平安時代の文化一覧!3つの時期に分かれていた?特徴は?有名な作品や建築は?
平安時代(794(延暦13)〜12世紀末)は、桓武天皇が平安京に都を移してから、鎌倉幕府が成立するまでの約390年間のことです。
古代の末期とも、中世の萌芽期とも言われており、古代から中世の過渡期になる大事な時代に当たります。
そんな平安時代の文化は、どのようなものだったのでしょうか?
この記事では、平安時代の文化について簡単に解説していきます。
目次
平安時代の文化は3つの時期に分かれていた?
平安時代は約390年間続いたわけですが、文化的な側面から見ると、実は3つの区分に分けることができるのです。
ここでは、平安時代の文化にどのようなものがあったのかを簡単に解説していきます。
平安時代の文化はどのように分かれていた?
平安時代の文化は大きく3つに分けることができます。
- 平安時代前期(9世紀頃):弘仁・貞観文化
- 平安時代中期(10〜11世紀頃):国風文化
- 平安時代末期(11世紀後半〜12世紀末頃):院政期の文化
前期では遣唐使などの影響で、大陸の文化の影響を強く受けた文化となっていました。
しかし、中期以降は、遣唐使が廃止されたことなどにより、日本独自の文化が発展していくこととなったのです。
日本独自の文化が花開いたことで、数々の文学作品や仏像などの芸術品・工芸品が生まれ、今日まで残されています。
平安時代前期(9世紀頃):弘仁・貞観文化とは?
平安時代前期の文化は弘仁・貞観文化と言います。
「弘仁(810〜824)」「貞観(859〜877)」の元号が使用されていた際の文化なので、そのような名前になっています。
それでは、弘仁・貞観文化とはどのような文化だったのでしょうか?ここでは、弘仁・貞観文化について簡単に解説していきます。
弘仁・貞観文化の特徴は?
弘仁・貞観文化の特徴は、遣唐使などによって大陸の文化の影響を強く受けているというところです。宮廷の儀式や建物の名称など、様々なものが「唐風」に改められるなどの変化がありました。
文化の中心は貴族たちで、「文芸」(ここで言う文芸とは、漢詩文のこと)が重んじられる文化となっていました。
漢詩文は文章(もんじょう)と呼ばれ、文章を作成することは「経国の大業」(国を治めるための重要な事業)と考えられていたほどでした。
また、宗教では、天台宗や真言宗といったような「密教」が誕生しました。
弘仁・貞観文化に影響を与えたのは2つの密教?
弘仁・貞観文化に大きく影響を与えたのが、「天台宗」と「真言宗」の2つの密教です。
密教というのは、加持祈祷や山岳修行など厳しい修行を行うことを考えに持っている宗派となっています。秘密の呪文を唱えることで「現世利益」が得られると考えられていました。
この教えが当時の貴族に大変受け入れられ、天皇にまで支持されていきます。
そうして流行していった結果、当時の文化に大きく影響を与えたというわけですね。
この2つの密教について簡単にご紹介します。
・天台宗
天台宗を開いたのは、最澄という人物です。
最澄は、遣唐使に従って入唐し、法華経を中心とする天台の教えを受けて帰国し、天台宗を開きました。本山は、比叡山延暦寺です。
最澄の死後は、弟子の円仁と円珍によって本格的な密教が取り入れられることになるのですが、考え方の違いによって対立することになってしまいました。
ちなみに、円仁の門流は「山門派」、円珍の門流は「寺門派」と呼ばれていました。
・真言宗
真言宗を開いたのは、空海という人物です。
空海も最澄と同じ年に入唐し、密教を学んで2年後に帰国。そして、真言宗を開きました。本山は、高野山金剛峯寺です。
また、空海は嵯峨天皇から平安京内の官寺を授けられ、真言宗の道場にします。
これが、現在の教王護国寺(または東寺)です。
そのため、真言宗は平安京で広まっていきました。
ちなみに、空海は優れた能書家「三筆」としても有名な人物です。三筆は、他には、嵯峨天皇と橘逸勢がいます。
弘仁・貞観文化の有名な作品や建築は?
【書道・文学作品】
唐風の書である「唐様(からよう)」が広まり、漢文学も重要視されました。
- 風信帖:空海が最澄に宛てた手紙
- 凌雲集:日本初の勅撰漢詩文集
- 文華秀麗集:勅撰漢詩文集
- 経国集:勅撰漢詩文集
- 文鏡秘府論:空海による漢詩文作成についての評論
- 性霊集:空海による漢詩集
【絵画】
密教で用いられていた「曼荼羅」が密教絵画の代表となっています。曼荼羅とは、仏の悟りである宇宙の理を絵に表現したものです。また、密教では、大日如来を本尊として信仰していたため、大日如来の使者である「不動明王」も描かれていました。
- 園城寺不動明王像(黄不動)
- 神護寺両界曼荼羅
- 教王護国寺両界曼荼羅
【彫刻】
密教が流行った影響により、仏像などの彫刻も盛んになりました。
多くのものは、頭部と胴体を1本の木から彫る「一木造」で作られていました。そして、衣服のシワ(衣紋(えもん))には、「翻波式(ほんぱしき)」と呼ばれる彫られ方が用いられており、豊満で神秘的な雰囲気が特徴となっています。
- 元興寺薬師如来像
- 神護寺金堂薬師如来像
- 観心寺如意輪観音像
- 室生寺金堂釈迦如来像
- 室生寺弥勒堂釈迦如来坐像
【建築】
奈良仏教と異なり、密教は比叡山や高野山といったように山岳仏教が多かったため、寺院自体も地形に合わせた「伽藍配置」の形式を取りました。それが、弘仁・貞観文化の建築の特徴となっていきました。
- 室生寺金堂
- 室生寺五重塔
平安時代中期(10〜11世紀頃):国風文化とは?
平安時代中期の文化は、国風文化と言います。
遣唐使が廃止され、日本独自の文化が重要視されていく中、形成されていった文化です。
国風文化はどのような文化だったのでしょうか?
ここでは、国風文化について簡単に解説していきます。
国風文化の特徴は?
8世紀の後半になると、急激に唐が衰退し始めます。そして、朝鮮半島など周辺地域で反乱が勃発し、遣唐使の派遣に危険が伴うようになりました。
そこで、菅原道真が遣唐使を廃止することを進言。そして、そのまま遣唐使が廃止され、唐の文化が入ってきにくくなっていきます。
この頃には、国内でも日本本来の文化を重要視していこうという動きがあり、遣唐使廃止によってそれがさらに加速していきました。
こうして出来上がったのが国風文化です。
国風文化は、唐文化を消化・吸収した上で、元々の日本的な文化と融合した、日本独自の文化だと言えます。
日本人的な感性や美意識は、現在にまで通じるものがあり、生活様式や美術・芸術の面でも、日本独自を追求する意識の変化が見られるようになりました。
国風文化では仏教が一般人にも広まった?末法思想も?
平安時代前期の密教は、主に貴族が信仰しており、仏僧も朝廷に奉仕する官僚であったため、一般人たちにはあまり馴染みがないものでした。
しかし、平安時代中期になると、災害や治安の乱れに悩む一般人を救うために、朝廷の許可を得ずに僧になり、個人的に布教活動を行う「私度僧(しどそう)」という人たちが現れるようになってきます。有名なところだと、空也や源信といった僧がいます。
私度僧は、
「阿弥陀仏を信仰すれば、来世で極楽浄土に生まれ変われる」
と人々に説き、多くの信者を集めました。
また、当時は「末法思想」という考えが流行していました。
末法思想とは、釈迦が亡くなってから2000年が経過すると、世界に釈迦の教えを受け継ぐものが誰もいない末法という暗黒世界に入るという仏教の世界観のことを指します。
そのため、一般人だけではなく、多くの貴族たちも阿弥陀堂を建立し、阿弥陀如来に救いを求めました。
その結果、建築や絵画などにも、この仏教の影響が大きく出ているものが多くなっていったようです。
国風文化の有名な作品や建築は?
【文学作品】
国風文化を最も象徴するといっても過言ではないものが「仮名」の発達でした。
当時、漢字のことを「真名」と呼んでおり、それに対して、漢字の一部を省略したり、形を崩したりして新たに作った文字のことを「仮名」と呼んでいました。
この仮名の普及によって、漢文では表現できなかった細やかな感情を日本の言葉で伝えられるようになったため、文学が非常に盛んになりました。
- 古今和歌集:醍醐天皇の命で編纂された、最初の勅撰和歌集
- 竹取物語:かぐや姫がヒロインの、日本最古の物語
- 伊勢物語:在原業平が主人公の、日本最古の歌物語
- 源氏物語:光源氏が主人公の、紫式部による長編小説
- 土佐日記:紀貫之が土佐国での国司を終えて、京へ帰る旅路を綴った日記
- 蜻蛉日記:藤原道綱母による日記
- 更級日記:菅原孝標女による日記
- 枕草子:清少納言による随筆
【絵画】
「大和絵」や「来迎図」というものが国風文化の時期に発達しました。
- 聖衆来迎図
- 平等院鳳凰堂の扉絵
【彫刻】
弘仁・貞観文化の頃には、「一木造」が主流でしたが、国風文化の彫刻では、「寄木造(よせぎづくり)」の技法が用いられました。寄木造は、各部パーツを別々に彫り、組み合わせて作る技法であったため、小さな木材からでも大きな仏像を作ることができ、分担作業で効率もアップしました。
- 平等院鳳凰堂阿弥陀如来像
- 法界寺阿弥陀如来像
【建築】
貴族の住む邸宅は、「寝殿造り」という建築様式が用いられるようになりました。また、仏教建築も盛んに行われていました。
- 法成寺
- 平等院鳳凰堂
- 醍醐寺五重塔
- 法界寺阿弥陀堂
平安時代末期(11世紀後半〜12世紀末頃):院政期の文化とは?
平安時代末期の文化は院政期の文化と言います。
貴族たちの栄華が次第に終りを迎えていった頃に形成された文化です。
そんな院政期の文化はどのようなものだったのでしょうか?
ここでは、院政期の文化について簡単に解説していきます。
院政期の文化の特徴とは?
国風文化で日本独自の文化が築かれていったわけですが、それが平安時代末期になると、円熟度を増し、都から地方へ、貴族から武士へ、そして庶民へと広まっていきます。
こうして、国風文化で出来上がった日本独自の文化に、庶民や武士、地方の文化を取り入れたのが、院政期の文化の特徴となっています。
ある意味で世俗化した文化だったと言えるでしょう。
院政期の有名な作品や建築は?
【文学作品】
この頃になると、華やかな貴族たちの生活を記す「歴史物語」というジャンルが登場します。その他にも「軍記物語」や説話集といったように、バラエティ豊かな作品が生み出されるようになりました。
- 今昔物語集:天竺(インド)、震旦(中国)、本朝(日本)の説話1000余りで編まれた説話集
- 将門記:平将門の乱を題材とした軍記物語
- 陸奥話記:前九年の役を題材とした軍記物語
- 栄花物語:藤原道長の栄華を肯定的に描き、女性の姿なども描かれた歴史物語
- 大鏡:藤原道長の栄華を批判的に、紀伝体で描いた歴史物語
- 今鏡:高倉天皇辺りの時代、院政期を紀伝体で描いた歴史物語
【絵画】
「絵巻物」というものが発達しました。絵巻物は、大和絵と詞書を織り交ぜ、物語の時間の進行を表現したものでした。
- 源氏物語絵巻
- 伴大納言絵巻
- 信貴山縁起絵巻
- 鳥獣戯画
- 年中行事絵巻
【彫刻】
- 蓮華王院千手観音像
- 臼杵磨崖仏
- 浄瑠璃寺本堂九体阿弥陀如来像
【建築】
- 中尊寺金色堂
- 富貴寺大堂
- 白水阿弥陀堂
- 三仏寺投入堂
まとめ:平安時代の文化は3つの時期で分かれており、日本独自の文化が形成されていった
平安時代の文化は、3つの時期に分かれていました。前期では唐の影響を強く受けていた文化も、遣唐使廃止を機に、次第に日本独自の文化が形成されていったのでした。
今回の内容をまとめると、
- 平安時代の文化は、「弘仁・貞観文化」「国風文化」「院政期の文化」の3つに分けられる
- 平安時代前期の文化は、唐の影響を強く受けていた
- 平安時代中期以降の文化は、遣唐使廃止などにより日本独自の文化を築き上げていった
- 平安時代の文化の中心は、最初は貴族だけだったが、次第に庶民にまで広まっていった
平安時代は、政治の中心が貴族から武士へと移行していきました。それと同じように、文化でも中心は貴族から武士へ、そして庶民へと広まっていきました。このように、平安時代は、色々なことが移り変わる移行期だったのでしょう。