藤原道長の歌とは?歌の意味や背景のエピソードなどを簡単に解説!
藤原道長(966(康保3)〜1028(万寿4))は、平安時代中期に活躍した公卿です。
天皇の外戚となり、権力を握ったことで有名です。
藤原道長は、文学を愛しており、漢詩や和歌を多く詠んでいました。
その中には、藤原道長の人生そのものを表すような有名な歌があります。
それは、どんな歌なのでしょうか?
この記事では、藤原道長の歌について簡単に解説していきます。
目次
藤原道長の歌「この世をば‥」はどんな歌?
藤原道長の歌の中で一番有名なものと言えば、
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
というものです。
この歌はどのような歌なのでしょうか?
ここでは、藤原道長の歌の意味や表現技法などを簡単に解説していきます。
藤原道長の歌の現代語訳や意味は?
【藤原道長の歌】
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
(現代語訳)
「この世は私のためにある世界だと思う。この満月のように欠けたところは何一つなく、すべて自分の意のままに満足すべきものである」
現代語訳にあるように、この歌は藤原道長が権力を握り、「この世の中は自分のためにある」と公言しているのです。
栄耀栄華を極めた藤原氏のトップだからこそ、詠めた歌だと言えるでしょう。
藤原道長の歌の表現技法は?
この歌の句切れと表現技法について簡単に解説していきます。
- 歌の句切れは二句切れで、倒置の構成が取られている
- 「をば」は、格助詞「を」に係助詞「は」の濁音「ば」が付いた連語で、「この世」を強調している
- 「望月」は今の自分の心情を例えており、「満ち足りている」「完璧だ」と隠喩している
- 「ぞ」は係助詞で、こちらは「わが世」を強調している
- 「思へば」は順接確定条件というもので、意味は「思うので」となる
藤原道長の歌は誰が伝えた?百人一首に収録されている?
この藤原道長の有名な歌ですが、実は百人一首には収録されていません。
それでは、一体何で伝えられたのでしょうか?
藤原道長自身のことを伝える書物には、『大鏡』や『栄華物語』などがあります。しかし、そのどれにも「この世をば…」の歌は取り上げられていません。
この歌を取り上げたのは、右大臣になった藤原実資の日記『小右記』です。
『小右記』は全61巻もあるような膨大なもので、個人の日記というよりも藤原道長の全盛期の政治・社会を知る上で最も重要な資料となっています。
藤原道長が「この世をば‥」の歌を詠んだ背景は?
藤原道長は権力を手にしたことで、「この世をば…」の歌を詠んだと言われています。
それには、どのような経緯があったのでしょうか?
ここでは、藤原道長が歌を詠んだ背景を簡単に解説していきます。
藤原道長が栄華を極めた?
この歌の背景には、藤原道長が栄華を極めたということがあります。
それは、どのような状態だったのでしょうか?
平安時代中期の朝廷内では、陰謀にまみれた藤原氏一族の権力闘争が絶えず続いていましたが、藤原道長は「一家立三后」の実現により権力を勝ち取ったのです。
一家立三后とは、藤原道長が自身の娘を天皇や皇太子の妻として送り込み、一家から三人の皇后を出したことを指しています。
つまり、娘を天皇や皇太子の妻にすることによって、天皇と親戚になったということですね。
具体的に挙げると、
- 第66代天皇:一条天皇→彰子(長女)
- 第67代天皇:三条天皇→妍子(次女)
- 第68代天皇:後一条天皇→威子(四女)
以上のように妻にしました。
これは、当時としては異例のことで、『小右記』にも「一家立三后を立つるは、未曾なり」と述べられています。
それくらいすごいことをして、藤原道長は権力を手にしたわけです。
この歌を詠んだのも、この一家立三后が実現したその日のことでした。
藤原道長の歌には返歌がなかった?
1018年(寛仁2年)、威子が女御として入内した日、つまり藤原道長の一家立三后が実現した日に、藤原道長の自宅で祝宴が開かれました。
藤原道長は、返歌を求めた上でこの歌を詠みました。
しかし、藤原実資は
「御歌優美なり。酬くひ答えるに方なし(優れた歌であるから、とても返歌は作れません)」
として丁重に答え、返歌をしなかったのです。
普通であれば返歌をしないというのは、怒らせても仕方のない行為でしたが、藤原実資はなんと、
この場にいる人全員でこの「名歌」を唱和しようと言うのです。
そして、その提案通り、祝宴に出席していた公卿一同で、この歌を繰り返し何度も詠んだとされています。
藤原道長も、これにはたいそう喜び、歌が返されなかったことについては咎めませんでした。
藤原道長の他の代表作品は?
藤原道長は文学を愛していたので、漢詩や和歌を数多く詠んでいました。
そのため、「この世をば…」の歌以外にも代表作品が多数あります。
ここでは、藤原道長の「この世をば…」以外の代表作品について簡単に解説していきます。
藤原道長は他にも和歌を読んでいた
「この世をば…」の他に藤原道長が詠んだとされる和歌の一部をご紹介していきます。
・白露は 分きても置かじ 女郎花 心からにや 色のそむらむ
(白露が分け隔てて降りるわけではないでしょう。女郎花は心によって(美しい)色に染まるのではないのでしょうか。(だから、あなたもその心次第ではないですか))
・すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ
(「すっぱくておいしい」と評判の梅の枝を、折らずに通り過ぎる人がいないように、「光源氏並みに恋愛に達者な人らしい」と評判の『源氏物語』作者を目の前にして、口説かないわけにはいかないのです。)
・夜もすがら 水鶏よりけに なくなくぞ 真木の戸口に 叩きわびつる
(水鶏はコンコンと鳴きますが、私は一晩中、泣きながら水鶏よりも大きな音で戸を叩いていましたよ。)
・谷の戸を とぢや果てつる 鶯の 待つに音せで 春も過ぎぬる
(鶯は谷の戸をすっかり閉じてしまったのだろうか。声を聞くのを楽しみに待っていたのに、音沙汰もなく春は暮れてしまったよ。)
・唐衣 花のたもとに たちかへよ 我こそ春の 色はたちつれ
(私が贈った夏の美しい衣装に着替えなさいよ。私の方といえば、花やかな春の色の服を着るのは、もうやめてしまったけれど。)
藤原道長の日記も有名?『御堂関白記』とは何?
藤原道長の日記は、『御堂関白記』と呼ばれています。
これは、干支や吉凶、禁忌などが記された太陰暦による暦「具注暦」に、漢文で書き込まれているのが特徴です。
また、当て字や誤字脱字、字を重ねている部分などが多く、藤原道長のおおらかな人柄をうかがい知ることもできます。
全部で36巻あったとされていますが、藤原道長の自筆本は14巻、及び古写本は12巻が現存しており、双方とも陽明文庫が保管しています。
さらに、国宝に指定されており、2013年(平成25年)には、ユネスコの「世界の記憶」に登録されました。
まとめ:藤原道長の歌は栄華を極めたからこそ詠まれた歌だった
藤原道長は、自身の娘を天皇や皇太子の妻として送り込み、一家立三后を実現しました。そして、権力を手中に収めた結果、「この世をば…」の歌を詠んだのでした。
今回の内容をまとめると、
- 藤原道長が「一家立三后」を実現し、権力を手にした結果、「この世をば…」の歌が生まれた
- 藤原道長の歌は、藤原実資の『小右記』に記されていた
- 文学を愛していた藤原道長は、この歌の他にも数々の和歌や漢詩を残していた
「この世をば…」の歌は、藤原道長の日記である『御堂関白記』には記されていませんでした。
普通であれば自分のことですし、書いていてもおかしくありません。もしかしたら、お酒の席での勢いで、つい調子に乗ってしまって出てきた歌だったのかもしれませんね。