福沢諭吉の年表|何をした人?功績から死因まで、その生涯を簡単に解説!

福沢諭吉の年表|何をした人?功績から死因まで、その生涯を簡単に解説!

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福沢諭吉といえば1万円札の人物としてあまりにも有名です。
しかし、福沢諭吉がいったい何をした人なのか、どのような功績があるのか詳しく知っている方は少ないのではないでしょうか?

福沢諭吉は、慶應義塾大学の創設や「学問のすすめ」の出版など数々の功績を残しています。

今回は、私たちにとって身近な存在ともいえる福沢諭吉の生涯を年表形式で、功績や死因についても簡単に解説していきます。

福沢諭吉とはどんな人?

福沢諭吉(ふくざわゆきち)
出身地:大坂堂島新地五丁目 中津藩蔵屋敷
生年月日:1835年(天保5年)12月12日~1901年(明治34年)2月3日(享年66歳)
父:福沢百助
母:於順
妻:錦
子:一太郎(長男)、捨次郎( 次男)、里(阿三)(長女)、房(阿房)( 次女)、俊(阿俊)(三女)、滝(阿滝)( 四女)、光(阿光)( 五女)、三八(三男)大四郎(四男)

福沢諭吉は1万円札にも印刷されており、その顔は日本人なら必ず目にしたことがあると言っても過言ではありません。
また、慶應義塾大学を創設し、「学問のすゝめ」を書いた人物としても有名です。

福沢諭吉の年表を簡単に解説

【福沢諭吉の年表】

  • 1835年(天保5年)(0歳)
    大阪の中津藩蔵屋敷で生まれる
  • 1836年(天保6年)(1歳)
    父・百助が亡くなり、母と5人の子どもたちは大分・中津に帰る
  • 1854年(安政元年)(19歳)
    兄・三之助のすすめで、長崎で蘭学を学ぶ
  • 1855年(安政2年)(20歳)
    大阪で緒方洪庵の適塾で学ぶ
  • 1856年(安政2年)(21歳)
    兄が病死し、諭吉が福沢家を継ぐ
  • 1858年(安政4年)(23歳)
    藩の命令で、江戸で蘭学塾を開く
  • 1860年(安政6年)(25歳)
    幕府の軍艦・咸臨丸でアメリカに渡る
  • 1861年(万延元年)(26歳)
    幕府の使節にしたがって、ヨーロッパ諸国をまわる
  • 1866年(慶応元年)(31歳)
    「西洋事情」初版を出版する
  • 1867年(慶応2年)(32歳)
    幕府の随員としてアメリカへ渡る
  • 1868年(慶応3年)(33歳)
    塾の名前を慶應義塾と名付ける
  • 1872年(明治4年)(37歳)
    「学問のすゝめ」初編を発行する
  • 1892年(明治25年)(57歳)
    北里柴三郎の伝染病研究所の設立に尽力する
  • 1901年(明治34年)(66歳)
    脳出血により死去

福沢諭吉の生涯が簡単にわかるエピソード

福沢諭吉といえば、一万円札の顔であり慶應義塾の創始者、そして「学問のすゝめ」を出版したことで有名ですが、福澤諭吉は他にも数々の功績を残しています。

【福沢諭吉の生涯がわかるエピソード】

  • 貧しいながらも学問に励んだ
  • 慶應義塾大学の前身となる私塾を開いた
  • 「学問のすゝめ」「西洋事情」を出版した
  • 伝染病研究所を設立した

貧しいながらも学問に励んだ

福沢諭吉は下級武士の息子として大阪で生まれました。
武士とはいえ身分の低い家の出身であったため、暮らしはけっして豊かとはいえなかったようです。

父である百助は諭吉が生まれてから間もなく亡くなり、一家の故郷である大分・中津に移り住み、福沢諭吉は生活を助けるために、内職や家の手伝いをしていたそうです。

この時代、武士にも身分の上下があり、生まれた家によってできること、できないことが決まってしまう時代でした。

福沢諭吉はそのような身分制度に不満を持ちながらも勉学に励み、14歳で漢学の塾に入ると、中国語の本を読むことでは先生に勝つほどの学力を身につけていったのです。

慶應義塾大学の前身となる私塾を開いた

1853年(嘉永6年)、ペリー率いる軍艦が神奈川県浦賀に来航し日本の開国を求めました。

翌年の1854年(嘉永7年)には、日米和親条約を結び下田と箱館の開港が外交され、日本国内ではオランダ語の需要が高まりました。

そのころ、福沢諭吉は兄の薦めで長崎でオランダ語を学びはじめました。
長崎でもめきめきと頭角を現した福沢諭吉でしたが、あまりに優秀だったことに嫉妬した世話人の奥平壱岐によって長崎を離れることになりました。

やがて兄が亡くなり、福沢諭吉が福沢家を継ぐことになりますが、蘭学を勉強するため大阪に行き緒方洪庵の塾に入塾します。

オランダ語の需要はますます高まり、中津藩も蘭学塾を作ることを計画。

中津藩の家老になっていた奥平壱岐は、長崎での諭吉の活躍を思い出し、福沢諭吉に塾を開くことを命令しました。

こうして、1858年(安政5年)江戸築地の鉄砲洲にある中津藩の長屋で、福沢諭吉は蘭学塾を開くことになりました。これが慶應義塾の始まりです。

福沢諭吉は「学問のすゝめ」「西洋事情」を出版した

福沢諭吉は1860年(万延元年)、咸臨丸に乗りアメリカに渡り、1861年(文久元年)には幕府の使節団としてヨーロッパにも渡航しました。

福沢諭吉はアメリカやヨーロッパなどの世界を回ったことで見聞を広め、海外の政治や経済の仕組みなどを本にまとめることにしたのです。

そうしてまとめられたのが、1866年(慶應2年)に出版された「西洋事情」です。
福沢諭吉が著した「西洋事情」は、これまで海外の様子を紹介した本がなかったこともあり、ベストセラーになりました。

1868年(明治元年)におこった明治維新の後、世の中は急速に西洋文明を取り入れて改革が行われました。
これを文明開化と呼びます。

福沢諭吉は、
「自分で働いて自分で生活を立てることが大切であること」
そのためには「西洋の学問を学ぶことが大事」だと説いています。

その内容をまとめたものが「学問のすゝめ」です。
「学問のすゝめ」は、1872年(明治5年)に初編が発表されて以降、5年間のうちに17編まで作成されました。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」
で始まる初編は、「西洋事情」を超える大ベストセラーになり、全17編の著作は現代でも読み続けられています。

伝染病研究所を設立した

福沢諭吉は「学問のすゝめ」や「西洋事情」などの書籍を出版した後も、精力的に日本の思想や学問を発展させることに注力していました。

その中の活動の一つに、細菌学者の北里柴三郎を支援しています。

当時、ドイツ留学から帰国した北里柴三郎は非常に優秀でしたが、受け入れる機関がなく、その能力を発揮する場所がありませんでした。

そこで、福沢諭吉が私財を投じて北里柴三郎のために伝染病研究所を設立したのです。

福沢諭吉がいかに、学問の発展に尽力していたことがわかりますね。

ちなみに、北里柴三郎は2024年度(令和6年度)から発行される千円紙幣の肖像として使用されることが決まっています。
いわば師弟関係とも呼べる福沢諭吉と北里柴三郎が、同時期にお札になることは叶いませんが、福沢諭吉が資材を投じて支援した北里柴三郎がお札になるのは、縁を感じますね。

福沢諭吉の性格がわかるエピソード

大ベストセラーの出版、名門・慶應義塾の創設など数々の功績を残した福沢諭吉。

その功績の裏には自身の努力と大胆さ、そして思慮深い性格が影響していたようです。

ここでは、福沢諭吉の性格がわかるエピソードをご紹介します。

不平不満をいう人間が許せなかった?

福沢諭吉は幼いうちに父を亡くし、貧しい生活を送っていました。
そんな中でも勉学に励み、さらに家の手伝いや内職を行うような生活を送っていたそうです。

このような生活を送っていれば、文句の一つも言いたくなりますが、福沢諭吉は不満を漏らさなかったと言われています。

このような経験があったからか、塾の生徒には
「馬鹿は不平多し」
「空き樽はよく鳴る 」
ということを伝えていたそうです。

福沢諭吉は、自分ににも他人にも厳しかったのでしょう。

福沢諭吉は大胆ながらも用心深い性格だった?

福沢諭吉はアメリカとヨーロッパに渡航しています。

しかし当時、海外に行くことはかなり勇気のいることで、尻込みする人間もいたと言います。

その中で、福沢諭吉は自ら志願して海外に渡り、見聞を広げることに成功しました。

国(幕府)が主導するプロジェクトに自ら志願して参加すると考えると、現代の価値観から見ても福沢諭吉はそうとう大胆であると言えると思います。

その一方で、福沢諭吉は用心深い側面も持っています。

福沢諭吉は著書の中で「アメリカがよい国だ」と明言することを避けていました。
これはアメリカのみを褒めると、その国の政治を支持していると捉えられると考えたからです。
自分の発言がどこまで影響を与えるかをよく考えて行動していたのでしょう。

福沢諭吉の死因は何?

1898年(明治31年)、福沢諭吉は63歳の時に脳出血で倒れましたが、回復を遂げています。

さらに翌年の1899年(明治32年)に再び倒れ意識不明になりましたが、約1時間後に意識を回復しました。

この年に福沢諭吉の弟子たちが編纂した『修身要領』が完成しています。

1901年(明治34年)には、三度目の脳出血で倒れました。
この時ばかりは病に勝てず、とうとう66歳でその生涯を終えたのです。

まとめ:福沢諭吉はその生涯で数々の功績を残した、偉大な人物だった

1万円札の顔として親しまれている福沢諭吉ですが、紙幣に選ばれていることが納得の功績の数々を残していました。

今回の内容をまとめると

  • 福沢諭吉は、下級武士の家の出身で貧しいながら勉学に励んだ
  • 福沢諭吉は、慶應義塾大学の前身となる私塾を創設した
  • 福沢諭吉は、「学問のすゝめ」「西洋事情」などのベストセラーを書いた
  • 福沢諭吉は、細菌学者の北里柴三郎を支援し、伝染病研究所を設立した
  • 福沢諭吉は、不平不満を言う人間が嫌いだった
  • 福沢諭吉の性格は大胆であり、慎重な面も兼ね備えていた

福沢諭吉の功績を振り返ってみると、紙幣に採用されるのは納得の内容ですね。
また、諭吉が支援した北里柴三郎が新紙幣の肖像に選ばれているのも不思議な縁を感じますね。

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