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藤原頼通の父は藤原道長。関係は?摂関政治で活躍した?エピソードを簡単に解説!

藤原頼通(992(正暦3)〜1074(延久6)は、平安時代中期から後期にかけて活躍した公卿です。

藤原道長を父に持ち、その跡を継いで、若くして摂政に就いたり、関白を50年以上も務めたりしました。

2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、渡邊圭祐さんが演じられることでも話題となっています。

そんな藤原頼通は、藤原道長とどのような関係を築いていたのでしょうか?

この記事では、藤原頼通と父・藤原道長の関係について簡単に解説していきます。

藤原頼通の家系図を簡単に解説

藤原頼道の家系図

藤原頼通の父は藤原道長。基本的に仲は悪くなかった

藤原頼通と藤原道長の関係は親子関係です。

藤原頼通は、藤原道長の長男となります。

圧倒的な権力を持つ父親の影響もあり、藤原頼通は異例のスピード出世をしました。

2人の仲は、基本的に悪くはなかったようです。

藤原頼通は父に表立って逆らうことはなく、摂政・関白になった後も、大事なことは相談するようにしていました。

父親の敷いたレールの上を歩くことを嫌がらず、父親が亡き後も藤原氏の立場を保つべく行動しています。

藤原頼通と藤原道長で摂関政治の最盛期を築いた

藤原氏は代々、娘を入内させて天皇の外戚になることによって、摂政や関白の役職に就き、権力を握ってきました。

藤原頼通の父・藤原道長は、この手法を最大限に利用し、3人の娘を入内させ摂関政治の最盛期を築いたのです。

しかし、藤原道長は、実は摂政になったのは1年ほどのみで、関白にはなってすらいません。

それはなぜかというと、摂政や関白になってしまうと貴族の重要な会議に参加できなくなってしまうからです。

そのため、藤原道長は内覧(関白に準ずる役職)になり、天皇を補佐しつつ、左大臣として会議の主導権も握っていました。

その期間、実際の摂政や関白になっていたのが、藤原頼通です。

藤原頼通が父から摂政の座を譲り受けたのは、26歳のときで、史上最年少摂政となりました。

その後も、藤原頼通は3代にわたる天皇の在位期間において、52年間も関白の座を独占していきます。

このように、藤原頼通と藤原道長は、親子で摂関政治の最盛期を築いていったのです。

藤原頼通は妻に関してだけは藤原道長に逆らった

藤原頼通は、父親の藤原道長には基本的には逆らうことはありませんでした。

しかし、妻のことに関してだけは逆らったことがあります。

藤原頼通は、17歳のときに隆姫女王という皇族の姫君と結婚しました。

政略結婚の面が強いながらも、2人の仲は非常に良かったと言われています。

皇族からの嫁ということで、これには藤原道長も

「男(おのこ)は妻(め)がらなり」

(男の価値は妻の家柄によって定まる)

と言って、大喜びしていたそうです。

しかし、2人の間にはなかなか子供ができませんでした。

そんなある日、藤原頼通に三条天皇から二の宮を降嫁させたいという話が届きます。

摂関政治を続けていくためには、娘を入内させることが重要となりますから、子供は必須です。さらに、天皇の娘ともなれば、より天皇との結びつきを強化できます。

藤原道長は、こんないい話はないぞと、この話を進めようとしました。

しかし、藤原頼通はこの話を断ろうとします。

なぜかというと、

隆姫女王の立場を案じたからです。

皇族で女王というと、おおむね「天皇にならなかった親王の娘」です。

そのため、もし三条天皇の娘が降嫁した場合、隆姫女王は正室であるにもかかわらず格下となってしまいます。

子供に恵まれない上に、格下であるにも関わらず、正室で居続けることが、女性としてどれだけ辛い立場となることでしょうか。

藤原頼通はそのことがわかっていたので、降嫁の話をよしとしなかったのです。

それでも藤原道長はこの話を進めようとしたところ、

藤原頼通は原因不明の病に倒れ、生死の境を彷徨いました。

病を治すためにお祈りをしてみると、隆姫女王の父親である具平親王の怨霊が現れたため、藤原道長は仕方なく降嫁の話を諦めたのです。

当時は、「病気=怨霊の祟りか神仏の罰」という価値観でしたから、さすがの藤原道長も引かざるを得ませんでした。

こうして、降嫁の話がなくなると、藤原頼通も病が治ります。

基本的に父親に逆らわなかった藤原頼通が、妻の身を案じて逆らったということは、いかに妻のことを愛していたのかが伺えますね。

藤原頼通は藤原道長のせいで後任を自分の子ではなく弟に譲った

藤原頼通は、関白辞任にあたり、自分の子である師実を後任にしようと考えていました。

しかし、藤原道長が生前に、藤原頼通の次は弟の藤原教通を摂関にするようにと定めていたため、姉の藤原彰子が父の遺命に従い、師実の関白就任を許さなかったのです。

藤原道長の遺命によると、

藤原教通の摂関は彼一代限りで、その後は藤原頼通の子に摂関を伝えることとされていましたので、藤原頼通も藤原教通にそのことを確約させたうえで、藤原教通の関白就任に同意しました。

しかし、藤原教通は関白になると、やはり同じように自分の子に後任を譲りたいと考えるようになるのです。

そのせいで、藤原頼通は自分の子が関白になるのを見届けることができないまま、この世を去りました。

藤原教通は師実を失脚させることができなかったため、結局藤原教通が亡くなった後の後任は師実が就くことになるのです。

しかし、すでに亡くなっていた藤原頼通はそのことを知らないわけですから、非常に無念のまま亡くなっていったのでしょうね。

藤原頼通は平等院鳳凰堂を造るのに藤原道長の法成寺を参考にした

藤原頼通の功績の1つとして、平等院鳳凰堂を建てたことが挙げられます。

この平等院鳳凰堂は、実は藤原道長の法成寺を参考に作られたと言われています。

法成寺は、

病気で苦しんでいた藤原道長が、自宅の東隣に無量寿院という阿弥陀堂や金堂などの華やかな建物を建てて、極楽浄土のような場所をイメージして作りました。

藤原頼通が平等院鳳凰堂を作ろうと考えたのは、「末法思想」に不安がっている民衆の心に極楽浄土をイメージしやすくし、社会不安を払拭しようとしたからです。

そこで、極楽浄土のイメージの参考として、法成寺が選ばれました。

藤原頼通は父親の描く極楽浄土が、そのイメージとしてぴったりだと考えたのかもしれませんね。

藤原頼通に関するQ&A

藤原頼通に関するQ&Aを簡単に解説していきます。

  • 藤原頼通は何をした人?
  • 藤原氏の摂関政治はなぜ衰退していった?

藤原頼通は何をした人?

藤原頼通の功績は主に2つあります。

・摂関政治の全盛期を担った

藤原頼通は、父である藤原道長の影響もあり異例のスピード出世をしていきます。

12歳で正五位下、15歳で従三位、22歳で権大納言に昇進し、26歳ではついに摂政となるのです。

これは摂政の中で、史上最年少記録となりました。

その後、藤原頼通は、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の三代に渡る天皇の在位において、52年間も関白の座を独占します。

若い時期からその生涯権力と向き合ってきた、これが藤原頼通の功績の1つと言えるでしょう。

・平等院鳳凰堂を建てた

1052年に宇治に平等院鳳凰堂を建てます。

1052年は、「末法の世」の始まりだとされていました。(末法思想)

そのせいで社会全体に不安が広まっていたのですが、それを払拭するために極楽浄土のような場所を作ろうとしたのです。

藤原氏の摂関政治はなぜ衰退していった?

藤原道長・藤原頼通と摂関政治の全盛期を誇っていたのですが、その後徐々に衰退していきます。

その理由として挙げられるのは、藤原頼通が外戚計画に失敗したことです。

藤原頼通も藤原道長同様、天皇の外戚であり続けるために、一人娘の藤原寛子を後冷泉天皇に嫁がせます。

しかし、期待していた男児は生まれなかったのです。

このため、外戚の立場でいられなくなり、自分が影響力を及ぼすことができる天皇がいなくなってしまいました。

さらに、追い打ちをかけるかのように、次に天皇になった後三条天皇は、長年藤原頼通と対立してきた人物でした。

そのため、藤原氏の権力を抑え、政治の実権を天皇に取り戻そうと動いたのです。

天皇になる孫ができなかったこと、対立する立場の人物が天皇になってしまったこと、これらが藤原氏の摂関政治が衰退していった原因と言えるでしょう。

まとめ:藤原頼通と藤原道長は親子で、摂関政治の最盛期を築いた

藤原頼通と藤原道長は親子です。そして、藤原道長が準備した摂関政治の基盤を糧に、2人で摂関政治の最盛期を築き上げました。

今回の内容をまとめると、

  • 藤原頼通と藤原道長は親子関係
  • 藤原頼通と父の藤原道長は基本的に仲は悪くなく、2人で摂関政治の最盛期を築き上げた
  • 藤原頼通は妻のことに関してだけは父である藤原道長に逆らった

藤原頼通が藤原道長に逆らわずに降嫁の話を受けていたら、もう少し長く摂関政治を続けることができたかもしれません。しかし、そうしなかったところに、藤原頼通の妻への愛の大きさを感じますね。

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