空海(弘法大師)は何をした人?真言宗を開いたその功績を年表と共に簡単に解説!
空海(774(宝亀5)〜835(承和2))は、平安時代初期に活躍した日本の仏教僧です。
真言宗の開祖であり、弘法大師として知られています。
そんな空海は、実際何をした人なのでしょうか?
この記事では、年表を通して空海の功績などを簡単に解説していきます。
目次
空海と弘法大師は違う?真言宗を開いたのは?
空海は、真言宗を開宗した人物です。
遣唐使の留学僧として唐に渡り、密教を学んだ後、帰国して真言宗という宗派を開いたのでした。
その生涯をかけて、日本国内での布教活動に力を注ぎ、たくさんの功績を残しました。
その功績を称えて、921年(延喜21年)に醍醐天皇より「弘法大師」の諡号が贈られました。
当初、空海の朝廷での活躍に反感を持つ者がいることなどから、なかなか諡号が認められませんでした。
しかし、空海のひ孫弟子にあたる勧賢らの熱心な申請によって921年にやっと認められたのです。
そのため、空海と弘法大師は同一人物ということになります。
空海の生涯を年表で簡単に解説!
【空海の年表】
- 774年(宝亀5年):0歳
讃岐国で地方豪族の子として誕生する。幼名は真魚(まお)
- 792年(延暦11年):18歳
京の大学寮に入る
- 793年(延暦12年):19歳
大学寮の勉学に飽き足らず、山に入り仏門修行へと身を投じる
- 803年(延暦23年):29歳
遣唐使の長期留学僧として唐へ渡る
- 806年(大同元年):32歳
唐にて密教を学び、日本に帰国する
- 810年(大同5年):36歳
薬子の変が起こったため、嵯峨天皇につき鎮護国家のための大祈祷を行った
東大寺第十代別当に就任する
- 816年(弘仁7年):42歳
嵯峨天皇より高野山を賜り、高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創する
- 821年(弘仁12年):47歳
満濃池の改修を指揮する
- 823年(弘仁14年):49歳
朝廷より東寺を賜り、真言密教の道場とする
- 824年(天長元年):50歳
朝廷からの命で雨乞いの儀式を行う
- 828年(天長5年):54歳
綜芸種智院を開設する
- 835年(承和2年):61歳
高野山において御入定される
- 921年(延喜21年)
醍醐天皇より「弘法大師」の諡号が贈られる
空海の開宗した真言宗の特徴
空海の開宗した真言宗とはどのような特徴があるのか?簡単に解説していきます。
真言宗の本尊は大日如来です。
そして、即身成仏が大切な教えであるとされています。
即身成仏とは、「今この世に体があるうちに仏になれる」という教えのことです。
そして、仏になるために必要な修行が「三密」と呼ばれる、本来人間が持っている仏心を呼び起こすものです。
自分自身の
- 身=体の行動
- 口=言葉
- 意=心
以上の3つを整えることこそが、三密の修行となります。
つまり、自分自身を深く見つめ直し、仏のような生き方をすることが重要だとしているのです。
これが、真言宗の特徴です。
空海の功績を簡単に解説
空海の功績で1番のものは、もちろん真言宗を開宗したことですが、その他にも様々な功績を残しています。
主な功績は以下の通りです。
【空海の功績】
- 満濃池の堤防を作った
- 綜藝種智院を開設した
- 多くの著書や字書を残した
それぞれ、簡単に解説していきます。
・満濃池の堤防を作った
空海は、香川県にある満濃池の修築工事を、嵯峨天皇より依頼を受け行いました。
そこで空海は、水圧に対してアーチ型の堤防を築くことを提案するという、技術指導を行ったのです。
この約1200年前に作られた堤防は、なんと現在も使用されています。
・綜藝種智院を開設した
空海は、京都に「綜藝種智院」という、日本初の庶民教育機関を開設しました。
日本初の私立学校でもあります。
当時、大学や国立大学への入学は、厳格な身分制度があり、一般庶民が教育を受けるのは難しかったのです。
空海が綜藝種智院を開設したことにより、教育の機会均等が実現しました。
しかし、空海の死後は、後継者が見つからずに廃絶してしまっています。
・多くの著書や字書を残した
空海は、多彩な文化活動にも精を出していました。
『秘密曼荼羅十住心論』や『秘蔵宝鑰』など、数々の著書を残しています。
また、『篆隷万象名義』という日本に現存する最古の漢字字書を作りました。
さらに、中国語やサンスクリット語にも造詣が深いことから、書道や美術の発展にも寄与しています。
特に書道では、嵯峨天皇・橘逸勢に並ぶ三筆の1人に数えられているのです。
空海に関するQ&A
空海に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 空海と最澄の関係性は?
- 空海はことわざになっている?
- 空海は今も生きて修行を続けている?
空海と最澄の関係性は?
空海と最澄は、同じ時期に遣唐使として唐へと渡っていますが、そこでは違う船に乗っていたため出会っておらず、帰国後に出会うことになります。
最初にコンタクトを取ったのは最澄の方でした。
最澄は、自身が唐で学べなかった密教を空海から教えてもらおうとしたのです。
2人は手紙のやり取りをしたり、密教典籍の貸し借りをしたりする仲となりました。
しかし、そんな2人の仲にヒビが入る出来事が起こります。
それは、最澄が『理趣釈経』の借用を願い出た時のことでした。
それまで色々な典籍を貸し出してきた空海でしたが、『理趣釈経』に関してはきっぱりと断ったのです。
何故かというと、この『理趣釈経』というものは、真言密教において非常に重要な典籍で、師僧から直接の伝授を受けていない最澄には、これを読む資格がないという理由からでした。
簡単に言うと、
「真言密教の奥義を、師僧から受け取ることなく、典籍の文面だけで学び取ろうとするとは何事だ」
と怒って依頼をつっぱねたわけですね。
さらに、ここに追い打ちをかけるかのように、最澄の愛弟子が離反し、空海の弟子となってしまいます。
これらのことがきっかけとなり、空海と最澄の2人は絶縁状態となってしまいました。
\ 空海と最澄の関係に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております /
空海はことわざになっている?
空海は弘法大師です。
この弘法大師という諡を使用したことわざが、実は2つあります。
- 「弘法も筆の誤り」
- 「弘法筆を選ばず」
・弘法も筆の誤り
意味:どんなに優れた技術の持ち主でも間違うことがある
このことわざは、空海の以下のエピソードが由来だと言われています。
あるとき、空海は宮中にあるいくつかの門の額を書くように天皇から勅命を受けました。
そのうちの1つである応天門に掲げる看板を書いて、門に掲げてみると、「応」の文字の最初の点がないことに気付きます。
もう掲げられてしまったが故に、書き直すこともできず、空海はやむを得ず筆を放り投げて点を打ったそうです。
このことから、弘法も筆の誤りということわざが生まれました。
・弘法筆を選ばず
意味:本当の名人にとって道具の良し悪しは関係ない
「本当の名人にとって道具の良し悪しは関係ない」という意味の弘法筆を選ばずということわざですが、実際の空海はそんなことはなかったようです。
それというのも、空海は、職人に注文して作らせた自分専用の筆を愛用し、書体によって筆を何種類か使い分けていたという話があるのです。
いい文字を書くためには、道具にもこだわりたかったのかもしれませんね。
空海は今も生きて修行を続けている?
真言宗では、空海を「大師」と崇敬し、その入定を死ではなく、禅定に入っているものとしています。
つまり、空海は死んでおらず、今もなお高野山奥之院御廟で生き続けて、禅定を続けていると考えられているのです。
そのため、この御廟では、今も1日に2回空海に食事を捧げる「生身供」の儀式が行われています。
まとめ:空海は弘法大師として仏教や文化、生活などに多くの影響を与えた
空海は、遣唐使として唐へと渡り、そこで密教を学びました。そして、帰国後に真言宗を開宗します。それだけに限らず、数々の著書を残したり、満濃池の改修や綜芸種智院の開設など様々な功績も残しました。
今回の内容をまとめると、
- 空海は真言宗を開宗した
- 空海は、著書を残したり、満濃池の改修や綜藝種智院の開設なども行った
- 空海の数々の功績を称えて「弘法大師」の諡号が贈られた
満濃池の堤防であったり、「弘法大師」を用いたことわざであったりと、空海の行ったことは約1200年の時を超えて今も残っています。いかに空海が優秀な人物であったのかということが伺えますね。