平安時代の遊び一覧!貴族と庶民では遊びが違う?現代に繋がる遊びもある?
平安時代(794(延暦13)〜12世紀末)は、桓武天皇が平安京に都を移してから、鎌倉幕府が成立するまでの約390年間のことです。
古代の末期とも、中世の萌芽期とも言われており、古代から中世の過渡期になる大事な時代に当たります。
そんな時代の遊びにはどのようなものがあったのでしょうか?
平安時代の遊びの中には、現代にも残っているものもあるのです。
この記事では、平安時代の遊びについて簡単に解説していきます。
目次
平安時代の遊び|貴族編
平安時代の遊びは、貴族と庶民で遊びの種類が異なっていました。
それでは、平安時代の貴族の遊びにはどのようなものがあったのでしょうか?
ここでは、平安時代の貴族の遊びについて簡単に解説していきます。
平安時代の貴族の遊び|蹴鞠
蹴鞠は、文字の通り鞠を蹴る遊びです。現在のサッカーのリフティングを、複数人でやるようなイメージですね。
しかし、サッカーのように勝敗をつけることが目的ではありませんでした。
蹴鞠の目的は、相手を打ち負かすことではなく、相手が蹴りやすいように心がけて、次の人へとパスしていくことにあります。
ここで、相手が受け渡しに失敗してしまった場合、そのパスを出した人物が悪かったとされるのです。
また、足を高く上げて、足の裏を相手に見せるような蹴り方は、品がない行為とされていました。
いかに優雅に、相手が受け取りやすいパスを出すかが重要なポイントだったのです。
そして、貴族は、この蹴鞠を通して、仕事上の付き合いを深めたり、新しい人と知り合ったりしていたようですね。
平安時代の貴族の遊び|打毬(だぎゅう)
打毬は、中央アジアから中国を経て伝わった集団球技です。
騎馬打毬と徒歩打毬があります。
騎馬打毬は、現代のポロという競技に似ており、徒歩打毬は、現代のホッケーに似ています。ルールとしては2チームに分かれて、それぞれの毬門(きゅうもん)というゴールに、毬杖(さで)という網付きの竿で、規定の数を先に入れ終わった方が勝ちというものです。騎馬打毬と徒歩打毬の違いは、馬に乗って行うか、乗らずに行うかという点です。
騎馬打毬は、今日でも宮内庁主馬班が伝統を守っています。
平安時代の貴族の遊び|小弓(こゆみ)
小弓は、現在で言う射的あそびのようなものです。
小さな弓矢でぶら下げた的を射ります。また、さらに小型の子供の遊戯である「雀小弓」というものもありました。
平安時代の貴族の遊び|貝合わせ
貝合わせは、並べたいくつかの貝殻の中から、一対の貝を発見するという遊びです。現在で言うトランプの神経衰弱のような遊びですね。
主に貴族の女性の間で流行っていました。
貝の内側には、蒔絵技法を使用した絵が描かれていました。
そして、紫式部が『源氏物語』を書いて以降は、貝合わせの題材として『源氏物語絵巻』が描かれ、大人気となりました。中には、現在まで残っているものもあり、重要文化財として博物館などに飾られています。
平安時代の貴族の遊び|洲浜づくり
洲浜づくりは、現在で言うジオラマ作りのようなものです。
洲浜と呼ばれる砂浜と自然の風景を、台やお盆の上に再現して遊んでいました。
元々は贈り物として作られていた芸術作品でしたが、次第に趣味として嗜む人が増えていきました。
そして、これが後の枯山水や盆景、盆栽へと発展していったと言われています。
平安時代の遊び|庶民編
先程もお伝えしたように、平安時代の貴族と庶民では、遊びの種類が異なっていました。
それでは、庶民はどのような遊びをしていたのでしょうか?
ここでは、平安時代の庶民の遊びについて簡単に解説していきます。
平安時代の庶民の遊び|竹馬
竹馬と言われると、現代でもあるような竹に乗って遊ぶものを想像する人もいるのではないでしょうか?
しかし、平安時代の竹馬は違います。
ここでの竹馬は、笹竹の枝にまたがって騎馬ごっこをするというものです。
子供の代表的な遊びとして、様々な絵巻物に描かれています。
平安時代の庶民の遊び|毬打(ぎっちょう)
毬打は、貴族のところでお伝えした打毬が形を変えたもので、庶民の間でも流行していました。
長い柄のついた槌で玉を打つ遊びだったのですが、現代で言うところのゲートボールのようなものだったようです。
これは、『鳥獣人物戯画』にも登場し、庶民の正月の楽しみの1つとして定番となっていました。
また、庶民に広まったことにより、賭博として利用されていたこともあったようです。
平安時代の庶民の遊び|雛遊び
雛遊びは、現代のひな祭りの人形飾りに通じる人形を使った遊びで、いわゆる「おままごと」のような遊びでした。貴族の娘たちの間で流行しました。
これは、元々雛流しと呼ばれる儀式が遊びへと発展したものとなります。
雛流しは、人形に自身のケガレなどを移して、それを身代わりとして川や海に流す儀式のことです。
このように、人形を自分自身と見立てていたことから、貴族の娘たちは、自分の思い描く将来の結婚生活や仕事での成功を想像しながら、人形を操って遊んでいました。
雛遊びは、3月3日の桃の節句に遊ぶことが習慣となっていき、それが雛人形を飾る由来となっています。
平安時代の遊びで現代にも続くものがある?
平安時代の遊びの中には、現代の遊びの元になったものや、そのまま続いているものがあります。
それはどのような遊びでしょうか?
ここでは、平安時代から現代まで続く遊びについて簡単に解説していきます。
石投(いしなご)
石投は、現代で言う「お手玉」のような遊びです。
石を数個下に置き、1つを高く放り上げて、それが落ちてこないうちに別の置いた石を拾って、その上で落下してきた石を受けるというものでした。
庶民の間ではかなりポピュラーな遊びであったようです。
独楽
独楽は、今でもお正月や子供の楽しみとして残っている遊びですね。中国で生まれ、朝鮮半島を経て伝わったとされており、その時の朝鮮半島の国が「高麗」であったことから、「こま」と呼ばれるようになったと言われています。
紙鳶(しえん)のぼり
紙鳶のぼりは、中国から輸入されて現代まで残っている遊びの1つです。
こちらも独楽同様正月の定番の遊びである、「凧揚げ」のルーツとなっています。
紙鳶のぼり自体は、元々合戦時に指令を送る合図として使われていたのですが、これが中国の王族や貴族の間で大流行しました。そして、日本に輸入された当初は、貴族の間だけで遊ばれていたのですが、次第に武士が真似るようになっていき、江戸時代にまでなると庶民からも親しまれるような大流行へと発展していったようです。
囲碁
今でも遊びとしても競技としても存在している囲碁は、なんと平安時代の前、奈良時代に中国から輸入されました。正倉院御物の中にも、碁盤と碁石が残っています。
紫式部の『源氏物語』の中でも、囲碁を楽しむ姫君の姿が描かれていました。
隠恋慕
子供の頃に「かくれんぼ」をやったことがあるという人は多いのではないでしょうか?
実は、これも平安時代にルーツがあると言われています。
かくれんぼは、元々大人の遊びでした。起源は、中国の唐時代に、入り組んだ宮廷の中で行われていた「迷蔵」という大人の娯楽です。
これが、平安時代初期に伝わり、当初は山に女性が隠れ、それを恋人が探しに行き、男女の愛情を証明する「隠恋慕」という儀式のようなものでした。
この際、広大な山を使っていたせいで、そのまま遭難してしまっていた人もいたようです。
現代のように、子どもたちの遊びとして全国に広まったのは、江戸時代になってからのことだと言われています。
平安時代の貴族の遊びは社交の場だった?
貴族の娯楽の一部には、「和歌」や「管弦」などを楽しむというものもありました。
しかし、これらは、単なる娯楽という一面よりも、「自分の価値を高める教養の1つ」という側面が強いものでした。
宮中の儀礼や年中行事で、歌会や楽器演奏が行われることが多かったため、人を楽しませる技能に長けた人は、できる風流人として重んじられていたのです。
つまり、和歌や管弦を楽しむという遊びは、自身の教養の高さをアピールする場でもありました。
いわゆる社交の場であり、現代で言うところの接待ゴルフのようなものだったというわけです。
これは、貴族たちにとっては、かなりプレッシャーのかかるイベントであったと言えるでしょう。
遊びが仕事の成果や出世に直結していたと考えると、貴族も楽ではありませんね。
まとめ:平安時代の遊びは現代に繋がるものが多数あり、貴族にとっては社交の場でするものだった
平安時代から始まった遊びの中には、現代の遊びに繋がるものがたくさんありました。さらに、貴族にとっては遊びが仕事の成果や出世に直結するなど、社交の場でもありました。
今回の内容をまとめると、
- 平安時代の遊びは、貴族と庶民で種類が異なっていた
- 平安時代の貴族の遊びが、庶民へと広がっていったものもある
- 平安時代の遊びには、現代の遊びに繋がるものも多数ある
- 平安時代の遊びは、貴族にとっては遊びは社交の場でもあった
独楽や囲碁など、日本の昔ながらの遊びというものが、平安時代から続いていると思うと、本当に長い歴史を持った遊びなのだなと驚かされますね。