松平定信のしたことは何?寛政の改革とは?年表と併せて功績などを簡単に解説!
松平定信(1759(宝暦8)〜1829(文政12))は、江戸時代中期に活躍した大名です。第11代将軍・徳川家斉のもとで老中となり幕政再建を目指しました。また、第8代将軍・徳川吉宗の孫にあたる人物でもあり、一時は次期将軍候補とも言われていました。
そんな松平定信はどのようなことをしたのでしょうか?
この記事では、松平定信の年表を見ながら、その功績などを簡単に解説していきます。
目次
松平定信のしたことは?
松平定信は、老中として改革を行うなど様々なことを行いました。
ここでは、松平定信の年表を見ながら、したことを簡単に解説していきます。
松平定信の年表を簡単に解説!
松平定信(まつだいらさだのぶ)1759年(宝暦8年)〜1829年(文政12年)享年:72歳
父:田安宗武/母:香詮院
正室:松平定邦の娘
継室:隼姫
側室:貞順院
子:定永、真田幸貫、福姫、清昌院、保寿院、寿姫、蓁、松平輝健正室
【松平定信の年表】
- 1759年(宝暦8年):0歳
徳川宗武の七男として誕生する
- 1774年(安永4年):15歳
白河藩主・松平定邦の養子となる
- 1783年(天明3年):25歳
白河藩主となり、飢饉から藩民を救う
- 1787年(天明7年):28歳
老中として寛政の改革を行う
- 1793年(寛政5年):35歳
失脚し、白河藩の藩政に全力を注ぐ
- 1801年(寛政13年):43歳
日本最古の公園・南湖を竣工する
- 1812年(文化9年):54歳
隠居する
- 1829年(文政12年):75歳
死去
松平定信の功績は?
松平定信は、白河藩の藩主や老中など重要な役職に就いており、様々なことを行いました。
それでは、具体的にはどのような功績を残したのでしょうか?
ここでは、松平定信の功績について簡単に解説していきます。
奥州白河藩主として人々の生活を救った
松平定信は、松平定邦の養子に出た関係で、そのまま白河藩主となります。
白河藩主となった頃、日本では東北を中心に天明の大飢饉が発生していました。
天明の大飢饉は、江戸最大の飢饉と言われており、東北地方では特に惨状を極めていたのです。
弘前藩では一冬で8万人、盛岡藩では7万5千人もの犠牲者が出ています。
松平定信にとって、この飢饉対策を行うことは必須なことでした。
そこで、まず米に余裕のあった分領地・越後から輸送を行います。更に、家臣を江戸や大阪、会津に派遣して、米や粟の買付や寄付を募りました。そして、それらの農作物を藩民に配りました。
また、その他にも藩の財政を見直したり、土地の開墾を奨励したりしていきます。
藩を挙げての政策の結果、東北諸藩で餓死者を出さなかったのは、上杉治憲の米沢藩と松平定信の白河藩だけでした。
この手腕が認められ、松平定信は幕府の老中に抜擢されることとなるのです。
寛政の改革を行い、幕政を立て直そうとした
松平定信は、白河藩主としての手腕が認められ、老中に就任します。
就任する前は、田沼時代と呼ばれ、老中・田沼意次による商業中心の政治が行われていました。
しかし、度重なる天災のせいで農村部から人が消え、江戸に多くの人々が流入してしまいました。
幕府の財政の基盤は、あくまで農村から挙げられる年貢収入です。
しかし、農村が荒廃していき、幕府の財政は傾いていく一方でした。
さらに、江戸に流入してきた農民たちの中には、生活基盤が築けずに、いわゆるホームレスのようになってしまっている人たちも出てきました。
また、田沼時代は役人間での賄賂も横行しており、とにかく国中が荒れてしまっている状態だったのです。
そこで田沼意次が失脚し、代わりに老中となったのが松平定信でした。
松平定信は、田沼時代の悪習を一掃し、質素倹約を心がけ、クリーンで統制が取れた幕藩体制を、寛政の改革を通して目指したのです。
国民福祉の考えや刑務所の源流を作った
松平定信は寛政の改革の中で、税を民に還元する「国民福祉」の思想を取り入れ始めます。
それまでは、税を取る対価として行政サービスを施すという現代と同じような仕組みは全くありませんでした。
松平定信は、天明の大飢饉などの致命的な打撃を受け、国が国民を救うための貯蓄などを始めたのです。
このような取り組みは現代に続く税制に影響を与えていると言っても過言ではないでしょう。
また、松平定信が作った「人足寄場」は、戸籍から外された無宿を社会復帰させるための施設で、これが日本の刑務所の源流となっています。
無宿とは、戸籍を外された人のことを指すのですが、その理由は人それぞれで、罪を犯した人、親に勘当された人、故郷を離れた人などがいました。
無宿の人たちは、まともな職に就くことが難しいという問題を抱えており、そのせいで盗みなどをしてしまうといったケースが多々あったのです。
これを解決したのが、人足寄場でした。人足寄場では、無宿の手に職をつけさせ、人としての道徳を学ばせ、社会復帰できるように援助しました。
つまり、松平定信は、「更生」の機会を国の制度として組み込んだわけですね。
このように、松平定信は、現代に繋がる重要な取り組みをしていたのです。
教育や試験制度を拡張し、優秀な人材を育成した
松平定信は、寛政の改革の中で幕府直轄の教育機関である「昌平坂学問所」を立ち上げています。
優秀な人材育成のために、教育分野の開拓を行おうと考えたわけですね。
ここには、地方から学びに来る留学生のために寮まで完備されていました。
登用試験には、朱子学が採用されており、ここで優秀な成績を修めた者は幕臣になることができます。
そのため、地方の留学生や庶民、御家人といった幅広い層に出世のチャンスがあったわけです。
身分に縛られない優秀な人材を発見する場として活用されたわけですね。
実際、昌平坂学問所は優秀な人材を多数生み出しました。
【昌平坂学問所の卒業生】
- 中村正直
- 榎本武揚
- 三島中州
- 重野安繹
- 筒井政憲
- 松本奎堂
- 大槻磐渓
- 江原素六
- 島田篁村
- 清河八郎
日本最古の公園を開放した
松平定信は、白河藩にある南湖という湖一帯を公園として開放します。この公園は、日本最古の公園だと言われています。
何故かというと、公園制度が整えられたのは、1873年の太政官令であり、南湖園開放の実に70年以上も後のことになるからです。
南湖園は、身分を超えて集える「士民共楽」という思想のもとに、皆が楽しめるレクリエーション地として開放されました。
そのため、様々な身分の人たちが、松や楓、桜などを見ながら風流な空間を楽しんでいたようです。
寛政の改革で、色々な規制などをして締め付けの厳しいイメージを持たれがちな松平定信ですが、このような民のための場所を作るといったこともしていたのです。
松平定信に関するエピソードとは?
真面目で堅物なイメージを持たれがちな松平定信ですが、どのようなエピソードがあるのでしょうか?
ここでは、松平定信に関するエピソードを簡単に解説していきます。
松平定信は実は田沼意次に賄賂を贈っていた?
松平定信は、寛政の改革を行う上で、田沼意次の賄賂政治などを否定し、クリーンな政治を目指していました。
しかし、実は田沼意次が老中時代、松平定信は幕閣に登り詰めるために、田沼意次や一橋家に賄賂を贈っていたのです。
しかし、それは幕閣に登り詰めるためには必須なことであったからやっただけで、老中就任後、松平定信は一切の賄賂を受け取らなかったと言われています。
多くの老中が応接費などの経費を賄賂で補填していたのですが、松平定信は一切賄賂を受け取らなかったことにより、臨時の出費が発生したこともあったようです。
賄賂を送ることはしたものの、受け取ることは一切しない、ここから松平定信の信念のようなものが垣間見えますね。
真面目すぎて将軍と対立して失脚した?
ある時、将軍・徳川家斉が実父に大御所の称号を贈って、徳川治斉を江戸城に迎え入れようとします。
しかし、曲がったことが嫌いな松平定信は、「大御所は隠居した将軍にのみ許される」としてこれを却下してしまうのです。
これにより、松平定信は将軍と対立していくこととなってしまいます。
そして、このことや尊号一件などの出来事がきっかけとなり、松平定信は1793年に老中の座を解任させられてしまうのでした。
真面目すぎるが故に、周囲の人と軋轢を生み出してしまった、そんな松平定信の失敗エピソードですね。
まとめ:松平定信は現代にも繋がる重要な取り組みをいくつも試みていた
松平定信は、白河藩主や老中として、様々な改革をし、数々の功績を残しました。その中には、現代にも繋がる重要な取り組みもいくつか試みて取り入れられていました。
今回の内容をまとめると、
・松平定信は白河藩主として飢饉対策をし、餓死者を出さなかった
- 松平定信は、白河藩主としての実績が認められ老中に就任した
- 松平定信は、寛政の改革で財政再建を目指した
- 松平定信は、国民福祉の思想を政治に取り入れた
- 松平定信は、日本最古の公園を作った
生活に困った人々にスポットを当てて、国が救済をしようと松平定信は改革を行いました。真面目すぎるがゆえに、行き過ぎた規制はしてしまったものの、全ての民の幸せを考えてくれていた心優しい人物だったのではないかと思わずにはいられません。