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足利尊氏と後醍醐天皇は仲が悪かった?なぜ南北朝の争いは始まったのか?

足利尊氏と後醍醐天皇は仲が悪かった?なぜ南北朝の争いは始まったのか?

鎌倉幕府を倒し、室町幕府初代征夷大将軍となった足利尊氏あしかがたかうじ
足利尊氏が征夷大将軍となり、室町幕府をひらくまでには後醍醐天皇ごだいごてんのうが大きく関わっています。
武士である足利尊氏と後醍醐天皇、立場が違う二人。
なぜ共に鎌倉幕府の倒幕を目指したのか
なぜ、南北朝に別れて争うことになったのか
それは、足利尊氏と後醍醐天皇の、鎌倉幕府を倒幕したい理由が異なっていたからなんです。
今回は、足利尊氏と後醍醐天皇の関係性に注目していきます。

足利尊氏と後醍醐天皇の関係は?仲が悪かったの?

足利尊氏と後醍醐天皇は最初から仲が悪かったわけではないのです。
その証拠に、足利尊氏は北条政権下では「高氏たかうじ」と名乗っていましたが、幕府を討幕した際、後醍醐天皇から「」という字を貰って名前を「尊氏たかうじ」としています。
当初、足利尊氏は後醍醐天皇を尊敬していたことが伺えます。
では、二人の関係がどのように変化していったのでしょうか?

それは、当時の天皇に即位するシステムが大きく関わっています。
鎌倉時代後期の天皇家は、持明院統じみょういんとう大覚寺統だいかくじとうという2つの血統の天皇が交互に即位している分裂状態でした。
この皇位継承に関しては鎌倉幕府の承認が必要とされていたのです。
この流れの中で天皇に即位した、大覚寺統の後醍醐天皇は、

  • 自分の子供を天皇にしたい。
  • さらに幕府ではなく天皇が政治を行う体制にしたい

と考えていました。
一方の足利尊氏は、
父は鎌倉幕府の御家人。
妻・登子の実家は鎌倉幕府の政権を握る北条氏の一門。
鎌倉幕府の中でも上位の武士でした。
つまり、後醍醐天皇からすれば敵である幕府の人間だったのです。
本来は敵同士だった足利尊氏と後醍醐天皇。
そんな二人は、一体なぜ鎌倉幕府の倒幕を目指したのでしょうか?

足利尊氏と後醍醐天皇を結び付けたのは、鎌倉幕府の倒幕だった。

楠木正成VS幕府軍 千早城の戦い(Wikipediaより)

天皇中心で政治を行う体制にしたいと考えていた後醍醐天皇にとって、鎌倉幕府は邪魔な存在でした。
しかし、鎌倉幕府の倒幕を目指しても、天皇は武力を持たないため、武士の力を借りようと考えたのです。

そこで白羽の矢が立ったのが楠木正成です。
軍記物語「太平記」によると、
後醍醐天皇の夢に南向きに大きな木が現れたといいます。
そこから「」と「」で」を表すお告げだと悟り
「楠というものはいるか?」と周りのものに尋ね、楠木正成くすのきまさしげという武将を呼び寄せたとされています。
さすがにこれは創作されたストーリーだと思われますが、
実際に、楠木正成の出自につては現在でもいろいろな説があり後醍醐天皇との出会いは定かではありません

不明な点が多い楠木正成ですが、後醍醐天皇の倒幕の声に呼応し赤坂城(現在の大阪府南河内群)でわずか500人の兵で挙兵したにも関わらず、数十万の幕府軍を翻弄して一次退却へと追いやりました

その時、楠木正成を倒すべく派遣された幕府軍にいたのが、足利尊氏です。

本来ならば幕府のために働かなくてはならない立場だった、足利尊氏。
なぜ足利尊氏は倒幕を目指したのでしょうか?

そこには、当時の幕府の体制が大きく関わっています。

鎌倉幕府(北条氏)は、モンゴルからの侵略(元寇)を防ぐために戦った武士達に対して、恩賞を与えることができませんでした。
褒美をもらえず、困窮する武士が多くいるにもかかわらず、幕府や貴族達は私服を肥やしている状態でした。

この状況に不満を感じていた足利尊氏は、鎌倉幕府を倒幕し、武士を中心とした新たな武家政権を作ることを目指しました

ここで、足利尊氏と後醍醐天皇は、鎌倉幕府の討幕という目的が一致したのです。
また、破竹の勢いで戦う楠木正成を見て、足利尊氏は倒幕の決意をしたとも言われています。

鎌倉幕府の滅亡。足利尊氏はなぜ、後醍醐天皇と対立し始めたのか?

赤坂城の戦いでは楠木正成の善戦むなしく、幕府軍が勝利。
楠木正成は行方をくらまし、後醍醐天皇は倒幕計画の首謀者ということで、隠岐の島へ流されます。
一旦は鎌倉幕府が倒幕運動を鎮圧したかに思えましたが、後醍醐天皇は隠岐の島から抜け出し、再び挙兵しました。
後醍醐天皇の呼びかけにより倒幕の決意をした足利尊氏は、鎌倉幕府を裏切り六波羅探題を攻め、壊滅させたのです。
同時に、足利尊氏と同じ幕府側の人間だった、新田義貞にったよしさだが天皇側に寝返り、幕府の本拠地である鎌倉を攻め落とします

この新田義貞は同じ源氏の流れを組みながらも、鎌倉幕府から足利家よりも冷遇されていたため、幕府への不満を抱えていたと言われています。

このように鎌倉幕府に不満を募らせていた武士達と、幕府を邪魔だと感じていた後醍醐天皇の利害が一致した結果、北条氏は追い詰められ、鎌倉幕府第14代執権の北条高時ほうじょうたかときは、一族・家臣とともに自害し鎌倉幕府は滅亡しました。

この時、後醍醐天皇は49才、足利尊氏30才、楠木正成41才、新田義貞34才でした。
鎌倉幕府を倒幕した後醍醐天皇は、再び権力を持つようになりました。
後醍醐天皇による建武の新政の始まりです。
後醍醐天皇は、

  • 即位していた持明院統の光厳天皇こうごんてんのうの皇位と元号を廃止
  • 御成敗式目で認められていた武士の土地所有権の無効化
  • 訴訟の申請に関しては、天皇の判断で行うなど

の宣言をしたのです。
この建武の新政は、鎌倉幕府倒幕のために戦った武士ではなく、公家を優遇した内容だったため、武士たちの不満は一気に高まります。
その武士達の不満を受け、足利尊氏は挙兵することになったのです。

足利尊氏と後醍醐天皇の対立から始まった「南北朝の争い」

後醍醐天皇は、天皇主権を目指すために、武士達の気持ちをないがしろにしてしまいました。その結果、武士達は不満を募らせました。
その状況を危惧した足利尊氏は、後醍醐天皇に断りなく、武士たちに独自に恩賞を与えたり、更には新田氏の領地を勝手に没収してしまいした。
さらに足利尊氏は、以前から対立していた新田義貞を討つために、後醍醐天皇に討伐の許しを得ようとしました。

しかし後醍醐天皇は、勝手に武士に恩賞を与えていた足利尊氏の要望を聞くはずもなく、新田義貞や楠木正成らに足利尊氏の討伐を命じるのでした。

こうして足利尊氏と後醍醐天皇の溝は深まり、二人は争うことになりました。
足利尊氏の討伐を命じられた、新田義貞や楠木正成は、一時は足利尊氏を西国(現在の九州)まで追いやることに成功します。
しかし、西国で兵力を強化し、勢いをつけた足利尊氏は再度反撃します。
その結果、後醍醐天皇は比叡山に避難、新田義貞・楠正成も湊川の戦いで、足利尊氏に討たれてしまいます。
この湊川の戦いに勝利し、京都へ入った足利尊氏は、持明院統の光明天皇を即位させ、北朝を成立させます。

室町幕府の成立は1336年、足利尊氏が持明院統の光明天皇こうみょうてんのうを即位させ、新たな武家政権の方針が発表された時とされています。

一方、足利尊氏に敗れ比叡山にこもっていた後醍醐天皇は、観念して三種の神器を光明天皇に献上し、花山院かざんいん(現在の京都御苑敷地内)に幽閉されることとなります。
しかし後醍醐天皇は、幽閉先の花山院から吉野(奈良県)に脱出し、吉野朝廷(南朝)を成立させます。
さらには、「実は光明天皇に渡した神器は偽物であり、自分が正式な天皇である」と表明したのです。

こうして、京都の朝廷(北朝)吉野朝廷(南朝)が対立する、南北朝時代が始まりました。この南北朝の争いは、その後 約60年間に渡って続きました。

しながら有力な戦力だった、楠木正成や新田義貞を失った南朝は劣勢で、北朝優勢のまま足利尊氏は1338年に征夷大将軍に就任。

その翌年、後醍醐天皇が吉野で崩御しました。
この崩御に際して、足利尊氏は後醍醐天皇を弔うために、大覚寺統の離宮だった亀山殿を寺に改め、天龍寺てんりゅうじとしました。

敵対関係となっていた後醍醐天皇を弔うために、寺の建立を勧めたのは武家から支持を受けていた夢窓疎石むそうそせきという僧侶だったといわれています。
この夢窓疎石は、後醍醐天皇によって才能を見いだされ、足利尊氏からも尊敬されていたそうです。

まとめ:足利尊氏と後醍醐天皇は、それぞれ倒幕の目的がすれ違っていた。

このように、足利尊氏は武士を主体とした政権の樹立、後醍醐天皇は天皇を主体とした政権の樹立を目的として、共に鎌倉幕府の倒幕を目指しました。
それぞれの倒幕の目的が異なっていたため、足利尊氏と後醍醐天皇は、最終的に敵対関係になってしまったのです。
今回の内容を簡単にまとめると、

  • 足利尊氏と後醍醐天皇は仲が悪かったわけではない
  • 足利尊氏は後醍醐天皇から「尊」という名前をもらうほどの関係だった
  • 足利尊氏と後醍醐天皇は、鎌倉幕府倒幕の目的が異なっていたため、南北朝に別れて争うことになった
  • 足利尊氏は、後醍醐天皇を弔うために天龍寺を建立した

改めて振り返ってみても当時の武将や天皇の年齢の若さに驚かされます。
現代社会で言えばまだまだ若いとされる年齢です。
それだけこの時代の厳しさを物語っていますね。
その一方で、冷遇されて不満を募らせたり、自分が主導権を持ちたいという気持ちは現代人でも十分理解できることではないでしょうか。
いつの時代も人間の気持ちは変わらないものなんですね。

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