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浅井長政の子孫は現在も続いている?家系図で簡単に解説!子孫には天皇も?

浅井長政(1545(天文14)〜1573(天正元年))は、戦国時代に活躍した北近江の戦国大名です。
織田信長の妹「お市の方」と結婚していましたが、織田信長に反旗を翻し最後は小谷城の戦いで敗れ自害しました。

浅井長政は、浅井家の3代目にして最後の当主ですが、その子孫は現在まで続いているのでしょうか?
今回は、浅井長政の家系図を見ながら、その子孫は現在も続いているのか?またどんな子孫がいるのか?について簡単に解説していきます。

浅井長政の家系図をわかりやすく解説!

浅井長政の家系図

浅井長政の家族構成はどうだった?

【浅井長政のプロフィール】

浅井長政(あざいながまさ)
1545年(天文14年)〜1573年(天正元年)  享年:29歳
出身地:近江国(現在の滋賀県)
父:浅井久政
母:小野殿
正室:平井定武の娘
継室:お市の方
側室:八重の方
子:万福丸、万寿丸、茶々、初、江

浅井長政は、1545年(天文14年)に浅井久政の嫡男として、六角氏の居城・南近江の観音寺城下で生まれました。そして、15歳で元服した際に、六角氏が浅井と臣従関係にあることをはっきりとさせるために、長政に六角氏当主・六角義賢の一字をとって賢政と名乗らせ、六角氏の家臣である平井定武の娘との婚姻も強いました。

しかし、その後家督を相続した長政は、六角氏から離反することを決め、その意思を明確にするために、平井定武の娘を六角氏に返し、賢政の名も新九郎に戻しました。

その後、長政の活躍を聞きつけた織田信長が同盟を提案してきました。
その際、信長の妹であるお市の方と政略結婚をします。

浅井長政とお市の間には、茶々、初、江という3人の娘が生まれました。
また、長政には2人男児もいたと言われていますが、こちらは母親が誰かという記録が残っておらず、はっきりとはわかっていません。

浅井長政の正室・お市の方は織田信長の妹

先にも記載した通り、浅井長政の正室は最初は平井定武の娘でした。

しかし、その後六角氏から離反する際に平井定武の娘を六角氏に返します。

そして、織田信長から同盟の話がきて、信長の妹であるお市の方を正室に迎えることとなります。

この浅井長政とお市の方との婚姻は、政略結婚の意味合いが強いものでしたが、夫婦関係は良好だったと言われています。

浅井長政は優しく愛妻家で、織田信長に反旗を翻し、対立したあとでも2人の関係が悪くなることはありませんでした。

浅井長政の子孫は現在も続いている?

浅井長政には5人の子供がいました。

中には男の子もいましたが、浅井長政の子孫は現在まで続いているのでしょうか?
ここでは、長政の子孫について簡単に解説していきます。

浅井長政の嫡流は途絶えた? 

浅井長政には、2人の男児(万福丸、万寿丸)がいたと言われています。

本来であればそのどちらかが家督を継ぎ、浅井家を続けていったのでしょう。

しかし、小谷城落城後、織田信長の命により処分されてしまいます。

嫡男であった万福丸は、関ケ原で豊臣秀吉によって殺され、次男の万寿丸はまだ赤子だったので命は助けられましたが、後に出家させられました。

つまり、浅井長政の子孫である2人とも子供を残すことはできず、ここで浅井長政の嫡流は途絶えてしまったことになるのです。

浅井長政の娘、三姉妹(初、江、茶々姫)のその後は?

浅井長政の嫡流は途絶えてしまいましたが、長政の子供は他にもいます。

それがお市の方の間に授かった、茶々、初、江の三姉妹です。

この3人は小谷城が落城後、お市の方と一緒に織田家に引き取られることになりました。
そして、それぞれが様々なところに嫁ぎ、子孫を残していったのです。

茶々
浅井長政とお市の方の長女「茶々」は、豊臣秀吉の側室となります。
そして、豊臣秀吉にとって最初の男児となる鶴松を生みますが、鶴松はわずか3歳で早世してしまいました。
その後、嫡男となる豊臣秀頼を生みます。
茶々は嫡男の母親として栄華を極めますが、大阪夏の陣で大阪城が落城し、秀頼とともに自害することになってしまうのです。
つまり、茶々の血筋はここで途絶えることとなりました。

浅井長政とお市の方の次女「初」は、京極高次の正室となります。

この京極高次は、浅井長政の姉の子供にあたります。

つまり、従兄弟同士の結婚ということになりますね。
しかし、2人の間には子供はできなかったため、初の血筋もここで途絶えることとなりました。

浅井長政とお市の方の三女「江」は、最初は佐治一成に正室として嫁ぎます。

しかし、佐治一成は戦で敵に手を貸した疑いで豊臣秀吉に追放されてしまい、江も離縁となってしまいました。
その後、豊臣秀吉の養子である豊臣秀勝に嫁ぎ、江は秀勝との子供を身籠りましたが、秀勝は朝鮮出兵の際に戦病死してしまいます。

誕生した娘の完子は、叔母である茶々に引き取られました。

その後、江は江戸幕府2代将軍である徳川秀忠に嫁ぐことになります。
徳川秀忠との間には、3代将軍となる家光を含め2男5女を授かります。
こうして、この江の血筋はそのまま現代まで続いていくこととなるのです。

浅井長政の子孫には天皇も?

浅井長政の血脈が、今上天皇にも続いています。

それは、娘の江から続くものになります。
江と豊臣秀勝との間に生まれた完子は、公家である九条家へと嫁ぎます。

また、江と徳川秀忠の間に生まれた三女・勝姫の娘も九条家へと嫁いでいます。

この九条家は、大正天皇の妃となった節子の出身家となります。

つまり現在の今上天皇は、節子を通して、

  • 織田
  • 浅井
  • 豊臣
  • 徳川

の血を受け継いでいるということになるのです。

浅井長政の男系の子孫が生き残っていたという話も?

一般的に、浅井長政の男系の子孫は、万福丸と万寿丸の2人だと言われていますが、実はもう1人いたという話もあるのです。

その証拠となるのが、愛知県小牧市に建てられた浅井長政像です。

近江国(現在の滋賀県)出身のはずの浅井長政の像がなぜこんなところに建っているのでしょう?

それは、浅井長政の側室・八重の方が関係しています。

八重の方は、実は浅井長政との間に七郎という男の子を産んでいたというのです。

そして、小谷城落城時に、八重の方は七郎を連れて美濃へと逃げました。

その後、七郎が二十歳になった際、愛知県小牧市に移ったというわけです。

浅井長政像は七郎の子孫が建てたと言われています。

つまり、浅井長政の男系の子孫が、愛知県で続いていた可能性があったということになります。

浅井長政はどうして織田信長を裏切った?

浅井長政は織田信長に攻められ、最終的に自害しています。

元々は織田信長の妹を正室に迎えるなど、2人は同盟関係にあったはずなのです。

その同盟関係が崩れるきっかけとなったのが、金ヶ崎の戦い(1570年)です。

この戦いの際に、浅井長政は信長を裏切って織田軍を攻めてしまいます。
なぜ、浅井長政は織田信長を敵に回すようなことをしたのでしょうか?

ここでは、長政が信長を裏切った理由とともに、浅井長政の最後の姿についてを簡単に解説していきます。

浅井家の同盟者・朝倉家を織田信長が攻撃したから

まず挙げられる1つ目の理由としては、織田信長が浅井家の同盟者である朝倉家を攻撃したからというものがあります。

そもそも、浅井家と朝倉家というのは、長政の先々代である亮政の時代から同盟関係にありました。

亮政は朝倉から何度も援軍をもらっていたと言われています。
このことから、長政は信長と同盟を結ぶ際、「朝倉家には攻め込まない」という約束をしているのです。

しかし、朝倉家と仲が悪かった織田信長は、その約束を破って長政には何も告げずに越前・朝倉へと進軍してしまいます。
このことに、浅井長政の父・久政は激怒し、家来たちに担がれ信長を攻撃することを主張し始めます。そして、これに根負けした浅井長政が織田軍を背後から襲ったと言われています。

浅井家を存続させるため

もう1つの理由としては、浅井家を浅井家として存続させるためということが挙げられます。

浅井長政が織田信長を裏切る直前は、既に織田家は尾張から畿内をほとんど制圧していました。

対する浅井長政は近江国の北半分を治めているだけです。

ここで、朝倉家が織田信長に敗北し、領地を乗っ取られるとすると、浅井家はほぼ完璧に信長に包囲される形になってしまいます。

そうなってしまっては、もう浅井家の所領は織田家に乗っ取られ、浅井家自体も織田家の家来と成りさがってしまう可能性が高くなります。
浅井長政はそれを避けたいと思い、自領と浅井家の秩序を守るために、織田信長を裏切ったというわけです。

浅井長政の最後の姿

浅井長政は、小谷城にて信長に追い詰められ自害することになります。そ
の際に、辞世の句を詠んでいたという資料はなく、どのような最後を迎えたのかははっきりとはわかっていません。

しかし、織田信長に追い込まれたときに、浅井長政は自分の最後を悟り、家臣の片桐氏に宛てて感状(感謝の言葉を綴ったもの)を送ったと言われています。

最後の最後まで自分のことよりも、家臣のことを気遣っていた証拠と言えるでしょう。
それほどまでに、浅井長政は信義を重んじる人物だったのです。

まとめ:浅井長政の嫡流は途絶えてしまったが、子孫は現在まで続いていた

浅井長政には子供が5人(男:2、女:3)いましたが、小谷城落城の際に、男児は処分されてしまいます。こうして、浅井長政の嫡流は途絶えることになりました。

しかし、浅井長政とお市の方との間に生まれた三姉妹は小谷城落城後も生き延び、それぞれ様々な場所に嫁ぎ、子孫を残していきました。

こうして繋がっていった浅井長政の血は、今上天皇に流れているということがわかりましたね。

今回の内容をまとめると、

  • 浅井長政は織田信長と同盟を結んだ際に、信長の妹・お市の方と政略結婚した
  • 浅井長政は正室・お市の方との間に3人の娘(茶々、初、江)を授かった
  • 浅井長政には、母親は不詳の男児2人もいた
  • 小谷城落城の際に、浅井長政の嫡男は処刑され、次男は出家させられてしまった
  • 浅井長政の嫡流は途絶えた
  • 浅井長政の三姉妹はそれぞれ様々な場所に嫁ぎ、子孫を残した
  • 特に江の子孫は、現代まで見ていくと今上天皇につながる

浅井長政はわずか29歳という若さでこの世を去っています。

浅井家を存続させるために信長を裏切ることを選んだ結果、すべてを失うことになってしまったのですから、もし裏切らず織田信長側についていたのなら…と考えてしまいます。

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4件のコメントがあります

  1. 浅井孝多郎

    こちらのサイトの記事を読み、初めてメールをさせていただきます。
    記事の中で、浅井長政と八重の子の間に生まれた七郎が愛知県小牧市にいた可能性があるとありましたが・・・・その後の子孫についての情報はないのでしょうか?
    我が家には、浅井国幹先生が残した浅井系統一覧(家系図)に繋がる過去帳があり、先祖は三河屋という屋号の瓦屋を300年にわたり東京の麹町で営んでいた家系で、先祖は江戸城や皇居の瓦を葺いておりましたが・・・江戸に移る前の足跡が不明で困っています。

    1. Histonary編集部

      コメントありがとうございます♪
      その後の子孫についての情報はなかなか出てこないんです。。。

      浅井国幹先生に繋がってらっしゃるんですか???
      当方でも、何か情報があれば、記事に追記させていただきます。

  2. 浅井孝多郎

    お世話になります。
    浅井国幹先生が残した浅井系統一覧には、浅井長政の子供として記されている三姉妹(茶々、初、江)や万福丸の他、3人の男子が存在していたことになっていますが・・・・
    我が家の過去帳にも、そのうちの「長明」から続く「覚念」→「政次」→「浅井新兵衛」が江戸に移ったとされていることが記されていることや、「三河屋」という屋号の瓦屋を麹町で300年間営んでいたことから、我が家の先祖は愛知県から移り住んだのでは?と考えております。
    ちなみに、浅井国幹先生の浅井系統一覧は確か?北里大学の研究室に保管されていると聞き、以前に行政書士の先生に依頼してその系図を大学の許可を得て写真に収めたものが我が家にあります。(長明以降の詳細の流れが、我が家の過去帳とぴったり一致しております)

    1. Histonary編集部

      返信が遅くなり、申し訳ありませんm(_ _)m
      そうなんですね??
      貴重な情報ありがとうございます♪