藤原為時はなぜ越前守になれた?紫式部も同行した?淡路守になる予定だった?
藤原為時(949(天暦3)頃〜1029(長元2)頃)は、平安時代中期に活躍した貴族・歌人です。
紫式部の父親として知られています。
歌人としても非常に優秀で、後に花山天皇となる師貞親王の教育係を務めていたこともありました。
2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、岸谷五朗さんが演じられることでも話題となっています。
そんな藤原為時は、越前守を務めていた時期もありました。
なぜ藤原為時は越前守になれたのでしょうか?
この記事では、藤原為時が越前守になれた理由などを簡単に解説していきます。
目次
藤原為時は花山天皇が退位すると無職になった
藤原為時は、上級貴族ではなく、中級や下級貴族の生まれでした。
そのため、生まれながらにして、上流階級の役職が約束されているというようなことはありませんでした。
しかし、藤原為時には、和歌や漢詩の優れた才能がありました。
菅原道真の孫に当たる文章博士・菅原文時に師事し、そこで紀伝道を学び、文人となるのです。
そして、その才を認められ、984年(永観2年)に、花山天皇の即位に伴い、藤原為時は、式部丞・六位蔵人に任命されました。
式部丞とは、文官の人事や教育などを担当した式部省の判官の総称です。
娘・紫式部の名前も、この藤原為時に与えられた役職に由来していると言われています。
しかし、寛和の変によって、花山天皇が突然退位し出家すると、同時に藤原為時も失職することになってしまうのです。
藤原為時は、この後、なんと10年もの間官職に就くことができなくなります。
その間、官職を得るために、申文という求職や昇進を願い出る上申書を書いて、内裏に届けたりすることもあったようです。
996年(長徳2年)になって、やっと従五位下・越前守に叙任され、越前国へと赴任し、地方行政の責任者である受領を務めることになりました。
藤原為時は本当は淡路守になる予定だった
藤原為時は、職を失っている間、申文を提出していました。
その願いが叶い、996年(長徳2年)に、従五位下・淡路守に任じられます。
しかし、当時の淡路国は、国の等級的には下の方でした。
長年無職であったのだから、職に就けるだけでも有り難い話のはずなのですが、ここで藤原為時は一条天皇に以下のような申文を出します。
「苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」
(訳:寒い夜も苦しさに耐えて学んだのに希望が叶えられず、血のような涙が襟を濡らしています。任官されなかった翌日は、青い空が目に染み入ります)
これを送ることにより、藤原為時は、自身の不遇を切々と訴えたのです。
この漢詩を聞いた一条天皇は、その素晴らしさに感涙し、食事も摂れず、夜も眠れなくなったほどだと言われています。
そして、このおかげで、急遽藤原為時は越前守への変更が決まったのです。
淡路国に比べたら、越前国は等級が上の国で、元々藤原為時が望んでいた土地でした。
このように、藤原為時は、自身の望む地位を、自身の才能で勝ち取ったのです。
藤原為時が越前守に叙任されたのは、宋人との意思疎通を期待されたため
藤原為時が越前守に決まる前、本当はすでに源国盛という人物が次に越前守になることが決まっていました。
この源国盛は、藤原道長の乳母子で、藤原道長と深い関係にあり、これまでも受領をいくつか歴任してきた人物です。
そんな人物を押しのけて、藤原為時は越前守の座を奪い取ります。
これには、いくつかの理由があります。
まず1つ目に挙げられるのが、当時の越前の環境です。
この頃の越前には、漂着した宋人がおり、あちこちでトラブルを起こしていました。
越前は都に近く、宋人に攻め込まれたりでもしたら大変です。
そこで、漢文に優れて、宋人との意思疎通もできそうな藤原為時に白羽の矢が立ったというわけです。
藤原為時を越前守にすることによって、宋人を大宰府に回すか、もしくは宋に帰るように求めてもらおうという算段でした。
2つ目に挙げられるのは、源国盛をより上の大国の受領にしようと藤原道長が企んでいたのではないかとする説です。
先ほどもお伝えしたように、源国盛は藤原道長と深い関係に当たる人物です。
藤原道長としても、自身と関わりが深い人物を重職に置いておいたほうが、何かと動きやすいですよね。
その証拠に、源国盛は越前守を藤原為時の淡路守と交換された後、播磨守に変えられています。
播磨国は当時の大国の1つで、当然越前国よりも格が高い国となります。
このように、藤原道長の思惑もあったり、当時の環境もあったりで、藤原為時は越前守になることができたのです。
藤原為時の越前国赴任には紫式部も同行していた
藤原為時が越前国に赴任する際には、娘の紫式部も同行していました。
その証拠に、越前国に向かう旅の道中で詠んだであろう歌が『紫式部集』に収められているのです。
しかし、紫式部は、父の任期が終わっていないにも関わらず、先に京へ帰り藤原宣孝と結婚しています。
実は、宋人との意思疎通が期待されていた藤原為時でしたが、いざコミュニケーションをとってみると、全くうまくいきませんでした。
いくら漢文ができるからといって、実際コミュニケーションがとれるかどうかは別問題だったというわけですね。
父の漢詩の才能に憧れ、宋人との意思疎通も、さぞ立派にこなしてくれるだろうと期待していた紫式部からしてみたら、非常にがっかりする事案だったでしょう。
父の優秀さを見るためについてきた紫式部には、これ以上越前の地に留まっている理由がなくなってしまったのかもしれません。
その証拠に、紫式部は、藤原為時が再び越前守に任じられた際には、同行していないのです。
しかし、今度は藤原為時自身が、任期が終わっていないにも関わらず、越前守を辞任し、帰京しています。
これは、一説には京で紫式部が死去したためではないかと言われています。
藤原為時に関するQ&A
藤原為時に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 藤原為時と紫式部の関係性は?
- 藤原為時は漢詩の才能があった?娘・紫式部にもその素養は受け継がれた?
藤原為時と紫式部の関係性は?
藤原為時と紫式部は親子関係に当たります。
この2人は、実は藤原北家の流れを汲んでいるのです。
しかし、同じ藤原北家の流れを汲んでいる摂関家の藤原道長とは、10親等以上も離れているため、遠い遠い親戚といったところになります。
そのため、2人は藤原北家出身であるにも関わらず、傍流であるがゆえに、つつましい下級貴族の生活を送らざるを得なかったようです。
藤原為時は漢詩の才能があった?娘・紫式部にもその素養は受け継がれた?
藤原為時の祖父は、小倉百人一首の歌人として知られている藤原兼輔です。
そのため、その才を受け継いでいたのか、藤原為時にも和歌や漢詩の才能がありました。
そして、その素養は、藤原為時の娘・紫式部にも受け継がれています。
しかし、藤原為時はそれをあまり喜ばしく思ってはいなかったようです。
それを表しているエピソードがあります。
ある時、藤原為時は、紫式部の弟に漢詩を教えていました。
それをそばで聞いていた紫式部は、なんと弟よりも先にそれを覚え暗唱してしまうのです。
本来であれば、漢詩の知識を吸収することは悪いことではなく、むしろ褒められるべきことです。
しかし、当時は漢詩は男性が身につけるもので、女性が嗜むものではないという常識がありました。
そのため、藤原為時は紫式部に向かって、
「残念だよ。お前が男に生まれてこなかったのが私の運の悪さだ…」
このように言い放ったのです。
紫式部は、このときのことを大人になってから日記に記しています。
それほどまでに、子供心に刺さる一言だったでしょう。
藤原為時としては、その才能を大手を振って育てたかったのかもしれませんね。
まとめ:藤原為時は自身の漢詩の才能で越前守を得た
藤原為時は、花山天皇が亡くなった後、しばらく無職が続きました。しかし、その後一条天皇に直接申文を送り、その漢詩の才能で自身が望む越前守の地位を勝ち取りました。
今回の内容をまとめると、
- 藤原為時は、無職が続いた後、淡路守に任命された
- 藤原為時は、淡路守では不服だったため、一条天皇に漢詩で訴えかけた
- 藤原為時、結果として越前守に任命された
越前国の当時の環境が味方したとはいえ、情に訴えかけた漢詩を提出しただけで出世するとは、いかに藤原為時の漢詩の才能が素晴らしかったのかが伺えますね。