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弁慶とはどんな人?源義経との関係は?性格は?死因は?武蔵坊弁慶の伝説など簡単に解説!

弁慶(?〜1189(文治5))は、平安時代末期に活躍した僧衆です。

源義経の忠臣として有名で、怪力無双の荒法師として知られています。

また、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、元ラガーマンの俳優・佳久創さんが演じられたことで話題になりました。

そんな弁慶とはどのような人物だったのでしょうか?

この記事では、弁慶の本名や性格、死因などを簡単に解説していきます。

弁慶とはどんな人?

弁慶は源義経に仕えた忠臣として有名です。
弁慶の本名や性格などはどのようなものだったのでしょうか?

ここでは、弁慶とはどんな人だったのかを簡単に解説していきます。

弁慶の生涯を簡単に解説!

弁慶は、熊野別当・弁昌と二位大納言の娘の間に生まれたと言われていますが、その生年は正確なところは判明していません。
しかし、生まれてくる前から驚くべきことがあります。
それは、なんと弁慶は、母親の胎内で18ヶ月も過ごしていたと言われているのです。
そのため、生まれた時点で2、3歳児ほどの体格をしており、髪は肩を覆うほどに伸び、歯も大きく生え揃っていました。

弁昌は、弁慶のこの姿を見て、鬼の子だと決めつけて殺そうとします。

しかし、二位大納言の娘によってそれは阻止され、弁慶は弁昌の妹に引き取られることになりました。この際、「鬼若」という幼名がつけられます。

幼少期を京都で過ごし、順調に育っていった弁慶でしたが、6歳の時に疱瘡を患います。
そして、この影響で肌が黒くなってしまうのです。

また、不思議なことに、髪の長さも生まれた時のまま伸びることはありませんでした。

その後、弁慶は比叡山延暦寺の僧・かん慶のもとに預けられます。

しかし、乱暴狼藉を働いたことで放逐。

山を降りる時に、弁慶は自ら髪を剃り、「弁慶」と改名し、その後しばらくは四国の霊山を巡り、修行の日々を過ごしました。

後に、播磨国にある圓教寺に身を寄せますが、ここでも乱暴を働いてしまい、またもや放逐。

こうして、身を寄せるお寺がなくなってしまったことにより、弁慶は京都に戻ったのです。

そして自分の怪力無双を試すべく、1000振の太刀を奪うという祈願を立て、その記念すべき1000振目に現れたのが、源義経でした。

源義経に挑み、返り討ちにあった弁慶は、義経の家臣になることにします。

その後は、源義経の忠臣として様々な場面で活躍していくのです。

弁慶の本名は?

弁慶は、幼少期は「鬼若」という名前でした。
そして、後に自ら剃髪し入道した際に、その名前を「武蔵坊弁慶」としました。

そのため、弁慶の本名は、武蔵坊弁慶ということになります。

ちなみに、弁慶の「弁」は父・弁昌から、「慶」は師・かん慶から文字をとっているそうです。

弁慶の性格は?

弁慶の性格は、源義経と出会う前と出会った後でだいぶ印象が変わります。

源出会う前までは、「乱暴者」という側面が強く、各所に迷惑をかけまくる厄介者でした。

しかし、源義経と出会った後は、「忠臣」というイメージが強くなります。

義経に忠義を尽くし、その有り余る力を義経のために使っていました。
また、『勧進帳』などのエピソードからも伺えるように、非常に頭の回転が早く、機転の効く人物でもありました。

弁慶は、武勇のみならず、知恵までも備えている、そんな優秀な人物です。

弁慶の身長は?

弁慶はとても巨体であったと言われていますが、身長はどのくらいあったのでしょうか?

伝承通りに考えると、その身長はなんと208cmもあったそうです。

また、体重も100kgあったようで、本当に仁王のような巨体でした。

ちなみに、主君である義経は、身長147cmの体重47.5kgだったとされていますから、その側にいた弁慶は余計に大きく見えていたことでしょう。

弁慶を元にした言葉がある?

弁慶に由来する故事や慣用句はとても多く残っています。
その中でも代表的なものをいくつかご紹介していきます。

【弁慶を由来とする言葉】

・弁慶の泣き所

「弁慶の泣き所」とは、足の脛の部分のことを指します。この部分は、皮膚のすぐ下に神経が通っているため、「弁慶ほどの豪傑でも、ここを打つと涙を流すほど痛がる」とされ、弁慶の泣き所と言われているのです。

・弁慶の立ち往生

これは、弁慶が最後を迎えた際、義経を守ろうとして立ったまま事切れたことに由来する故事です。「忠義の士」を示す言葉として使用されていましたが、そこから転じて、「立ち往生」という「進退窮まる状況」の意味にも派生していきました。

・内弁慶

内弁慶とは、外ではおとなしい性格をしているのに、家族や仲間の前では威勢のいい人物のことを指す言葉です。ここから派生して、現在ではネット上でだけ威勢のいい人物のことを指す言葉として、「ネット弁慶」などという言葉も存在しています。この言葉は、あまり良い意味で使われることはありません。

・七つ道具

七つ道具という言い回しも、弁慶に由来する慣用句です。弁慶が持っていたとされる「薙刀、鉄の熊手、大鎚、大鋸、刺又、突棒、袖搦(そでがらみ)」の七つの道具が語源とされています。創作などでよく使われる言い回しですね。

弁慶と源義経との関係は?

弁慶は、源義経の忠臣で、その生涯を義経に捧げました。
その関係性はどのようなものだったのでしょうか?
ここでは、弁慶と源義経の関係について簡単に解説していきます。

弁慶と源義経は主従関係?

弁慶と源義経は主従関係にありました。2人はどのようにしてその関係になったのでしょうか?

まず、弁慶と義経は、京都の五条大橋の上で出会いました。
この場所で、弁慶は自分の怪力無双を試すべく、この道を通る武者を襲っては太刀を奪うということをしていました。

999本集まり、残り1本で1000本になる、というところで現れたのが、義経(牛若丸)です。

義経は、美しい女性を思わせるような細身で、弁慶は簡単に倒せると思いました。さらに、腰には立派な刀を佩いていたので、これこそ1000本目にふさわしいと、義経に攻撃をしかけます。

しかし、義経は欄干を飛び交うなど身軽な身のこなしで、弁慶の攻撃を次々に避けていきます。そして、ついに弁慶は返り討ちにされてしまうのです。

弁慶を倒した義経は、自分が平家に殺された源氏のトップ・源義朝の息子であることを弁慶に話します。すると、弁慶は、義経のその強さと高貴な血統に惚れ込み、義経の家来にしてくれと頼み込みました。

こうして弁慶は義経の家臣となり、以降、義経の忠臣として活躍していくわけです。

弁慶が源義経を救ったエピソードをご紹介

【弁慶が源義経を救ったエピソード】

・船弁慶のエピソード

源頼朝に追討され、西国へと逃げていく際の出来事です。

義経は静御前と別れ、弁慶と共に荒れ狂う海へと出航しましたが、その途中で、なんと平家の亡霊が現れたのです。

義経は亡霊たちと刀で斬り合いますが、亡霊相手ですから決着がつきません。
そこで弁慶が前に出て、「相手は亡霊、刀では斬れますまい」と数珠を持ち経を唱え始めました。

その結果、亡霊は引き潮に引かれて遠ざかり、義経一行は無事に海を渡り切ることができたと言われています。

・安宅関でのエピソード

弁慶の忠臣ぶりを表すエピソードとして最も有名なのが、歌舞伎の演目にもなっている『勧進帳』でしょう。

先程同様、頼朝に追討され、義経が奥州へと逃げている際の出来事です。この際、義経一行は山伏の格好に変装していました。

奥州までの途中にある加賀の安宅の関を通る時に問題が起こります。ここの番人・富樫左衛門に変装を見破られてしまうのです。富樫左衛門は義経たちに、山伏の証明である「勧進帳を出せ」と迫りますが、義経たちは当然そんなものは持っていません。

しかし、ここで弁慶が持っている巻物を広げて、スラスラと勧進帳を読み上げるのです。

実はこの巻物は、何も書かれていない白紙の巻物でした。弁慶は何も書かれていない巻物を、あたかも本当に文字が書かれているかのように読み上げたのです。この弁慶の芝居のおかげで、関所の責任者は彼らを通すことにします。

しかし、さらなる問題が。

後列にいた義経の顔を見た役人が、「義経に似ている!!」と疑い始めるのです。ここで弁慶は驚くべき行動に出ます。なんと咄嗟に義経を棒で殴りつけたのです。

「お前が義経に似ているせいで、あらぬ疑いをかけられてしまったではないか!!」

と何度も何度も打ち据えました。それを見た役人たちは、義経たちへの疑いを晴らし、関所を通過させることにします。

関所を通過した後、弁慶は義経に涙ながらに謝罪します。それに対して義経は、弁慶の行いを真の忠義だとして褒めたと言われています。

義経を守るためならば、なんでもするという弁慶の気概を感じることのできるエピソードですね。

弁慶の最後の姿はどうだった?

弁慶は怪力無双で知られており、義経に出会う前には999人斬りをしているくらい強い人物でした。

そんな弁慶の最後は戦死だったと言われています。
それはどのような最後だったのでしょうか?

ここでは、弁慶の最後の姿について簡単に解説していきます。

弁慶の最後は源義経を守って死んだ?

弁慶の最後の戦いは、衣川の戦いでした。衣川の戦いとは、源頼朝に追討され、なんとか平泉に逃げてきた義経に、奥州藤原氏当主・藤原泰衡が奇襲を仕掛けたという形の戦いでした。

このとき、命からがら奥州に逃げてきた義経には、十分な軍隊を用意できるはずもなく…。

兵力は、義経側がわずか10数人なのに対して、泰衡側は約500人もいたそうです。

弁慶を始めとした義経の家臣たちは、主君を守ろうと奮闘します。しかし、圧倒的な兵力差を前に為す術もなく、義経側は窮地に陥ってしまうのです。

そんな中、弁慶は追い詰められた義経を守るべく、敵の前に立ちはだかります。そして、喉笛を切り裂かれ出血するなど、満身創痍の状態になってしまうのです。普通の人間であれば死んでいるところですが、それでも弁慶はいっそう力を発揮し、次々に敵をなぎ倒していきます。

この際、弁慶が最後の別れをしようと、義経のもとに向かうと、義経は法華経を読経していました。

そして、弁慶に

「読経はもう少しで終わる。読み終わるまで、(弁慶が死んでも)私を守れ」

と言ったので、弁慶は再び敵兵を討つべく立ち上がります。

義経が籠もっている堂の入り口に仁王立ちし、敵を睨みつけました。

その姿はまるで金剛力士のようで、弁慶は痴れ笑いをしていたと言います。

薙刀をふるって防戦していましたが、敵の無数の矢を一身に受けて、立ったままそのまま絶命してしまいました。

これは、「弁慶の立ち往生」として後世に語り継がれていくことになりました。

弁慶の最後の言葉とは?

弁慶は最後に、義経に向けて辞世の句を残していました。

「六道の 道のちまたに 待てよ君 遅れ先立つ 習いありとも」

(現代語訳:義経様、どうか冥途への道の途中で待っていてください。先立つ順番に後先があったとしても)

これに対して、義経も弁慶に向けての句を読んでいます。

「後の世も また後の世も めぐりあへ 染む紫の 雲の上まで」

(現代語訳:後世も、そのまた後世も巡り逢おう。あの紫に染まった雲の上の浄土まで共に行こう)

このように、弁慶の辞世の句と義経の返歌は、主従の固い絆をよく表していますね。

弁慶の墓所はどこにある?

衣川の戦いで最後を迎えた弁慶ですが、その墓所はどこにあるのでしょうか?

それは、弁慶が立ち往生した衣川の近く、中尊寺表参道、月見坂の登り口に存在しています。

そこには、弁慶の図体の大きさを想像させるような、大きな墓石が置かれているのです。そして、その周りには数本の松が墓を囲むように立っており、その松は弁慶松と呼ばれています。

松の下には円形の句碑があり、

「色かへぬ 松のあるしや 武蔵坊」

という、中尊寺一山中の俳人・素鳥(そちょう)の句が掘られています。
こちらは、弁慶の最後まで変わることのなかった義経への忠義の心を、色を変えない松の緑に例えた句です。

弁慶の墓

住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関地内

まとめ:弁慶とは源義経に仕えた忠義に厚い怪力無双の人物だった

弁慶は、源義経と出会う前までは、ただの怪力無双の荒くれ者でした。しかし、義経と出会ってからは、忠義を尽くし、その命を最後まで義経のために使いました。

今回の内容をまとめると、

  • 弁慶は若い頃、荒くれ者で様々な場所から追い出されてしまうような厄介者であった
  • 弁慶は、京で刀狩りをしていたところ、源義経と出会った
  • 弁慶は、源義経に惚れ込み家臣となってからは、義経に忠義を尽くした
  • 弁慶は、源義経が頼朝に追討されると、一緒に奥州へと逃亡した
  • 弁慶の最後は、衣川の戦いにて、義経を守りながら戦死した

弁慶の性格は、義経と出会う前と出会った後では、まるで別人のように変わります。それほどまでに、義経が弁慶に与えた影響は大きかったのでしょう。そして、それほどまでに大きな影響を与えてくれるような人物と出会えた弁慶は、幸せ者だったのかもしれませんね。

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