

■十二代:足利義晴(あしかがよしはる)
1511年(永正8年)〜1550年(天文19年) 享年:40歳
在職期間:1522年(大永元年)〜1547年(天文16年)
父:足利義澄
母:日野永俊の娘
正室:慶寿院

■十三代:足利義輝(あしかがよしてる)
1536年(天文5年)〜1565年(永禄8年) 享年:30歳
在職期間:1546年(天文15年)〜1565年(永禄8年)
父:足利義晴
母:慶寿院
正室:近衛稙家の娘

■十四代:足利義栄(あしかがよしひで)
1538年(天文7年)〜1568年(永禄11年) 享年:31歳
在職期間:1568年(永禄11年)
父:足利義維
母:大内義興の娘

■十五代:足利義昭(あしかがよしあき)
1537年(天文6年)〜1597年(慶長2年) 享年:61歳
在職期間:1568年(永禄11年)〜1588年(天正16年)
父:足利義晴
母:慶寿院

足利将軍家の子孫は現在まで続いている?

足利将軍家は初代の足利尊氏から始まり、脈々とその血を受け継ぎながら、代々室町幕府の将軍職を担ってきました。それでは、その子孫は現在まで続いているのでしょうか?

ここでは、足利将軍家の子孫について簡単に解説していきます。

足利将軍家の血筋は途絶えてしまった?

足利将軍家は、15代将軍の足利義昭まで続いていきました。
室町幕府最後の将軍、足利義昭には義尋ぎじんという子供がいましたが、2歳のときに、織田信長の元へと人質として送られ、興福寺の大乗院門跡となりました。

仏門に入ったのですから、普通は子供はできません。
しかし、義尋は後に還俗して2人の子供を授かります。

これで足利将軍家は続いていくことができると思いきや、その2人とも仏門に入ってしまいます。つまり、ここで足利将軍家の血筋は途絶えてしまったということになります。

足利尊氏の血は現在まで続いている?

足利将軍家の血筋は途絶えてしまいましたが、実は足利尊氏の血は現在まで続いているのです。

というのも、尊氏には義詮の他にも子供がおり、そのうちの1人 基氏は鎌倉公方となり、関東足利氏として子孫を残していったのです。

また、11代将軍・義澄の二男である足利義維が平島公方となり、平島公方足利氏として同じように現在まで子孫を残していっています。

足利氏の祖先は清和源氏の流れを汲んでいる?

足利氏は清和源氏の流れを汲んでいるという話があります。
足利氏はどのように始まり、そして、どのように現代まで続いていったのでしょうか?
ここでは、足利氏の流れについてを簡単に解説していきます。

室町幕府を開く前の足利氏とは?

足利氏は、元々清和源氏の流れにある河内源氏の嫡流という名門武家の家系となっています。
そのため、足利尊氏たちの祖先は元を辿れば清和天皇に繋がっているということになります。
足利姓を名乗り始めたのは、源義国の次男・義康の頃からです。

義康が父から下野国足利荘を譲り受け、ここを拠点としたことが由来のようです。

その義康から数えて8代目となるのが、足利将軍家の初代でもある足利尊氏ということになります。

つまり、尊氏は源氏で、鎌倉幕府を開いた源頼朝とも血脈状繋がっているのです。

鎌倉時代を通じて、足利氏は北条氏から正室を迎えるなど、幕府執権の北条氏と深い親戚関係にありました。

そうして徐々に力をつけていった足利氏ですが、鎌倉末期になると足利尊氏(高氏)がついに鎌倉幕府を打倒します。

そして、その功績により後醍醐天皇から尊氏の名を賜ります。
建武の新政の後に北朝を擁立し、光明天皇により将軍職に任ぜられ、室町幕府を開いたのでした。

ここからは、室町幕府で管理職を務める、斯波氏、畠山氏、細川氏をはじめ、吉良氏、今川氏などといった多くの分家も誕生しました。

足利将軍家が途絶えた後残った足利家は2系統あった?

足利将軍家は残念ながら、15代足利義昭の孫の代で途絶えてしまいます。

しかし、将軍家が途絶えた後も、足利家には続いている家が2系統ありました。

1つ目は、足利尊氏の三男・基氏から始まる関東足利氏の系統です。

そして、2つ目は、11代将軍義澄の二男・義維から始まる平島公方足利氏の系統です。

両系統とも、足利尊氏の血は入っていることになります。
足利将軍家が滅んだ後は、この内の関東足利氏のほうが足利宗家の扱いをうけるようになりました。

関東足利氏のその後は?

基氏から始まった関東足利氏は、最初鎌倉公方の職を代々受け継いでいきました。

しかし、4代・持氏の際に、室町幕府6代将軍・義教の幕府軍と関東管領・上杉軍に負けてしまい、鎌倉府が滅亡してしまいます。

そして、その子の成氏が、一旦5代鎌倉公方として復活するのですが、やはり幕府や関東管領と争いが絶えず、最終的に下総の古河(現在の茨城県古河市)に移り、初代古河公方となりました。
しかし、5代・義氏に男児ができず、古河公方職は自然消滅してしまいます。

ここで血が途絶えてしまう危機に陥りましたが、豊臣秀吉が古河公方家の娘の血筋を守り、さらには喜連川の所領を与えます。

これを受けて、関東足利氏は喜連川氏と名乗るようになります。

江戸時代も喜連川藩として存続し、石高は旗本並みにもかかわらず、格式だけは十万石の大名並みという破格の扱いを受けていました。やがて、明治になり、喜連川家は足利姓に戻り、華族制度の高い身分に列せられることとなりました。

ここだけを聞いていると、どの時代でも高い地位を与えられ何も困らなかったのではないかと思いますよね?

しかし、先祖の尊氏が南北朝時代の後醍醐天皇と対立したことが、皇室に弓を引いた逆賊として戦前・戦中は非常に肩身の狭い思いをしたそうです。

26代・足利惇氏は、学生時代に学習院で昭和天皇と同窓であったために、苦労もあったということです。

現在の当主は、尊氏から数えて27代となる足利浩平氏です。
惇氏氏の甥にあたり、造形美術関係の会社の代表取締役をされています。

平島公方足利氏のその後は?

11代将軍・義澄の子であった義維が、管領・細川晴元の裏切りによって阿波国(現在の徳島県)に逃げ、平島庄に居を構えたことが平島公方足利氏の始まりです。

平島公方は、当時阿波国を治めていた戦国大名の三好氏の庇護を受けます。

三好氏は義維の子・義栄を14代将軍として擁立することに成功しました。
しかし、その後の平島公方足利氏はただ存続するだけで、江戸時代にもなると地位も所領もなくなってしまいました。家名も足利氏から平島氏に改姓となり、徳島藩から冷遇されていました。

その後、1805年に平島氏は阿波を出て京に移り、再び足利氏を名乗り始めます。

しかし、禄もなかったため、足利氏に関わる寺院からのわずかな援助だけで生計を立てていました。

明治になっても華族になれず、徳島藩から脱藩していたこともあって士族にもなれず、平民として扱われることになります。このように足利宗家となれなかった平島公方足利家は、苦難の続く家系となってしまいました。

しかし、現在までその子孫は続いており、現当主である28代・足利義弘氏は、大学の教員として国際福祉論の指導をされているということです。

まとめ:足利将軍家の血筋は途絶えてしまったが、足利氏自体は現在まで続いている

足利将軍家は、15代義昭まで続いていきましたが、その孫の代で子供ができずに途絶えてしまいました。しかし、足利氏自体は尊氏の血を残し、現在まで続いています。

今回の内容をまとめると、

  • 足利将軍家は尊氏から始まり、代々将軍職を担っていった
  • 15代義昭の孫の代で子供ができずに、足利将軍家の血筋は途絶えてしまった
  • 足利将軍家が滅んだ後は、尊氏の血を引く家が2系統残った
  • 残った2系統である、関東足利氏、平島公方足利氏は、両家とも現在まで子孫が残っている

15代将軍・義昭は織田信長に攻められ、講和を結ぶために息子の義尋を人質として差し出します。

そのときの義尋の歳はわずか2歳。子供を人質として扱うのは当然の時代だったのかもしれませんが、それでも2歳の子を差し出したことは今の感覚では信じられませんね。

子供を大事にしなかったことが、将軍家が途絶えることに繋がったのではないかと思えて仕方ありません。

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