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藤原頼通は平等院鳳凰堂をなぜ建てた?極楽浄土を作ろうとした?特徴は?

藤原頼通(992(正暦3)〜1074(延久6)は、平安時代中期から後期にかけて活躍した公卿です。

藤原道長を父に持ち、その跡を継いで、若くして摂政に就いたり、関白を50年以上も務めたりしました。

2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、渡邊圭祐さんが演じられることでも話題となっています。

そんな藤原頼通は、平等院鳳凰堂を建てたことでも知られています。

藤原頼通は、なぜ平等院鳳凰堂を建てたのでしょうか?

この記事では、藤原頼通が平等院鳳凰堂を建てた理由やその特徴などを簡単に解説していきます。

藤原頼通が平等院鳳凰堂を建てた理由は、極楽浄土を心に描きやすくするため

藤原頼通が平等院鳳凰堂を建てた理由は、極楽浄土を心に描きやすくするためだと言われてます。

藤原頼通が平等院鳳凰堂を建てた頃は、世の中では「末法思想」が広まっていました。

末法思想とは、釈迦が死んでから2000年後は、釈迦の教えが衰えて世の中が乱れる「末法の世」が始まるという考えです。

そのせいで、人々は不安な気持ちを抱えていたのですが、そこで現れたのが源信という僧でした。

源信は、『往生要集』を書き、浄土教の修行をすれば、西方の極楽浄土で往生(生まれ変わる)ことができると説きました。

そして、その修業には、ひたすら念仏を唱えることと、極楽浄土の様子や阿弥陀如来の姿を心に描くことを勧めました。

すると、浄土教はあっという間に貴族の間に広まり、極楽浄土や阿弥陀如来の姿を、目で見て心に描きやすくなるような建物・絵・彫刻などが盛んに作られるようになったのです。

藤原頼通もこのように、心に極楽浄土を描きやすくするために、平等院鳳凰堂を作ったとされています。

権力者として、社会全体を覆っていた不安を払拭しようとしたのでしょう。

藤原頼通の平等院鳳凰堂の特徴

平等院鳳凰堂は、元々父・藤原道長の別荘であった場所を寺院に改修したものです。

最も特徴的なのは、池に浮かぶように中堂が建ち、それぞれ北翼廊、南翼廊があり、中堂の背後に接続して尾廊が建つ4棟からなる造りです。

この鳳凰堂の前には、池を配した庭園がありますが、創建当時は宇治川や対岸の山並みを取り入れて、西方極楽浄土を表していました。

鳳凰堂の内部には、金色の阿弥陀如来坐像に加え、日本最古の大和絵『九品来迎図』が壁扉画として描かれています。

阿弥陀如来坐像は、平安時代中期に活躍した仏師・定朝による作品です。

数多くの仏像を作ったと言われている定朝でしたが、ほとんどの作品が失われており、確証を持って定朝作と言えるのは、この阿弥陀如来坐像だけとなっています

「鳳凰堂」と呼ばれるようになったのは江戸時代からだった

実は、平等院鳳凰堂は、創建当時は「阿弥陀堂」や「御堂」と呼ばれていました。

「鳳凰堂」と呼ばれるようになったのは江戸時代からと言われています。

その理由としてはいくつかあり、

  • 江戸時代初期に、鳳凰堂内の須弥壇(本尊を安置する台座)に「平等院鳳凰堂」と刻まれていたから
  • 鳳凰堂を正面から見た姿が、まるで翼を広げた鳥のように見えたことから
  • 屋根上に1対の鳳凰が据えられていることから

以上のことが挙げられています。

平等院鳳凰堂は藤原氏にとって重要な寺院となった

平等院鳳凰堂は、藤原頼通が亡くなった後も藤原氏にとって重要な寺院として扱われました。

「御堂流摂関家」(藤原道長から派生した藤原氏一族)の正統性を示すための「宇治入り」を実施するようになったのです。

宇治入りとは、藤原氏当主が平等院を参詣して、就任の報告や御礼をすると共に、歴代当主が平等院に納めた宝物などを確認する儀式です。

就任儀礼のひとつとして、宇治入りは鎌倉時代まで行われることとなりました。

藤原頼通の平等院鳳凰堂は、10円玉のデザインに採用され、世界遺産にも登録されている

藤原頼通の平等院鳳凰堂は、10円玉のデザインに採用されていたり、世界遺産にも登録されています。

10円玉のデザインになったのは、1953年からのことで、見たことがあるという人も多いのではないでしょうか?

選ばれた理由としては、「日本の代表的な文化財で、建物に特徴があるから」ということです。

また、世界遺産に登録されたのは、1994年のことです。

平等院鳳凰堂が世界遺産に登録された理由は、大きく分けて2つあります。

  • 特徴的な寺院建築・造園
  • 貴重な作品が数多く残っている

当時の極楽浄土に関わる建物・作品などは世界的に見ても非常に貴重なもので、厳重に保存を行い、後世に語り継がれるべきだと考えられたのでしょう。

このようなことから、平等院鳳凰堂は、世界に誇る日本を代表する寺院と言っても過言ではないですね。

藤原頼通に関するQ&A

藤原頼通に関するQ&Aを簡単に解説していきます。

  • 藤原頼通は何をした人?
  • 藤原頼通と藤原道長の関係は?
  • 藤原氏の摂関政治はなぜ衰退していった?

藤原頼通は何をした人?

藤原頼通の功績は主に2つあります。

・摂関政治の全盛期を担った

藤原頼通は、父である藤原道長の影響もあり異例のスピード出世をしていきます。

12歳で正五位下、15歳で従三位、22歳で権大納言に昇進し、26歳ではついに摂政となるのです。

これは摂政の中で、史上最年少記録となりました。

その後、藤原頼通は、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の三代に渡る天皇の在位において、52年間も関白の座を独占します。

若い時期からその生涯権力と向き合ってきた、これが藤原頼通の功績の1つと言えるでしょう。

・平等院鳳凰堂を建てた

1052年に宇治に平等院鳳凰堂を建てます。

1052年は、「末法の世」の始まりだとされていました。(末法思想)

そのせいで社会全体に不安が広まっていたのですが、それを払拭するために極楽浄土のような場所を作ろうとしたのです。

藤原頼通と藤原道長の関係は?

藤原頼通と藤原道長の関係は親子関係です。

藤原頼通は、藤原道長の長男となります。

圧倒的な権力を持つ父親の影響もあり、藤原頼通は異例のスピード出世をしました。

2人の仲は、基本的に悪くはなかったようです。

藤原頼通は父に表立って逆らうことはなく、摂政・関白になった後も、大事なことは相談するようにしていました。

父親の敷いたレールの上を歩くことを嫌がらず、父親が亡き後も藤原氏の立場を保つべく行動しています。

藤原氏の摂関政治はなぜ衰退していった?

藤原道長・藤原頼通と摂関政治の全盛期を誇っていたのですが、その後徐々に衰退していきます。

その理由として挙げられるのは、藤原頼通が外戚計画に失敗したことです。

藤原頼通も藤原道長同様、天皇の外戚であり続けるために、一人娘の藤原寛子を後冷泉天皇に嫁がせます。

しかし、期待していた男児は生まれなかったのです。

このため、外戚の立場でいられなくなり、自分が影響力を及ぼすことができる天皇がいなくなってしまいました。

さらに、追い打ちをかけるかのように、次に天皇になった後三条天皇は、長年にわたって藤原頼通と対立してきた人物でした。

そのため、藤原氏の権力を抑え、政治の実権を天皇に取り戻そうと動いたのです。

天皇になる孫ができなかったこと、対立する立場の人物が天皇になってしまったこと、これらが藤原氏の摂関政治が衰退していった原因と言えるでしょう。

まとめ:藤原頼通は極楽浄土を心に描きやすくするために平等院鳳凰堂を作った

藤原頼通が権力者であった当時、世の中には末法思想が広まっていました。その不安を払拭するために、藤原頼通は平等院鳳凰堂を作ったのでした。

今回の内容をまとめると、

  • 藤原頼通が平等院鳳凰堂を建てた時代は、当時末法思想が広まっており、世の中は不安でいっぱいだった
  • 藤原頼通は、それを払拭するために極楽浄土のような平等院鳳凰堂を作った
  • 藤原頼通が建てた平等院鳳凰堂は、10円玉のデザインや世界遺産にも登録されている

平等院鳳凰堂は、現在でも年間約150万人もの観光客が訪れる名所として知られています。当時の人々がイメージする「極楽浄土」がどのようなものなのかを感じるために、訪れてみるといいかもしれませんね。

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