藤原為時の家系図をわかりやすく解説!子孫は現在まで続いてる?紫式部との関係は?
藤原為時(949(天暦3)頃〜1029(長元2)頃)は、平安時代中期に活躍した貴族・歌人です。
紫式部の父親として知られています。
歌人としても非常に優秀で、後に花山天皇となる師貞親王の教育係を務めていたこともありました。
2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、岸谷五朗さんが演じられることでも話題となっています。
そんな藤原為時の子孫は、現在まで続いているのでしょうか?
この記事では、藤原為時の家系図を見ながら、その子孫について簡単に解説していきます。
目次
藤原為時の家系図
藤原為時のプロフィール
【藤原為時のプロフィール】
藤原為時(ふじわらのためとき)949年(天暦3年)頃〜1029年(長元2年)頃/享年:不明
父:藤原雅正 / 母:藤原定方の娘
妻:藤原為信の娘、生母不明の女
子:藤原惟規、女、紫式部、藤原惟通、定暹、藤原信経室
藤原為時が生まれた年は、正確には判明していませんが、一説によると949年とされています。
父方の祖父に、小倉百人一首の歌人として知られている藤原兼輔を持っているためか、その才能を受け継ぎ、若い頃から和歌や漢学に励みます。
そして、その後その才を認められ、師貞親王の教育係や文官を歴任していくこととなるのです。
晩年は出家するなどしていますが、その最期は不明のままです。
藤原為時と紫式部は親子関係。藤原北家の流れを汲んでいる
藤原為時と紫式部は親子関係に当たります。
この2人は、実は藤原北家の流れを汲んでいるのです。
しかし、同じ藤原北家の流れを汲んでいる摂関家の藤原道長とは、10親等以上も離れているため、遠い遠い親戚といったところになります。
そのため、2人は藤原北家出身であるにも関わらず、傍流であるがゆえに、つつましい下級貴族の生活を送らざるを得なかったようです。
藤原為時の子孫は現在も続いている?天皇もいる?
藤原為時は2人の妻との間に、6人の子供(男児:4人、女児:2人)を残しました。
そのほとんどは子供を残さずに亡くなってしまいましたが、藤原惟規と紫式部は子孫を繋いでいます。
家を継いだ藤原惟規の子孫には、平安時代後期に平清盛に寵愛を受け権勢をふるった藤原邦綱がいます。
また、紫式部の子孫には、なんと土御門天皇の母親となった源在子がいます。
つまり、今上天皇に続く、土御門天皇からの歴代天皇は紫式部の子孫ということになるのです。
また、紫式部から5代あとの高階基章の娘は、平清盛の正室となり、平重盛や平基盛を生み、平氏繁栄の礎となりました。
このように、藤原為時の子孫は、後世において重要な役割を担っており、その血は現在まで続いているのです。
藤原為時に関するQ&A
藤原為時に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 藤原為時の階級は何?
- 藤原為時は漢詩の才能があった?娘・紫式部にもその素養は受け継がれた?
- 藤原為時と藤原道長の関係は?
藤原為時の階級は何?
藤原為時は、上級貴族ではなく、中級や下級貴族の生まれでした。
そのため、生まれながらにして、上流階級の役職が約束されているというようなことはありませんでした。
しかし、藤原為時には、和歌や漢詩の優れた才能がありました。
菅原道真の孫に当たる文章博士・菅原文時に師事し、そこで紀伝道を学び、文人となるのです。
そして、その才を認められ、984年(永観2年)に、花山天皇の即位に伴い、藤原為時は、式部丞・六位蔵人に任命されました。
式部丞とは、文官の人事や教育などを担当した式部省の判官の総称です。
娘・紫式部の名前も、この藤原為時に与えられた役職に由来していると言われています。
しかし、寛和の変によって、花山天皇が突然退位し、出家してしまうと、同時に藤原為時も失職することになってしまうのです。
藤原為時は、この後、なんと10年もの間官職に就くことができなくなります。
その間、官職を得るために、申文を書いて、内裏に届けたりすることもあったようです。
996年(長徳2年)になって、やっと従五位下・越前守に叙任され、越前国へと赴任し、地方行政の責任者である受領を務めることになります。
この際、紫式部も越前国へと同行させています。
このように、藤原為時は、階級を自らの才能で勝ち取っていったのです。
藤原為時は漢詩の才能があった?娘・紫式部にもその素養は受け継がれた?
藤原為時の祖父は、小倉百人一首の歌人として知られている藤原兼輔です。
そのため、その才を受け継いでいたのか、藤原為時にも和歌や漢詩の才能がありました。
そして、その素養は、藤原為時の娘・紫式部にも受け継がれています。
しかし、藤原為時はそれをあまり喜ばしく思ってはいなかったようです。
それを表しているエピソードがあります。
ある時、藤原為時は、紫式部の弟に漢詩を教えていました。
それをそばで聞いていた紫式部は、なんと弟よりも先にそれを覚え暗唱してしまうのです。
本来であれば、漢詩の知識を吸収することは悪いことではなく、むしろ褒められるべきことです。
しかし、当時は漢詩は男性が身につけるもので、女性が嗜むものではないという常識がありました。
そのため、藤原為時は紫式部に向かって、
「残念だよ。お前が男に生まれてこなかったのが私の運の悪さだ…」
このように言い放ったのです。
紫式部は、このときのことを大人になってから日記に記しています。
それほどまでに、子供心に刺さる一言だったでしょう。
藤原為時としては、その才能を大手を振って育てたかったのかもしれませんね。
藤原為時と藤原道長の関係は?
藤原為時と藤原道長は、同じ藤原北家出身ですが、10親等以上離れている遠い遠い親戚で、ほとんど関わりがないと言っても過言ではないような関係です。
しかし、藤原為時にとっては、藤原道長は非常に大事な役割を果たしてくれた存在です。
花山天皇が退位させられ、自身も職を失ってしまった後、再び職を得ることができるようになったきっかけが藤原道長なのです。
藤原為時は、職を失っている間、申文という求職や昇進を願い出る上申書を提出していました。
あるとき、藤原為時は一条天皇に以下のような申文を出します。
「苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」
(訳:寒い夜も苦しさに耐えて学んだのに希望が叶えられず、血のような涙が襟を濡らしています。任官されなかった翌日は、青い空が目に染み入ります)
この申文を内侍は一条天皇に届けようとしましたが、なかなか渡すタイミングがありませんでした。
しかし、藤原道長がこの詩に目を留め、代わりに一条天皇の前で詠んだのです。
こうして、藤原為時の申文は藤原道長を経由して一条天皇の元へと届きました。
この漢詩を聞いた一条天皇は、その素晴らしさに感涙し、食事も摂れず、夜も眠れなくなったほどだと言われています。
そして、この漢詩のおかげで、藤原為時は再び望んだ職を得ることができるようになるのです。
藤原道長がいなければ、藤原為時は再び職を得ることができなかったかもしれませんね。
まとめ:藤原為時の家系図からは紫式部と親子関係であることがわかり、子孫も現在まで続いている
藤原為時の家系図からは、『源氏物語』の筆者として有名な紫式部と親子関係であることがわかります。そして、その子孫には、今上天皇などがおり、現在まで続いています。
今回の内容をまとめると、
- 藤原為時は子供を6人(男児:4人、女児:2人)残している
- 藤原為時と紫式部は親子関係
- 藤原為時の子孫には、今上天皇などがおり、その血は現在まで続いている
藤原為時の血は、紫式部を通して、現在の今上天皇まで受け継がれています。つまり、和歌や漢詩の才能も脈々と受け継がれていっているのかもしれませんね。