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豊臣秀頼の父親は秀吉ではない?秀頼は一体誰の子供なのか?

豊臣秀頼の父親は秀吉ではない?秀頼は一体だれの子供なのか?

豊臣秀頼とよとみひでよりは、豊臣家最後の将軍として、安土桃山時代から江戸時代への変換点に関わる重要な人物のひとりです。側室の淀殿(茶々)と豊臣秀吉の子供として教科書などでは学んでいるかと思います。
しかし、生物学的な父親は、本当に豊臣秀吉であったのかとの疑惑がある人物でもあるのです。今回は、豊臣秀頼は一体、誰の子供なのかに注目してみました。

豊臣秀頼の父親は誰?

豊臣秀頼は、豊臣秀吉の側室である淀殿(茶々)が出産していることは、記録も残っているため間違いないといえるでしょう。
しかし、豊臣秀吉が豊臣秀頼の父親であるというのが、非常に疑問視されているのです。
豊臣秀頼が生まれた直後から、豊臣秀吉は秀頼を実子として扱い、自分の後継ぎにするべく様々な画策を行っています。そのため社会的な父親が豊臣秀吉であることは間違いありません。

しかし、生物学的な父親が果たして豊臣秀吉であったのかという部分に関しては、疑問を持つ歴史学者が多くいます。では、徳川秀頼の生物学上の父親は一体誰なのでしょうか。候補者は何人も存在します。

【豊臣秀頼の父親ではないかと考えられる人物】

  • 大野治長おおのはるなが
  • 石田三成いしだみつなり
  • 名古屋山三郎なごやさんさぶろう
  • 真田信繁さなだのぶしげ(幸村)
  • 謎の陰陽師

今回は豊臣秀頼の父親ではないかと考えられているこの五名について、詳しくみていきます。

豊臣秀頼は、大野治長と淀殿(茶々)の子供?

豊臣秀頼の生物学上の父親候補の一人目が、大野治長です。
大野治長は豊臣秀頼の母親である淀殿(茶々)の乳母の息子です。
乳兄弟の関係というわけですね。
幼い頃から淀殿(茶々)との交流も深く、最後まで豊臣家に献身的に尽くした人物だったと言われています。
淀殿(茶々)よりも三十歳以上も年上だった豊臣秀吉とくらべ、大野治長は淀殿(茶々)と同い年で色白で大柄な偉丈夫だったそうです。
168センチメートルともいわれる長身な淀殿(茶々)と並び立つと、さぞや見目を惹く二人だったでしょう。

仲が良く、目を引く二人だった影響か、淀殿(茶々)と大野治長が密通していたとの記録が多数残っています。
奈良のお寺の僧の日記や、朝鮮出兵時に捕虜となった儒学者の記録にまで二人の密通について書かれているそうです。

しかしながら、大野治長は豊臣秀吉の恐ろしさをよく知っている人物です。
豊臣秀吉は自分を裏切った人物を生かしておかないことは容易く予測できる立場だったと思われます。
本当に淀殿(茶々)と密通して豊臣秀頼が生まれたのだとしたら、はたして大阪の陣で豊臣家が滅亡する最後の最後まで生きていられたのでしょうか?

淀殿(茶々)の大野治長との恋愛は豊臣秀吉の死後とする見解もあります
豊臣秀頼の父親が、大野治長である可能性はありますが、確かな資料などは残っていないので、真実は不明です。

豊臣秀頼は、石田三成と淀殿(茶々)の子供?

石田三成(Wikipediaより)

二人目は石田三成です。
石田三成は、淀殿(茶々)と同じ近国出身で同郷の仲であったといわれています。
豊臣家の政治の中枢である五奉公の一人です。関ケ原の戦いでは西軍の実質的トップの地位につくほどの力を持った武将でした。

豊臣秀頼の生物学的な父親候補のなかでも抜群の知名度を持っている石田三成ですので、安土桃山時代を題材としたドラマや物語で、石田三成こそが豊臣秀頼の父親なのかもしれないと思わせるものが存在しています。
1996年放送のNHK大河ドラマ「秀吉」でも淀殿(茶々)と惹かれ合うシーンがありました。
しかしながら、歴史的資料には石田三成と淀殿(茶々)の関係性を示すようなものは今のところ見つけられていません。
さらに豊臣秀頼が生まれる1593年の一年前は、石田三成が朝鮮に赴任していた時期でした。大阪と朝鮮との離れた地にいた淀殿(茶々)と石田三成の間で、果たして子をつくることはできたのでしょうか。
豊臣秀頼の父親が石田三成という説は、可能性が低くあくまでも噂の範囲のようですね。

豊臣秀頼は、名古屋山三郎と淀殿(茶々)の子供?

三人目は名古屋山三郎です。
名古屋山三郎の母親は織田信長の姪にあたるそうです。
淀殿(茶々)の母親であるお市の方は織田信長の妹ですので、淀殿(茶々)にとって名古屋山三郎は従妹の子供というわけです。

また、名古屋山三郎は蒲生氏郷がもううじさとの小姓でした。
豊臣秀吉の側室である三の丸殿は織田信長の娘で、蒲生氏郷が後見人でしたし、蒲生氏郷の妹も豊臣秀吉の側室の一人となっています。
側室方面からも淀殿(茶々)と名古屋山三郎とは接点があったのかもしれません。

名古屋山三郎はその容姿がとびぬけてよかったと言われています。
大きなロザリオを掛け、南蛮風な衣装を着て、街を闊歩する絶世のイケメン名古屋山三郎に、誰もがメロメロになったそうです。
戦国時代の三大美丈夫の一人ともいわれ、遊芸にも秀でており、女性にも男性にもモテモテな色男でもありました。
そんな名古屋山三郎にはスキャンダラスな噂も絶えません。
歌舞伎の祖である出雲のお国と愛人関係にあるだとか、キリシタン大名に寵愛されているだとか。
その噂の中の一つとして、名古屋山三郎が淀殿(茶々)と密通して豊臣秀頼をもうけたのではとの噂もささやかれていたそうです。
しかし、豊臣秀頼の父親が名古屋山三郎であるという資料は残っておらず、あくまでも噂の域を出ませんね。。。

豊臣秀頼は、真田信繁(幸村)と淀殿(茶々)の子供?

四人目は真田信繁です。
2016年放送のNHK大河ドラマ「真田丸」で描かれた淀殿(茶々)との関係を思い浮かべる方もいるのではないでしょうか。

日本一の兵との呼び声も高い真田信繁は、豊臣秀吉の側室の一人を貰ったり、豊臣姓を賜ったりされており、豊臣秀吉にはとても重用されていたそうです。
真田信繁は、大阪の陣で豊臣家が滅亡する最後の最後まで忠義を貫きました。

豊臣秀頼を身篭った時期に、淀殿(茶々)と真田信繁が大阪城で過ごしていたとの資料は残っています。
しかし、密通しあう仲であったとの文献は今のところ存在していません。

大野治長と同様に、豊臣秀吉を良く知っていたからこそ、あえて裏切る行為を行ったのではないか?との疑問は残ります。

豊臣秀頼は、謎の陰陽師と淀殿(茶々)の子供?

最後は、豊臣秀頼の父親は謎の陰陽師だったとの説です。
当時の日本では、どうしても子宝を授からない家庭に対しての救済策が民間事例でありました。
子宝が授かるように神仏に願掛けをし、一種のトランス状態となった特別な場で、神仏と一体となった男女の自由な交渉を行うものでした。
この日に授かった子供は、仏の申し子として大切に育てられました。
そこには罪悪感も嫌悪感もなかったのです。

淀殿(茶々)が設けた二子のうち、長男の鶴松はこの民間事例と同様な事を、豊臣秀吉が監修の元に行われて授かったと考えられています。
そして宗教的トランス状態を作り出したのが大阪城に仕えていた陰陽師であったというわけです。

長男鶴松の誕生に大喜びの豊臣秀吉でしたが、鶴松は幼くして亡くなってしまいます。
豊臣秀頼も、再びこの祈祷を行った結果授かったのではとの説があります。
しかしながら、豊臣秀頼を授かった二度目の祈祷は、淀殿(茶々)が独自の判断で行ったことであり、豊臣秀吉は関与していなかったといわれています。

その論拠として、豊臣秀吉が、長男の鶴松懐妊の知らせを受けた時は、即日大阪城へ戻ったのに対し、秀頼の時は一週間もの間をあけて戻っています

さらに、鶴松の出生時の祝賀記録は溢れるほどに残っていますが、秀頼の誕生時の祝賀記録は驚くほど少ないです。

加えて、豊臣秀吉は淀殿(茶々)に豊臣秀頼を自分の母乳で育てるように指示しています。
当時の高貴な立場な女性は乳母をつけるのが一般的でした。
なので、自分の母乳で育てるのは地位の低いものとして扱われる屈辱的なことであり、豊臣秀吉による淀殿(茶々)へのお仕置きであったと考えることもできるのです。
このように、長男鶴松の時と豊臣秀頼の時では、豊臣秀吉の対応が大きく異なっていることから、二回目の祈祷は淀殿(茶々)の独自の判断で行われたと考えられているのです。

淀殿(茶々)が秀頼を身篭った後、豊臣秀吉は大阪城に仕えていた陰陽師を追放し、淀殿(茶々)の側近として仕えていた者たちを徹底的に処刑してしまいます。
これは、豊臣秀吉が行った、陰陽師狩りともいわれる陰陽師排斥の政策が始まるきっかけとなっています。

豊臣秀頼の父親は、なぜ秀吉ではないと考えられているのか?

豊臣秀吉 (Wikipediaより)

豊臣秀頼の生物学的な父親がなぜ、豊臣秀吉ではないと考えられているのでしょうか。

【豊臣秀頼の父親が秀吉でないと疑われている理由】

  • 豊臣秀頼と豊臣秀吉は体格が違いすぎたから
  • 豊臣秀頼を身篭った時期に、淀殿(茶々)と豊臣秀吉は離れた地にいたから
  • 豊臣秀頼が誕生した時は、豊臣秀吉は高齢だったから
  • 淀殿(茶々)以外に子供を産んだ女性がいないから

豊臣秀頼と豊臣秀吉は体格が違い過ぎた
豊臣秀頼根の生物学上の父親が豊臣秀吉ではないと考えられている根拠の一つとしてあげられているのが、豊臣秀頼の体格です。

豊臣秀頼は六尺五寸(約195センチメートル)の身長で、体重は四十三貫(約161キログラム)もあった大男とされています。
大相撲の横綱白鳳関とほぼ同じ身長と体重です。
現代の日本社会でも大きいですよね。
室町時代の平均身長は156センチメートルくらいだったので、その大男ぶりは目を見張るものがあったでしょう。

一方で、豊臣秀吉の伸長は140センチメートルほどだったといわれています。
あまりにも体格の違いがあることから、本当に豊臣秀吉の遺伝子が受け継がれているのかを疑問視されてもしかたないかもしれません。
しかしながら、身長の遺伝子は母親の影響が強いこともわかってきています。168センチメートルあったとされる高身長の淀殿(茶々)から生まれた豊臣秀頼ですので、母親の遺伝子の影響で父親はだれであれ大きく育つことができたかもしれません。

・豊臣秀頼を身篭った時期に、淀殿(茶々)と豊臣秀吉は離れた地にいたから
生物学的な父親が豊臣秀吉でないと考えられている二つ目の理由として、豊臣秀頼が授かる時期に豊臣秀吉と淀殿(茶々)が別の場所に滞在していたことがあげられます。
当時、豊臣秀吉は越前国 名護屋城に滞在していましたが、そこに淀殿(茶々)は随行していませんでした。
二人は離れた場所にいたにもかかわらず、淀殿(茶々)が身篭ったのですから、父親は豊臣秀吉ではないとの噂が上がることも納得です。

・豊臣秀頼が誕生した時は、豊臣秀吉は高齢だったから
三つ目の理由は、豊臣秀頼が生まれた時の豊臣秀吉の年齢です。豊臣秀頼誕生時の豊臣秀吉の年齢は57歳でした。
当時ならば老年の域に入っています。
男性なので、高齢でも子供ができないわけではないとは思いますが、若い時よりもできにくくはなっているはずです。

淀殿(茶々)以外に子供を産んだ女性がいないから
最後の理由は、豊臣秀吉のこどもを産んだ女性は、ほ淀殿(茶々)だけであったことです。
豊臣秀吉には正室の寧々殿をはじめとして十人以上もの側室がいたと言われています。
しかし、その中で子供を産んだ記録がはっきりしているのは、淀殿(茶々)が二年おきに出産した二名の男児だけです。

なぜ淀殿(茶々)の間にだけ立て続けに子宝に恵まれたのでしょうか?
豊臣秀吉の方が子供を作れない体であったとの推測も多くあります。
豊臣秀吉との間では子宝に恵まれなかった側室たちも、以前の結婚相手や、側室を離れた後の相手とでは、子供に恵まれたとの記録が多数残っています。

このような理由から、淀殿(茶々)の生んだ豊臣秀頼の生物学上の父親は、豊臣秀吉以外に存在しているのではとの疑惑が付きまとっているわけです。

まとめ:豊臣秀頼の父親はいったい?

豊臣秀頼(Wikipediaより)

豊臣秀頼の生物学上の父親はいったい誰なのでしょうか。さまざまな説が存在していますが、どれも決定的な決め手とはいえないようです。

【今回のまとめ】

  • 豊臣秀頼の父親候補は数多く存在している。(大野治長・石田三成・名古屋山三郎・真田信繁・謎の陰陽師など)
  • 豊臣秀頼は豊臣秀吉の子供ではない可能性が非常に高い。
  • しかしながら決定的な資料はなく、豊臣秀頼の父親は不明

結局、真相は謎のままというわけですね。
疑惑がありつつもわからないからこそ、人々は浪漫を感じ、多くの歴史物語で淀殿(茶々)との切ない恋愛事情が描かれているのかもしれません。

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