田沼意次の子孫は現在まで続いてる?家系図で解説!田沼意次の遺訓7箇条とは?
田沼意次(1719(享保4)〜1788(天明8))は、江戸時代中期に活躍した江戸幕府の老中です。第9代将軍・徳川家重と第10代将軍・徳川家治の治世下で側用人と老中を兼任し、幕政を主導しました。
そんな田沼意次の子孫は現在まで続いているのでしょうか?
この記事では、家系図を見ながら、田沼意次の子孫について簡単に解説していきます。
目次
田沼意次の家系図をわかりやすく解説!
田沼意次の家族構成は?
【田沼意次のプロフィール】
田沼意次(たぬまおきつぐ)1719年(享保4年)〜1788年(天明8年)享年:70歳
出身地:江戸
父:田沼意行/母:辰
妻:伊丹直賢の娘、黒沢定紀の娘(継室)
子:意知、勇次郎、勝助、意正、松三郎、土方雄貞、九鬼隆棋、千賀、宝池院
田沼意次は、1719年(享保4年)に江戸にて田沼意行と辰の長男として誕生します。
その後、伊丹直賢の娘と結婚しますが、2人の間に子は授かることなく、田沼意次が20代のうちに死別してしまいます。
そして、黒沢定紀の娘と再婚し、跡継ぎとなる田沼意知を授かることになりました。
また、田沼意次には側室がいたとされていますが、資料には「某氏」と記載されており、詳細な人物名は判明していません。
田沼意次の嫡男は暗殺された
田沼意次の嫡男である田沼意知は、暗殺されてしまっています。
田沼意知は、田沼意次の政治の全盛期に、若年寄に任命され、父子揃って幕閣の中枢を担い、江戸城中で権勢を振るっていました。
そんなある日のこと、田沼意知が江戸城から他の若年寄らと退出しようとしたところ、新番士の佐野善左衛門政言に突然斬りつけられるという事件が起こります。
この際に受けた傷が原因で、田沼意知は36歳という若さで亡くなってしまうのです。
田沼意知は、惣領にも関わらず若年寄に就任するといったように、異例の特別待遇をされており、「田沼意次独裁の象徴」として捉えられていました。
そのため、反田沼派から狙われてしまったのでしょう。
田沼意次は、このことで大変ショックを受けたと言われています。
田沼意次の子孫は現在まで続いている?
田沼意次の子供は正室・側室との間に判明しているだけでも9人いました。
それでは、田沼意次の子孫は現在まで続いているのでしょうか?
ここでは、田沼意次の子孫について簡単に解説していきます。
田沼意次の血は途絶えずに続いていった?
田沼意次の跡取りとなる予定だった嫡男の田沼意知は暗殺されてしまいました。
そのため、田沼意次の跡は田沼意知の子である田沼意明が継ぐこととなります。
しかし、意明、意壱、意信、意定と4代続いて20代前半という若さで亡くなってしまうのです。
そこで、水野忠友の養子となっていた田沼意正がその跡を継ぐことになりました。
養子となっていた田沼意正でしたが、田沼意次の失脚を理由に水野家とは離縁されてしまっていたのでした。
その後、8代田沼意尊の子がいなかったため、養子をもらい相続しましたが、後に田沼意尊に娘・田沼智恵が生まれたため、家督は智恵が継ぐこととなりました。
そして、その血は現在まで続いており、現代の当主は13代・田沼道雄さんという方になっています。
田沼意次生誕300年の記念イベントなどに出席されていらっしゃったようです。
田沼意次の子孫は田沼家の名誉回復に尽力した?
田沼意次といえば、賄賂政治のイメージがあり、黒い人物という印象を持った人が多いかもしれません。
田沼家の子孫たちも、田沼意次の失脚から領地をがっつり減らされるなどひどい仕打ちを受けていました。
そこで、子孫たちのやったことは、「田沼家の名誉回復」でした。
実際、田沼意次の子孫たちはみな、並々ならぬ熱心さで職務に取り組み、領地も少しずつ回復していきました。
5代・田沼意正の頃には、若年寄などの幕府の要職に登用され、最終的にその功績が認められ、相楽への帰封が適い、相良藩が再立藩されることもありました。
このように田沼家を再興したことから、田沼意正は子孫から「中興の主」として厚く祀られたと言われています。
また、8代・田沼意尊の頃には、名誉回復に尽力する余り、やりすぎてしまった事件があります。
1864年、田沼意尊は天狗党の乱を鎮圧する追討軍の指揮者に任命されました。
そこで、田沼意尊は譜代の臣下として忠誠心を過剰なほど発揮したのです。
乱を起こした天狗党は尊王攘夷を訴える過激集団ではあったのですが、元は徳川御三家の一つである水戸藩の藩士だった者たちで構成されていました。
そのため、最初に彼らを捕らえた加賀藩では天狗党の面々を丁重にもてなします。
風呂に入れ、酒を出すなどもしていました。
しかし、田沼意尊はそんなことは知らないと言わんばかりに容赦ない扱いをします。
天狗党の人々を加賀藩から引き取ると、なんと鰊(ニシン)蔵に収容したのです。
中は鰊の猛烈な悪臭が蔓延っているのですが、その中に約50人ずつまとめて閉じ込めます。
一人一人に足かせがつけられ、用を足すのは、蔵の真ん中に置かれた桶のみで、真冬にも関わらず、布団を与えることもしません。
さらに、最後は一気に352名を斬首するという徹底ぶりです。
このことが、尊王攘夷派の怒りに火をつけてしまうのですが、田沼意次の子孫である田沼意尊としては田沼家の名誉回復に尽力していただけなのです。
田沼意次が子孫に残した遺訓7箇条とは?
先程もお伝えしたように、田沼意次の子孫たちは田沼家の名誉回復のために尽力していました。
そんな子孫たちの精神的な支えとなっていたのが、田沼意次が残した「遺訓7箇条」です。
子孫たちは、これを毎年正月に一族揃って読んでいたようです。
その内容は以下のとおりです。
【田沼意次が残した遺訓7箇条】
第一条
主君に対する忠節の事、仮にも忘却なきよう。なかんずく当家においては9代家重公、10代家治公には、比類なき御厚恩を受けているのだから、夢々忘却なきように。
第二条
親に対する孝行、親族に対する配慮をおろそかにしないように。
第三条
一類中は申すに及ばず、同席の衆、さらに付き合いのある人たちに対して、表裏・疎意がないように心掛けるべきこと。どんなに身分が低い人でも、人情をかける所は差別なく接するように。
第四条
家中の者には憐憫を加え、賞罰は依怙贔屓がないように気をつけること。使いやすい人、使いにくい人にも、及ぶかぎり気配りをして、油断なく召しつかうべきこと。
第五条
武芸は懈怠なく心がけ、家中の者にも油断なく申し付けるように。若者には特に精出すよう心がけさせ、また見苦しからざる芸は、折々見学させ、時には自分自身も見物を心がけるように。しかし武芸に精を出した上は、その余力で遊芸をする事は勝手次第で、それを止め立てする必要は毛頭ない。
第六条
権門の衆中には隔意失礼のないよう特に心がけるように。すべて公儀に関わることは、どんな些細なことでも大切に心を用い、諸事入念に行うことが肝要である。
第七条
諸家の勝手向(財政状況)を見るに不如意なのが一般のようで、良いのは稀である。不勝手が募ると、公儀の御用さえ心ならずも勤めにくくなる。もちろん軍役も十分勤めにくくなるので、領地を拝領していても意味がなくなる。家の経済をたてることは、大切至極のことであるので、常時油断なく心がけることが肝要である。但しこの一条は難しいことなので、特に「別紙」を添えることとする。
この遺訓を読むと、非常によく田沼意次の人柄がわかりますね。これを読んだ子孫たちが名誉回復のために尽力したというのも頷けます。
まとめ:田沼意次の子孫は現在まで続いており、子孫は田沼家の名誉回復のために尽力していた
田沼意次の子は全部で9人いました。その子孫は代々続いていき、その血筋は現在まで残っています。そして、子孫たちは田沼家の名誉回復のために尽力し続けてきたのでした。
今回の内容をまとめると、
- 田沼意次の子は判明しているだけでも9人
- 田沼意次の嫡男は暗殺されるなどあったが、その血は現在まで続いている
- 田沼意次は子孫に遺訓7箇条を残した
- 子孫たちは田沼家の名誉回復のために尽力した
現在の田沼家当主である田沼道雄さんは、学生時代、日本史の授業が江戸時代中期に近づくと、口実をつけて学校を休んでいたそうです。せっかく子孫たちが名誉回復のために尽力していたのに、現代では田沼意次のイメージは悪いままだったのです。近年ではその人物像は再評価されてきています。このまま田沼意次のイメージが良い方向に向かっていけば、子孫たちの思いも報われるかもしれませんね。