蔦屋重三郎の死因は脚気?晩年の姿は?墓所は?その生涯を簡単に解説!
蔦屋重三郎(1750(寛延3)〜1797(寛政9))は、江戸時代に活躍した版元(出版人)です。
山東京伝の洒落本や、喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵などを出版したことで知られています。
2025年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、主人公であり、横浜流星さんが演じられることでも話題となっています。
そんな蔦屋重三郎はどのようにして亡くなったのでしょうか?
この記事では、蔦屋重三郎の死因などについて簡単に解説していきます。
目次
蔦屋重三郎の死因は脚気
蔦屋重三郎の死因は、脚気だと言われています。
脚気とは、ビタミン不足が原因でかかる病気です。
当時は「江戸わずらい」と呼ばれていました。
蔦屋重三郎は、巨万の富を手にした結果、裕福な食生活を送っていたであろうと予測できます。
そのため、白米中心の栄養が偏った食生活やアルコール依存などから起因したと考えられています。
蔦屋重三郎の生涯を年表で解説!
【蔦屋重三郎の年表】
- 1750年(寛延3年):0歳
江戸吉原で丸山重助の子として誕生する - 1757年(宝暦7年):7歳
喜多川氏の養子となる - 1773年(安永2年):23歳
吉原大門の前に書店を開く - 1774年(安永3年):24歳
吉原細見の販売・出版を始める - 1777年(安永6年):27歳
書肆として独立する - 1783年(天明3年):33歳
一流版元の並ぶ日本橋通油町に進出する
→これ以降、朋誠堂喜三二、山東京伝、恋川春町らと親交を深め、戯作や狂歌本を刊行していく
→江戸屈指の地本問屋に成長する - 1791年(寛政3年):41歳
寛政の改革により山東京伝の洒落本・黄表紙が摘発され、身上半減の処分を受ける - 1794年(寛政6年):44歳
弾圧に負けずに、写楽の役者絵を出版するなどする - 1797年(寛政9年):48歳
脚気により亡くなる
蔦屋重三郎は晩年処罰された
数々の才能を見出し、多くの人材を世に送り出してきた蔦屋重三郎ですが、晩年には処罰されています。
それは、松平定信による寛政の改革の際のことです。
この寛政の改革により、娯楽を含む風紀取り締まりが厳しくなり、蔦屋重三郎がプロデュースした作品たちも摘発されてしまいます。
この際、蔦屋重三郎は出版規制に従わなかったため、罰として財産の半分を没収されてしまうのです。
それでも、蔦屋重三郎は娯楽を諦めることはしませんでした。
持ち前の企画力・仕掛け力を駆使し、再び財を蓄え、新人の浮世絵師をプロデュースしようとします。
しかし、その志半ばにして脚気にかかり亡くなってしまうのです。
享年48歳、まだまだやりたいことなどもたくさんあったであろうに、無念の死だったことでしょう。
蔦屋重三郎の墓は東京都にある正法寺
蔦屋重三郎の墓は、菩提寺である浅草の正法寺にありました。
そこには、蔦屋重三郎の一族の墓もありましたが、関東大震災と戦災の被害によって、今は跡形もなくなってしまっています。
そこにあったということは、明治時代の文献から判明しました。
墓は無くなってしまったのですが、現在は蔦屋重三郎を顕彰する墓碑銘が存在します。
正法寺
住所:東京都台東区東浅草1丁目1番15号
蔦屋重三郎に関するQ&A
蔦屋重三郎に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 蔦屋重三郎とはどんな人?
- 蔦屋重三郎とTSUTAYAの関係は?
蔦屋重三郎とはどんな人?
蔦屋重三郎は、江戸時代中期に活躍した版元(出版人)です。
簡単に言えば、「カリスマ編集者」「敏腕プロデューサー」のような存在です。
「蔦重(つたじゅう)」の通称で親しまれていた蔦屋重三郎は、数々の才能を見出し、世に送り出しました。
蔦屋重三郎がプロデュースを手掛けた人物の例を挙げると、
- 喜多川歌麿
- 東洲斎写楽
- 山東京伝
- 朋誠堂喜三二
- 滝沢馬琴
- 十返舎一九
などがいます。
また、自身も「蔦唐丸(つたのからまる)」という名で、狂歌師として活動していました。
歌会などのイベントを主催し、そこで詠まれた狂歌を次々と出版したのです。
多くのヒット作を生み出し、巨万の富を得た蔦屋重三郎は、後に「江戸の出版王」と称されるようになりました。
このように、蔦屋重三郎は、江戸の出版業界を引っ張っていく版元として活躍していたのです。
蔦屋重三郎とTSUTAYAの関係は?
蔦屋重三郎の名前を聞いて「TSUTAYA」を思い浮かべる人は多いのではないでしょうか?
TSUTAYAは、ビデオレンタルや書店として有名ですよね。
それでは、蔦屋重三郎とTSUTAYAは関係があるのでしょうか?
結論からいいますと、直接的な関係はないと言えます。
TSUTAYAの創業者である増田宗昭さんは、蔦屋重三郎の子孫ではありません。
しかし、増田宗昭さんの祖父のお店の屋号が「蔦屋」だったのです。
そのため、増田宗昭さんがTSUTAYAの名前を選んだ理由は、以下の2つが挙げられています。
- 増田宗昭さんの祖父が営んでいた置屋の屋号が「蔦屋」であったことから
- 増田宗昭さんが蔦屋重三郎にあやかりたいと考えたから
ちなみに、2024年現在のTSUTAYAの経営陣には蔦屋重三郎の子孫はいらっしゃらないようです。
まとめ:蔦屋重三郎の死因は脚気で、志半ばで亡くなった
蔦屋重三郎は、巨万の富を手にした結果、偏った食生活となり、そして脚気になり無くなってしまいました。処罰されてもなお、出版業界を盛り上げていこうとした矢先の死でした。
今回の内容をまとめると、
- 蔦屋重三郎の死因は脚気
- 蔦屋重三郎は、晩年に寛政の改革により処罰されていた
- 蔦屋重三郎の墓は無くなってしまったが、顕彰碑が存在する
財産を半分没収されても、持ち前の企画力で再び財を集め、出版業界を盛り上げていこうとしていた蔦屋重三郎。脚気で亡くなることがなければ、もっとすごい作品が世に出ていたかもしれないと思うと、非常に残念でなりません。