徳川家斉の大奥は豪華絢爛だった?子供は55人いた?化政文化も発展した?
徳川家斉(1773(安永2)〜1841(天保12))は、江戸幕府の第11代将軍です。
歴代江戸幕府将軍の中で最も在任期間が長く、また、最も子沢山な将軍として知られています。
そんな徳川家斉は、大奥とどのような関わり方をしてきたのでしょうか?
また、徳川家斉が将軍に在任期間中の大奥はどのような様子だったのでしょうか?
この記事では、徳川家斉の大奥との関わり方や、その影響について簡単に解説していきます。
目次
徳川家斉の大奥は豪華絢爛。側室が多く、子供の数は過去最多だった?
徳川家斉の先代将軍である徳川家治の時代では、大奥はあまり利用されず、その規模はむしろ縮小傾向にありました。
しかし、徳川家斉の代になると、その傾向は一変します。
徳川家斉は、若い頃から大奥に入り浸り、女遊びが激しかったと言われています。
そして、17歳から55歳に至るまで、ほぼ毎年子供が生まれていました。
側室や妾の数はわかっているだけでも40人以上にわたり、子どもの数もわかっているだけで53人(26男、27女)いたと言われており、加えて、流産した子も7人はいたようです。
これは、歴代将軍の中で見ても、トップの子供の数です。
このような大所帯となったものですから、それぞれにお付きのものがついたりして、大奥の人数はなんと3000人近くに巨大化しました。
大奥を縮小しようとしていた徳川家治とは対照的に、徳川家斉は大奥をより豪華に、より贅沢な暮らしができるようにと投資していきました。
そのため、徳川家斉の大奥は豪華絢爛、とても派手なものへとなっていきました。
徳川家斉の妻と子供一覧
徳川家斉の子供は先ほどもお伝えしたように、なんと53人もいます。
徳川家斉は、オットセイを原料とした精力剤を愛飲していたため、「オットセイ将軍」「種馬公方」などというあだ名をつけられていたそうです。
それくらいまでに子作りに精を出していた徳川家斉の、妻と子供を見ていきましょう。
妻の名前 | 男児 | 女児 |
近衛寔子(正室) | 敦之助(→清水家) | |
お万 | 竹千代 | 淑姫(→尾張家正室) 瓊岸院 綾姫(→伊達家正室) |
お楽 | 徳次郎(12代家慶) | |
お梅 | 端正院 | |
お宇多 | 敬之助(→尾張家) 豊三郎 | 五百姫 舒姫 |
お志賀 | 総姫 | |
お利尾 | 格姫 | |
お登勢 | 菊千代(→紀伊家11代斉順) | 峰姫(→水戸家正室) 寿姫 晴姫 |
お蝶 | 時之助 虎千代(→紀伊家) 友松 斉荘(→尾張家12代) 久五郎 | 亨姫 和姫(→毛利家正室) |
お美代 | 溶姫(→前田家正室) 仲姫 末姫(→浅野家正室) | |
お以登 | 斉善(→福井松平家) 松平斉省(→川越松平家) 松平斉宣(→明石松平家) | 琴姫 永姫(→一橋家正室) |
お袖 | 陽七郎 斉彊(→紀伊家12代) 富八郎 | 岸姫 文姫(→高松松平家正室) 艷姫 孝姫 |
お八重 | 斉明(→清水家4代) 斉衆(→池田家) 斉民(→津山松平家) 信之進 斉良(→館林松平家) 斉裕(→蜂須賀家) | 盛姫(→鍋島家正室) 喜代姫(→酒井家正室) |
お美尾 | 浅姫(→福井松平家正室) | |
お屋知 | 高姫 元姫(→会津松平家正室) | |
お瑠璃 | 斉温(→尾張家11代) | 泰姫(→池田家正室) |
一覧を見てわかるように、徳川家斉の子どもの多くは、各徳川家や諸大名の元に養子に出されたり、嫁に出されたりしました。
それにより、幕府と諸大名のつながりが深くなったのです。
徳川家斉の大奥のおかげで栄えた化政文化
徳川家斉の大奥は、非常に豪華絢爛で贅沢三昧な暮らしでした。
そして、その影響で町人文化が華やかに発展していったのです。
この町人文化は、徳川家斉の在任期間の元号にちなんで「化政文化」と呼ばれています。
江戸を中心に広がったこの文化は、皮肉や風刺が好まれ、それらが盛り込まれた滑稽本や人情本、川柳、狂歌などが流行しました。
また、歌舞伎や浮世絵などの芸事も発達したり、伊勢神宮に参拝する御蔭参りや庶民の旅行も行われるようになりました。
さらに、学問では、国学、医学、蘭学が発達し、伊能忠敬が日本地図を作成するということもありました。
<文学>
【滑稽本】会話文を中心に笑いを取る物語
・十返舎一九『東海道中膝栗毛』
・式亭三馬『浮世風呂』
【黄表紙】成人向けの絵入り小説
・恋川春町『金々先生栄花夢』
【人情本】いわゆる恋物語
・為永春水『春色梅児誉美』
<美術>
【浮世絵】
・葛飾北斎『富嶽三十六景』
・歌川広重『東海道五十三次』
<芸能>
【歌舞伎】
・四代目・鶴屋南北『東海道四谷怪談』
・七代目・市川團十郎『勧進帳』
<学問>
【国学】古典研究から発展した学問
・本居宣長『古事記伝』
【蘭学】オランダから入ってきた医学や天文学の学問
・杉田玄白、前野良沢『解体新書』
・大槻玄沢『蘭学階梯』
徳川家斉が豪華絢爛な贅沢な暮らしを行う前の時代は、寛政の改革といって、質素倹約を政策方針としていました。
そのため、このように町人が贅沢な暮らしをするなんてもってのほかだったのです。
徳川家斉がすすんで贅沢な暮らしをしていたことによって、化政文化は発展していったといっても過言ではないでしょう。
徳川家斉の大奥のせいで幕府の財政は逼迫。反乱も?
先ほどもお伝えしたように、徳川家斉の大奥のおかげで、諸大名とのつながりは深くなり、町人文化も栄え、いいことだらけのように思います。
しかし、実際はその裏で悪いことも起きていました。
まず、幕府の財政です。
ただでさえ、お金がなくて、質素倹約を心がけていたところだったのに、徳川家斉の大奥はそんなことは知らないとばかりに、贅沢三昧をしてしまいました。
さらに、諸大名へ嫁ぐとなると、幕府も受け入れ先も結婚の準備などで莫大な費用がかかります。
それが毎年毎年続いたものですから、当然幕府も諸藩も財政が逼迫してしまったのです。
なんとかして財政を立て直そうとするも、賄賂などが横行し、幕政はどんどん腐敗していきました。
こうなってくると、当然幕府への不満が溜まっていきますよね。
そして、各地で幕府に対する反乱が頻繁に起こるようになってしまいます。
大阪では大塩平八郎の乱、越後では生田万の乱をはじめとする世直し型の様相を帯びる反乱が相次ぎました。
このように、華やかな舞台の一方で、着実に幕藩体制崩壊の兆しが見え始めてきたのです。
徳川家斉に関するQ&A
徳川家斉に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
・徳川家斉は一橋徳川家の出身だった?
・徳川家斉の先代将軍・徳川家治は愛妻家で大奥をあまり利用しなかった?
・徳川家斉と東京大学の赤門の関係は?
徳川家斉は一橋徳川家の出身だった?
将軍となった徳川家斉ですが、実は将軍家出身ではありません。
元々は、徳川御三卿の1つ、一橋家の2代当主・一橋治済の長男として生まれました。
そのため、本来であれば、徳川家斉はそのまま一橋家を継ぐ予定だったのです。
しかし、先代の将軍である徳川家治の嫡男・徳川家基が急死してしまい、将軍の後継者問題が起こります。
そこで白羽の矢が立てられたのが、徳川家斉です。
次期将軍候補として、他にふさわしい男子がいなかったことや、江戸幕府で老中を務めていた田沼意次と父・一橋治済が画策したことにより、徳川家斉は1781年に徳川家治の養子となります。
そして、1786年に徳川家治が亡くなったため、その翌年にまだ15歳だった徳川家斉が第11代将軍に就任しました。
徳川家斉の先代将軍・徳川家治は愛妻家で大奥をあまり利用しなかった?
徳川家治は、大奥をあまり利用しなかったと言われています。
その理由は「愛妻家だったから」です。
徳川家治の正室は、倫子という宮家出身の女性でした。
代々将軍は、正室を皇室または公卿から迎えるのが習わしで、愛情の有無などない政略結婚が当たり前でした。
そのため、歴代の将軍の正室が不幸な生涯を送りがちだったのもしょうがないことだったのです。
しかし、徳川家治と倫子の夫婦仲は非常に良く、子供が生まれたら2人で可愛がるなど、幸せな日々を過ごしていました。
時には、徳川家治があまりに頻繁に倫子のもとへ通い詰めていたせいで、倫子に付いていた御年寄(大奥の役職で、夜枷も管理していた)から反発が起きたこともあったようです。
徳川家治は、それほどまでに倫子一筋であったため、大奥を利用する必要がなかったのです。
徳川家斉と東京大学の赤門の関係は?
徳川家斉と東京大学の赤門とは、実はつながりがあります。
この赤門は、実は徳川家斉の子・溶姫が嫁ぐ際に作られたものなのです。
子沢山であった徳川家斉は、自分の娘がどこに嫁いだのかわかりやすいように、嫁ぎ先の門を赤く塗らせたと伝えられています。
現在の東京大学のシンボルである赤門こと「御守殿門」もそのうちの1つです。
溶姫が、13代加賀藩主・前田斉泰の正室として、江戸の加賀藩邸に輿入れした際に赤く塗られました。
まとめ:徳川家斉は大奥で贅沢三昧をしすぎて、幕府の財政が傾いてしまった
徳川家斉は、歴代江戸幕府将軍の中でも、トップの子供の数を誇りました。そのため、大奥の規模も大きなものとなり、徳川家斉の大奥は豪華絢爛で贅沢三昧なものとなりました。しかし、その影響で、幕府の財政は傾いてしまったのでした。
今回の内容をまとめると、
- 徳川家斉は歴代江戸幕府将軍の中でもトップの子供の数を誇る
- 徳川家斉の大奥は豪華絢爛で贅沢三昧な暮らしぶりだった
- 徳川家斉が大奥で散財した影響を受けて、化政文化が発展した
- 徳川家斉の大奥での贅沢三昧によって、幕府の財政は傾いていった
今の時代に17歳から55歳まで毎年子供を産ませるくらい女性に手を出していたら、各方面から非難されることでしょう。しかし、将軍だからこそ、世継ぎを残すことは非常に大事なことで、その点で言えば、徳川家斉は非常に優秀な人材であったと言えるのかもしれません。