織田信長の家系図。先祖から子孫まで簡単まとめ!家系図から読む信長の人生

織田信長の家系図。先祖から子孫まで簡単まとめ!家系図から読む信長の人生

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大河ドラマ「麒麟がくる」でも登場している、戦国時代を代表する大名の一人、「織田信長」少し前には、フィギアスケートの織田信成さんが、信長の子孫だとか違うとか、現代でも話題に上がるほどの有名人ですよね。
今回は、そんな織田信長の家系図を簡単にまとめ、家族構成、子孫たち、そして信長の政治、交友関係をみていきたいと思います。

信長の家系図からみる家族構成。信長は何人兄妹がいた?

織田信秀の家系図

織田信長には、26人の兄妹がいます(男12名、女14名)。
当時は戦国時代、今のように医療も発展してませんから、生存率が低くたくさん子供をつくる家は多かったようですが、20人越えは当時としてもなかなかの大家族です。
そんな20人以上いる織田信秀の家系」の中で最も有名なのはもちろん「織田信長」です。その他には、信長の妹「お市の方」(浅井長政の妻→のちに柴田勝家の妻)です。

信長と父「信秀」との関係性

織田信長の父「織田信秀」も尾張の虎と呼ばれていた有名な大名です。信長は突然ずば抜けた能力を持って生まれてきた訳ではなく、偉大な大名「織田信秀」の血を受け継ぎ父の背中を見て育ったことで、自らの能力を開花させたのです。
そんな父との関係ですが、非常に良好だったと思います。
しかし、 信秀の葬式で焼香を投げつけた というエピソードが残っています。
これを見た参列者は、「大うつけもの」と信長を批判する声も多かったと言います。
勢力を拡大している真っ最中に突然亡くなった父「信秀」。
そんな父に対して「なんでこんな時に!」「俺がしっかり織田家を引き継ぎ、より勢力を拡大していく」と言った、信長なりの覚悟の気持ちがあったのではと推測されています。

なぜ三男の信長が家督を継いだのか?

生まれた順番でいくと、信長は三男です。でも信秀から 家督を継いで います。
一体なぜ、三男の信長が家督を継いだのでしょうか?
確かに、家系図をみると信長は三男なのですが、実はここには現代にはない当時特有の事情があります。
信秀の長男「信広(のぶひろ)」次男「秀俊(ひでとし)」は、 側室の子供 なんです。つまり、正式な奥さんではない、子供を産んで育てるための女性から生まれた子供なんです。
そう、 信秀の正室から生まれた信長は、事実上の長男 になるんです。信長は生まれた順番こそ3番目ですが、実は信秀の正式な長男なので当時の慣習通りに家督を継ぎました。
あくまでも推測ですが、信長な幼少期から個性を存分に発揮していたようですから、信秀はその個性から信長の将来性を見出していたのかもしれませんね。


信長の父「織田信秀」についてはこちらの記事で詳しく紹介しております。
より詳しく知りたい方は是非ご覧になってください。

家系図からみる信長の子孫たち

織田信長の家系図_信長を支えた8人の妻たち
織田信長の家系図

26人も兄妹がいた信長ですが、信長自身も子沢山です。男11名、女子9名と合計で20人の子供がいます。父の26名に迫る勢いで子沢山です。ちなみに、豊臣秀吉の実子が4人徳川家康の子供が16人ですので、当時としても子沢山だったんですね。

信長の跡継ぎは三法師様?

信長の没後、織田家は誰が信長の跡を継ぐのかで一悶着あります。その時の様子を映画化したのが「清洲会議」です。
長男の「信忠」も本能寺の変の際に、自害してますから、信長の後継は次男の「信雄」か三男の「信孝」が継ぐのかを巡って、豊臣秀吉サイドと、柴田勝家サイドの争いがありました。
しかし、信長は本能寺の変の前に家督を長男の信忠に譲っており、信長の後継はすでに信忠だったのです。その信忠の息子「三法師様」が正当な織田家の跡取りだと、秀吉が担ぎ出したんです。
実は信長の跡取りではなく、信忠の跡取りを決めたんですね。
秀吉は、非常に策略家だったといわれていますが、誰もが信長の跡取りを巡って争っている際に、「信長の跡取りではない信忠の跡取りを決めるのだ」っと気づいたところはさすがですね。

本能寺の変の跡、信長の子供達はどうなった?

本能寺の変の後、秀吉が天下を統一し、その秀吉のあとは家康が江戸幕府をつくりました。信長は天下統一目前でしたが、その子供の中には信長ほどのカリスマ性はなかったんですね。
信長の亡き後、信長の子供達は様々な道を辿りました。

最も長生きしたのは、信長の次女の相応院です。(1561〜1641年)
蒲生氏郷の正室となり、その後色々ありましたが、晩年は京都の嵯峨で過ごし81歳で死去といわれています。
当時は信長の好んだ敦盛にもあるように「人生50年」といわれていましたから、そうとうな長生きですね。

長生きNO.2は報応院です。
信長の五女として生まれ、丹羽長秀の嫡男「長重」との縁組が決められていました。夫の長重が徳川家康の家臣となり江戸に入りその後は江戸で過ごしたといわれています。当時の年齢で80歳ですからこちらも長生きですね。

長生きNO.3は長女の徳姫(1559〜1636)です。
徳川家康の嫡男「信康」の正室。信長に信康の罪状を訴える訴状を送ったことが原因で、信康は切腹させられたともいわれています。関ヶ原の戦いの後、家康の四男から所領を与えられ、京都にて隠棲したといわれています。

信長の息子で一番長生きしたのは、以外にも次男の信雄(1558〜1630年)です。
秀吉に対抗するため家康を頼り、負けたら今度は秀吉に長く仕え、そして最後はまた家康の方につくという変わり身の速さはさすがです。長いものに巻かれ、なんだかんだと乱世を生き抜いたといわれています。ちなみに72歳ですからこちらも長生きですね。

当時は戦国時代ですから、長生きするのは大変だったでしょうね。今のように栄養をとるのも大変でしょうし、医療も整っていませんからね。そんな中、長生きをしたというのは信長の遺伝子が相当強かったのかもしれませんね。
ちなみに、フィギュアスケートの織田信成七男「信高の血を引いているといわれています。

信長の子供達についてはこちらの記事で詳しく紹介しております。
より詳しく知りたい方は是非ご覧になってください。

家系図からみる信長の政治、交友関係

戦国時代は、敵と和睦するために子供を人質にしたり、政略結婚や交友関係をより深めるために結婚させたり、養子にしたりすることは当たり前に行われていました。ここでは、家系図から信長の政治、交友関係を見ていきましょう。

信長の嫁は斎藤道三の娘「帰蝶(濃姫)」

信長の正室は、美濃国の大名「マムシと呼ばれた男 斎藤道三」の娘である、帰蝶(濃姫)です。
斎藤道三は、。 油売りから一大出世して美濃を治める までになった、いわば下克上の人です。
そんな道三の娘です。帰蝶は、当時勢いのあった織田信秀の息子、信長に嫁ぐことで、斎藤家と織田家の友好関係をより深めるために政略結婚させられたのです

当時、斎藤道三と織田信秀は大垣城(岐阜県)を巡って戦さを繰り返してましたが決着がつかず、和睦の道を選びます。
道三には、織田家のスパイとして送り込むという思惑もあったといわれています。また、織田家にとっても道三を織田家の勢力拡大に利用しようとする思惑もあったのかもしれませんね。

信長が斎藤道三を利用しようとしていたのでは?という有名なエピソードがあります。
結婚して1年くらいした時、帰蝶が眠りについた後、信長は毎晩どこかへ出かけて朝方に戻るという不審な行動を1ヶ月あまり続けたことがありました。
自分が寝た後に旦那が出かけ、朝方に戻ってくる、まさに浮気以外の何者でもない気がしますよね?
もちろん、浮気を疑った帰蝶が信長に尋ねると、信長は「道三の家老が謀反を起こそうとしている。その家老からの連絡を待っているのだ」と帰蝶に伝えたといいます。
まさか、「父の家老が裏切ろうとしているなんて…」もちろん。 帰蝶は父 道三にこのことを伝え、道三はこの家老を罰した と言われています

実はこの話は、信長の策略で道三の兵力を弱らせるのが目的だっだんです。政略結婚だからなのか、信長も妻を利用していたんですかね?結婚1年目といえば新婚ですが、なんともさっぱりとした夫婦仲だったんですかね。

信長の子供達の嫁ぎ先

信長自身も政略結婚だったように、信長の娘たちも信長の勢力拡大のためにいろんなところに嫁いでいます。

信長の娘の主な嫁ぎ先

徳姫   ・・・ 徳川信康(家康の長男)の正室
相応院  ・・・ 蒲生氏郷の正室
三の丸殿 ・・・ 豊臣秀吉の側室
永姫   ・・・ 前田利長(前田利家の長男)の正室

豊臣秀吉、「徳川家康前田利家、そして「蒲生氏郷」と、当時信長の勢力を維持拡大するために必要なポイントに娘を妻として送っています。そして、嫁いだ訳ではないですが、四男の秀勝は豊臣秀吉の養子となっています。
当時は、いつ何が起こるかわからない戦国時代ですから、自分の子を人質として預けたり、嫁がせて政略結婚させたりと、家を守るためには必要だったのかもしれませんね。

まとめ

今回は、信長の家系図から子孫、兄弟をみてきました。
簡単にまとめると、

  • 信長の兄弟は20人以上いた
  • 信長の子供も20人いた
  • 信長の子供の中には80歳以上生きた娘がいる
  • 信長は勢力を維持拡大するために、娘達を政略結婚させていた

こうしてみると当時のお家事情が見えてきますね。自分の家を守って行くために必死だったんでしょうね。

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