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平安時代の女性はどう過ごしていた?服装は?仕事は?恋愛事情は?なぜ顔を隠していた?

平安時代(794(延暦13)〜12世紀末)は、桓武天皇が平安京に都を移してから、鎌倉幕府が成立するまでの約390年間のことです。

古代の末期とも、中世の萌芽期とも言われており、古代から中世の過渡期になる大事な時代に当たります。

そんな平安時代の女性はどのような人だったのでしょうか?

この記事では、平安時代の女性の服装や仕事、恋愛事情などを簡単に解説していきます。

平安時代の女性の服装は?見た目は?

平安時代の女性の服装というと、十二単を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?

それでは、実際はどのような服装をしていたのでしょうか?

ここでは、平安時代の女性の見た目について簡単に解説していきます。

平安時代の女性の服装は貴族と庶民で違った?

平安時代の女性の服装は、貴族と庶民、つまり身分によって違うものを着ていました。それぞれを簡単に解説していきます。

・平安時代の貴族の服装

女性貴族が朝廷で着用する正装は「女房装束」と言います。そして、これは時代が進むに連れ、衣を12枚着ているように見えるため「十二単」と一般的に呼ばれるようになりました。

この当時の女性貴族が着用していた着物は、布団ほどの大きさがあり、たくさん着すぎて動けなくなってしまった人もいたようです。

着物の総重量は約10kgとも言われており、ほとんどの女性貴族がこれを着たら、一日中あまり動かずに過ごしていました。

また、女性貴族にも普段着のようなものがあります。それが、「小袿」と呼ばれるものでした。

女性貴族は、着ている着物の重ねの色目を楽しんでおり、色の組み合わせに名前をつけるなどしていたようです。

重ねの色目がきれいか、季節に合っているのかを重視し、御簾越しに逢う男性へセンスの良さをアピールしていました。

・平安時代の庶民の服装

平安時代の女性庶民の服装は、舟型袖に細帯をまとうか、あるいはこれに「褶だつもの(しびらだつもの)」と言われている奈良時代の裙(も)の名残のようなものを腰に巻いていました。

また、腰布をまとい、その上に袖なしの衣をつけることもあったようです。

\ 平安時代の服装に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております/

平安時代の女性の理想的な見た目は?

平安時代の女性が何よりも大切にしていたものが、髪の毛です。

長くサラサラな黒髪は、平安美人の必須条件であったと言われているくらいです。

女性は、10歳辺りから髪を伸ばし始めます

。長く、黒々として、光沢があり、分量も適切なのが良いとされており、背丈以上に伸ばした女性もいたと言われています。

また、『枕草子』によると、髪の毛の量が少なかった女性の中には、「かもじ」という地毛の足りない部分を補うための添え髪を使用していた人もいたようです。

さらに、この髪を引き立たせる目的で、化粧もしていました。

【平安時代の化粧の特徴】

  • 引眉:眉毛を剃るか抜くかして無くしてしまい、墨で眉をぼかして描いた
  • 紅:頬紅を軽く乗せるほか、口紅は自分の唇よりかなり小さく描かれた
  • 白粉:暗闇でも顔が映えるように、白粉を顔全体に厚く塗っていた
  • お歯黒:白粉で顔を白くしていた関係で、歯が黄色く見えてしまったため黒く染めていた。これは、成人への通過儀礼でもあった

宮中の女性たちは、特に儀式の前の化粧に神経を注いでいたようで、日によって化粧への熱意に差があったようです。

平安時代の女性の仕事は?

平安時代の女性は、どのような仕事をしていたのでしょうか?

現代の女性の仕事とは、やはり違うのでしょうか?

ここでは、平安時代の女性の仕事について簡単に解説していきます。

平安時代の女性の身分はどう分かれていた?

平安時代の女性の身分は、親の身分によって決められていました。そのため、父親が没落したら、その娘の身分も下がってしまうといったように、非常に状況によって移ろいやすいものであったということです。具体的な身分は以下の通りです。

【帝の后】

  • 中宮:皇后(正妻)と同資格を持つ后。女御からの昇格
  • 女御:中宮の次位。皇族や大臣の娘がなる
  • 更衣:女御の次位。大納言以下の娘がなる

【女官・女房】

  • 内侍:内侍司(後宮の役所)の長官。摂関家の娘などがなる
  • 典侍:内侍司の次官
  • 掌侍:内侍司の三等官
  • その他:後宮に仕えるもの、貴人、私的に仕えるものなど…

【斎王】

  • 斎宮:伊勢神宮に奉仕する皇女。
    天皇の即位ごとに未婚の内親王か女王から選ばれる
  • 斎院:賀茂神社に奉仕する未婚の内親王か女王

平安時代の女性の宮中での仕事は?

後宮で働く女性たちの仕事は、律令の下でルールが決められており、後宮内には「後宮十二司」という12の役所が存在していました。

【後宮十二司】

  • 内侍司:天皇の身近に仕え、天皇の意志の伝達など、秘書のような役割を担っていた。後宮十二司の中でも最も重要な仕事
  • 蔵司:神璽、関契、御服などを担当
  • 兵司:兵器の管理を担当
  • 闈司:鑰(かぎ)の管理、およびその出納を担当
  • 殿司:輿繖(よさん)、膏木、灯油、火燭、薪炭などを担当
  • 掃司:施設の管理、清掃などを担当
  • 縫司:宮中で用いられる衣装の裁縫を担当する役割で、組紐の制作もしていた
  • 膳司:御膳の係を担う役割で、膳や試食などを担当
  • 水司:水や粥などを担当
  • 酒司:醸造のことを担当
  • 書司:書物や文房具、楽器の管理を担当
  • 薬司:天皇が服用する薬の調合や毒見などを担当

このように、とても細かく仕事の役割が分かれていました。

しかし、後宮に仕えていた女性は異性と顔を合わせることが非常に多かったため、時には「はしたない」と思われることもあったようです。

平安時代の女性の恋愛事情は?

平安時代の女性は、あまり人前には出なかったと言います。

それでは、どのようにして結婚などをしていたのでしょうか?

ここでは、平安時代の女性の恋愛事情を簡単に解説していきます。

平安時代の女性が顔を隠す理由は?

平安時代の女性は、基本的に人目を避け、姿を隠して過ごすのが嗜みと言われていました。

女性が顔を見せることはほとんどなく、几帳という衝立のようなものに隠れていたり、扇で顔を覆ったりしていたのです。

『源氏物語』に登場する「大君」という女性は、臨終の時ですら袖で顔を覆って隠していたという話があるくらいでした。

それでは、なぜそこまでして平安時代の女性は顔を隠していたのでしょうか?

その理由は、当時の女性のあり方にあります。

当時の女性は、お屋敷の奥深くにいるものとされていました。そのため、やたらと顔を見せるのは、大変はしたないことだと言われていたのです。

顔を見せるのは、はしたないことなので、異性と近くで話すときは御簾越しでした。

中には、「どうしても女性の顔を見たい」と考え、女性の屋敷に忍び込み、御簾越しに女性の姿を覗き見ようとする男性もいたようです。

このことを「垣間見」と言います。

この垣間見から始まる出会いもあったようです。

平安時代の女性の恋愛のカギは「手紙」だった?

平安時代の女性は顔を異性に見せることはまずありませんでした。

それでは、どのようにして男性は結婚相手を決めていたのでしょうか?

男性が基準にしていた主なポイントは、以下の通りです。

・家柄や身分

最も重要視されていたのが、女性の家柄や親の身分です。

当時は、女性の家の方で、結婚相手の男性の身支度など全て整えてあげるのが当たり前でした。また、女性の親が、より身分の高い人物であれば、高い身分の人たちとのコネクションを作ることができます。

このように、男性が出世するためには、結婚相手の女性の家柄や身分は非常に重要な要素だったのです。

・美人であること

ほとんど見ることができない女性の顔でしたが、中には御簾越しに垣間見するような男性がいました。

しかし、美人であることは、家柄や身分よりも重要ではありませんでした。

・性格がよいこと

特に礼儀作法がしっかりと身についているということは重要視されていました。

・高い教養があること

書道・和歌・楽器(琴や笛)など学問や芸術に秀でた女性が魅力的だとされていました。

以上のような、選定ポイントがあったわけですが、これらを測る道具としてよく用いられたのが「手紙」です。

手紙では、お互いに和歌を送り合うなどしていたのですが、そこで、和歌のセンスや字の上手さなどを見ていました。家柄や身分が高い人であれば、しっかりとした教育を受けられるため、高い教養を持っているに違いないと考えられていたわけですね。

和歌や字が下手くそで情緒がない人であれば、いくら見目麗しい人物であっても幻滅されてしまうのです。

このように、女性が男性に結婚相手に選ばれるためには、自分磨きが欠かせなかったというわけですね。

平安時代に活躍した女性は?

・清少納言

平安時代中期の女流作家、歌人。中宮・定子に仕えた。随筆『枕草子』は平安文学の代表作の1つであり、日本三大随筆の1つ。

・紫式部

平安時代中期の女流作家、歌人。中宮・彰子に仕えた。『源氏物語』の作者。

・藤原道綱母

平安時代中期の女流歌人。最初の女性日記文学『蜻蛉日記』を編纂。

・赤染衛門

平安時代中期の女流歌人。中古三十六歌仙の1人で、女房三十六歌仙の1人でもある。『赤染衛門集』を編纂。

・和泉式部

平安時代中期の女流歌人。赤染衛門同様、中古三十六歌仙の1人で、女房三十六歌仙の1人でもある。『和泉式部日記』を編纂。

・菅原孝標女

『更級日記』を編纂。本名は伝わっていない。

まとめ:平安時代の女性は教養やセンス、血筋の良さで価値が決まっていた

平安時代の女性は、長くサラサラの黒髪が美人の必須条件でした。

しかし、ほとんど異性の前に出ることは無く、御簾越しに会話が常識でした。

さらに、教養やセンス、血筋の良さで、女性の価値が決まっていました。

今回の内容をまとめると、

  • 平安時代の女性の美人の必須条件は長いサラサラの黒髪
  • 平安時代の女性の服装は、身分によって違った
  • 平安時代の女性の仕事や結婚相手は、親の身分によって変わった
  • 平安時代の女性は、基本的に異性と顔を合わせることはなかった
  • 平安時代の女性は、高い教養やセンスが求められた

平安時代の女性が結婚相手として男性に選ばれるためには、自身の教養を磨き上げることが必須でした。自分磨きが大事という点では、平安時代の女性も現代の女性も同じだと言えるのかもしれませんね。

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