アフィリエイト広告を利用しています

藤原道長の家系図を簡単に解説!中臣鎌足から現代に続く子孫まで一挙解説!

藤原道長の家系図を簡単に解説!藤原鎌足から現代に続く子孫まで一挙解説!

藤原氏と言えば平安時代に栄華を極めた貴族です。
その中でも藤原道長は一族中で最も出世した人物として、また源氏物語の主人公ではないかとの噂もあります。
今回は、藤原道長の家系図をもとに、藤原道長がどのようにして権力をつかんでいったのか?その家系と子孫について見ていきます。

藤原道長の家系図

日本の歴史を動かしてきたといっても過言ではない藤原氏。その中で歴事上最も有名なのが藤原道長ではないでしょうか?
藤原道長は娘を天皇に嫁がせ、皇族と外戚関係となり大きな権力と地位を確固たるものにしています。
道長が築いた藤原氏の地位は子孫たちにも受け継がれ、日本の歴史に大きな影響を及ぼしているのです。
ここでは、藤原道長の家系図を見ていきましょう。

藤原道長の家系図

藤原道長の先祖は「中臣鎌足」

645年(皇極天皇4年)蝦夷を倒した中臣鎌足なかとみのかまたりは内大臣に就任し、大化の改新を行いました。
その後、669年(天智天皇8年)に中臣鎌足が臨終の際、天智天皇てんぢてんのう(中大兄皇子:626年(推古天皇34年)~672年(天智天皇10年))から藤原の姓を賜ったとされています。
天智天皇から、藤原姓を最初に賜った中臣鎌足が、藤原道長をはじめとする藤原一族の祖先です。

藤原氏の子孫や成り立ちに関しては、こちらの記事にも詳しくまとめてあります。

>>藤原氏の子孫は現在も続いている?藤原氏の原点は誰?現在の子孫の苗字は?>>

藤原道長の家柄「藤原北家」

道長がいた平安時代には、藤原氏は4つの家系に分かれており、藤原四家と呼ばれています。
藤原四家は中臣鎌足の次男である、藤原不比等ふじわらのふひと(659年(斉明天皇5年)~720年(養老4年))の4人の子供がそれぞれ祖になっています。
その中で道長は北家の家系に生まれました。

北家はの不比等の次男 藤原房前ふじわらのふささき(681年(天武天皇10年)~737年(天平9年))が祖です。
北家は藤原四家の中では最も遅く力を付けましたが、結果として四家の中で最も栄えることになりました。
藤原道長も北家の出身です。
もともと興隆した家系に生まれたというより、藤原道長が興隆させたと言う方が正しいかもしれません。

藤原道長から続く「五摂家」

藤原道長は息子である藤原頼道ふじわらのよりみち(992年(正歴3年)~1074年(延久6年))とともに内覧(天皇に奉じるを先に見る役職)摂関を72年間にわたって務まました。
この流れから摂政・関白は北家の者がなる流れとなり、藤原氏の一族である近衛家このえけ九条家くじょうけ二条家にじょうけ一条家いちじょうけ鷹司家たかつかさけの5つの家が五摂家と呼ばれるようになります。
この五摂家が摂政・関白の役職に就任できる家柄となりました。

藤原氏の子孫や成り立ちに関しては、こちらの記事にも詳しくまとめてあります。

>>藤原氏の子孫は現在も続いている?藤原氏の原点は誰?現在の子孫の苗字は?>>

藤原道長の家系図から見る家族構成

藤原道長は966年(康保3年)に藤原家の五男として生まれました。通常、五男であれば家を継ぐことはありませんが、兄たちが病で亡くなったり、権力闘争に勝利したりしてのし上がっていきます。

藤原道長の兄弟たち

藤原道長の父である藤原兼家ふじわらのかねいえ(929年(延長7年)~990年(永称2年))には5人の息子がいました。

  • 藤原道隆:953年(天暦7年)~995年(長徳元年)
    摂政・関白になったものの5年ほどで病で亡くなりました。
  • 藤原道綱:955年(天歴9年)~1020年(寛弘4年)
    右馬助、左衛門佐や左近衛少将を歴任しましたが、他の兄弟に比べると出世は遅い状態でした。
  • 藤原道兼:961年(応和元年)~995年(長徳元年)
    道隆が亡くなった後、関白になるもののわずか数日で亡くなりました。
  • 藤原道義:不明
    四男とされています。

藤原道長はもともとあまり目立つ存在ではなかったといわれています。
4人の兄たちの中でも藤原道隆ふじわらのみちたか藤原道兼ふじわらのみちかねは有力な人物でしたが病により死亡。
その後、道隆の長男である藤原伊周ふじわらのこれちか(974年(天延2年)~1010年(寛弘7年))との政治闘争に勝ち、藤原道長が権力を握ることになります。

藤原道長の子供たち

藤原道長は、子供が11人もいる子だくさんでした。

  • 頼道:992年(正暦3年)~1074年(延久6年)
    摂政・関白・太政大臣を務めました。
    平等院鳳凰堂を造営したことでも有名です。
  • 頼宗:993年(正暦4年)~1065年(康平8年)
    右大臣を努めました。
  • 能信:995年(長徳元年)~1065年(康平8年)
    権代納言を務めました。
  • 教通:996年(長徳2年)~1075年(承保2年)
    関白・太政大臣を務めました。
  • 長家:1005年(寛弘2年)~1064年(康平7年)
    権代納言を務めました。
  • 彰子:988年(永延2年)~1074年(承保元年)
    一条天皇の中宮であり、後一条天皇、後朱雀天皇の母です。
  • 妍子:994年(正暦5年)~1027年(万寿4年)
    三条天皇の中宮です。 
  • 寛子:999年(長保元年)~1025年(万寿2年)
    小一条院の女御です。
  • 威子:1000年(長保元年)~1036年(長元9年)
    後一条天皇の中宮です。
  • 嬉子:1007年(寛弘4年)~1025年(万寿2年)
    後朱雀天皇の后であり、後冷泉天皇の母です。
  • 盛子:(不明)
    三条天皇の女御です。

藤原道長の息子は重要な役職に就き、娘は皇室と深い関わりがあることがわかります。

藤原道長が藤原氏の最盛期を築き上げた

藤原道長の父である兼家も摂政として権力を握っていました。
その父親が築き上げた藤原氏としての地位や権力を、より強固なものにした立役者が藤原道長です。

藤原道長は娘を天皇家へ嫁がせ権力を握った

道長は娘を天皇家へ嫁がせることで皇族と外戚関係になりその力を確固たるものにしました。
天皇家へ嫁いだ娘たちは後の天皇を産んでいます。道長は娘を天皇の后にすることで天皇の祖父になり、藤原氏の地位や権力を確立しました。
また、自身の孫にあたる天皇にも娘を嫁がせ、天皇家との関わりをより深くしています。
【天皇家へ嫁いだ、藤原道長の娘たち】

  • 彰子:988年(永延2年)~1074年(承保元年)
  • 妍子:994年(正暦5年)~1027年(万寿4年)
  • 寛子:999年(長保元年)~1025年(万寿2年)
  • 威子:1000年(長保元年)~1036年(長元9年)
  • 嬉子:1007年(寛弘4年)~1025年(万寿2年)
  • 盛子:(不明)

【天皇になった藤原道長の子孫たち】

  • 後一条天皇:1008年(寛弘5年)~1036年(長元9年)
    母・彰子
  • 後朱雀天皇:1009年(寛弘6年)~1045年(寛徳2年)
    母・彰子
  • 後冷泉天皇:1025年(万寿2年)~1068年(治暦4年)
    母・嬉子

天皇家に嫁ぐには、容姿はもちろんのこと、知性も必要です。その上、次期天皇(男子)を産むことも必須条件です。藤原道長は、娘に最高の家庭教師をつけ、才色兼備な女性へと育て上げたと言われています。
その家庭教師には、源氏物語を書いた紫式部むらさきしきぶもいました。

容姿と知性を兼ね備え、さらには男子を出産させる。努力だけではどうにもならないことを、何回も実現した藤原道長には、運も味方していたのかもしれませんね。

藤原道長が栄華の頂点に詠んだ歌

娘を天皇家へ嫁がせ藤原氏の勢力を大きくした藤原道長は、ある有名な歌を詠んでいます。

「この世をば我が世とぞ思う望月の かけたることをなしと思えば」

現代訳:
この世は私のためにあるように思う。今夜の満月のように、私には欠ける部分が何一つないからだ。

満月を自分自身と重ね合わせ、何もかもが自分のものだと詠っています。

かなり自信満々な内容ですが、当時の藤原道長の力はそれほど絶大だったことが伺えます。
1000年も前の歌ですが今なお多くの人が知る有名な歌です。

藤原道長の子孫は現代にも続いている?

明治維新によって関白が廃止されるまで、摂政・関白の役職は五摂家から就任していました。
摂政については現在の皇室典範でも存続しています。
(*現在は藤原氏の家系の人間が就くわけではありません)

五摂家の当主は華族となり、その中でも一番上の位である侯爵になりました。
現在の五摂家の子孫はどうなっているのか?見ていきましょう。

・近衛家
現当主は、日本赤十字社の社長である近衛忠煇氏です。 
近衛家は第34・38・39代内閣総理大臣の近衛文麿このえふみまろも排出しています。

・鷹司家
現当主は神社本庁統理の鷹司尚武たかつかさなおたけです。
伊勢神宮大宮司、神宮司庁代表役員などを歴任していました。

・九条家
現当主は明治神宮権宮司である九条道成くじょうなりみちです。
第126代天皇徳仁と秋篠宮文仁親王は実の四従兄にあたります。

・一条家
現当主はアンダーソン・毛利・友常法律事務所顧問の一條實昭いちじょうさねあきです。
桂宮さまの学習院での先輩にあたり、葬儀の際にも司祭長を務めました。

・二条家
現当主は二条基敬にじょうもとゆきです。
現在は神職であり実業家をされています。

藤原道長から続く子孫たちは、現在も様々な要職についており、皇族との関わりを持っています。

藤原氏の子孫や成り立ちに関しては、こちらの記事にも詳しくまとめてあります。

>>藤原氏の子孫は現在も続いている?藤原氏の原点は誰?現在の子孫の苗字は?>>

まとめ:藤原道長の家系図をみれば、藤原氏の最盛期がわかる

藤原氏は日本の歴史を語る上で切っても切れない人物です。摂関政治により栄華を極め、日本の中枢にいたとも言えます。
今回の記事をまとめると、

  • 藤原氏の祖先は中臣鎌足
  • 藤原道長は北家の出身
  • 藤原道長が始まりとなり五摂家が生まれた
  • 藤原道長は娘を皇室に嫁がせることで、その権力を確固たるものにした
  • 藤原道長の子孫は、五摂家の人間として現代でも活躍している

1000年以上前の日本で、絶大な権力を握っていた藤原道長につながる子孫たちが、現代でも活躍してるのは、日本という国のその長い歴史を感じることができますね。

藤原氏の子孫や成り立ちに関しては、こちらの記事にも詳しくまとめてあります。

>>藤原氏の子孫は現在も続いている?藤原氏の原点は誰?現在の子孫の苗字は?>>

スポンサーリンク

最初のコメントをしよう

必須

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください