平安時代の服装は?貴族と庶民、男性と女性の違いは?特徴など簡単に解説!
平安時代(794(延暦13)〜12世紀末)は、桓武天皇が平安京に都を移してから、鎌倉幕府が成立するまでの約390年間のことです。
古代の末期とも、中世の萌芽期とも言われており、古代から中世の過渡期になる大事な時代に当たります。
そんな平安時代には、どのような服装があったのでしょうか?
この記事では、平安時代の服装について簡単に解説していきます。
目次
平安時代の服装の特徴は?
平安時代の服装と言えば、十二単などを思い浮かべる人が多いかもしれません。雅なイメージがある人も多いでしょう。
実際は、どのような特徴があったのでしょうか?
ここでは、平安時代の服装の特徴を簡単に解説していきます。
平安時代の服装は時期によって特徴が違う?
平安時代は政治史的に区分すると、前期・中期・後期に分けることができます。
そして、服装的な観点から行くと、前期〜中期、中期〜後期で特徴が変わるのです。
【平安時代前期〜平安時代中期】
この頃の日本では、唐(中国大陸)に人を派遣していました。(遣唐使)
当時の唐は先進国であり、独自の文化が非常に発達していたからです。日本はそこから学問や宗教など様々な面で唐の文化を積極的に取り入れようとしていました。
そのため、服装も唐の影響を大きく受けています。
【平安時代中期〜平安時代後期】
中期以降、平安時代の服装は一変します。
894年(寛平6年)に遣唐使が廃止され、国内では日本の風土や習慣を重んじていこうとする動きが高まっていきました。そして、その結果、日本独自の文化である国風文化が成立します。
この影響で服装も、唐の影響をあまり受けていない日本独自のものへと変わっていったのです。
平安時代の人々は服装に大きな関心を持っていた?
平安時代の人々は、服装に大きな関心を持っていたという話があります。
その理由としては、男女が気軽に会えるような時代ではなかったということが挙げられます。
男女が会わなければ、子孫を残すことはできませんが、当時は気軽に会うこともできなければ、当然話しながら相手がどのような人か理解する機会もありません。
そこで、当時の人々がどのように相手に自分のことを知ってもらおうとしたかというと、服装です。
男女ともに、着ている衣装や色合わせによって、人柄や位階の高さ、センスの良さなどをアピールしました。
服装以外に異性にアピールすることができなかったから、平安時代の人々は服装に大きな関心を持っていたというわけですね。
平安時代の服装|貴族の服装
平安時代の服装は、身分や性別によって違いました。
それでは、貴族の服装はどのようなものだったのでしょうか?
ここでは、平安時代の貴族の服装を簡単に解説していきます。
男性貴族の服装は?
男性貴族の服装は、大きく分けると4種類ありました。
その4種類とは、「束帯」「衣冠」「直衣」「狩衣」です。
「束帯」
宮中に仕えるときに着用する服で、いわゆる正装です。
朝服(中国王朝由来の服)からできた服のため、唐の影響を強く受けています。
また、上に着る袍(ほう)は、身分によって使用できる色が決められています。
黄櫨染(こうろぜん)という色は天皇のみが使用できる色で、東宮も黄丹(おうだん)という色に決められていました。
親王以下臣下の着用できる色はその色以外ということになります。
高い位から、紫系→赤系→緑系→青系となっていき、位のない人は黄色となりました。
「衣冠」
束帯とよく似ていますが、束帯が正装だとすれば、衣冠は略正装といったところの服装です。束帯は宮中で日中に着るための服でしたが、衣冠は宿直のためにできた服でした。
「直衣」
直衣は、男性貴族の普段着で、家で寛いだり、宴の時の遊び用の服です。
家で着る服のため、束帯や衣冠のように色での区別はありません。色は個人の自由で選べたようです。
「狩衣」
狩衣は4種類の中で、最もカジュアルな普段着です。
主に鷹狩などを行うときに着られていたようです。
つまり、直衣がおしゃれでカジュアルな普段着だとすれば、狩衣はトレーニングウェアといったところでしょう。
動きやすいように袖周りにある紐で絞ることができて、左右の紐の端を結んで首の後ろに掛けることで、袖が邪魔にならないようになっていました。
ちなみに、正装と普段着の見分け方は、頭に乗せるものでも決まります。
「冠」であれば正装、「烏帽子」であれば普段着です。
当時は、髷が見えることは恥を晒していることでしたから、冠か烏帽子を必ず被っていました。
また、この冠と烏帽子は聖徳太子が発案した冠位十二階制の影響を受けています。
平安時代末期にもなってくると、どんどん略装が進んでいき、宮中の出入りするのに狩衣でもよいと許可が出ていました。
女性貴族の服装は?
女性貴族は男性貴族と比べると、服の種類はそんなに多くありませんでした。
女性貴族が朝廷で着用する正装を「女房装束」と言い、時代が進むに連れ、衣を12枚着ているように見えるため「十二単」と一般的に呼ばれるようになりました。
この当時の女性貴族が着用していた着物は、布団ほどの大きさがあり、たくさん着すぎて動けなくなってしまった人もいたようです。
着物の総重量は10kgとも言われており、ほとんどの女性貴族がこれを着たら一日中あまり動かずに過ごしていました。
また、女性貴族にも普段着のようなものがあります。それが、「小袿」と呼ばれるものでした。
女性貴族は、着ている着物の重ねの色目を楽しんでおり、色の組み合わせに名前をつけるなどしていたようです。
重ねの色目がきれいか、季節に合っているのかを重視し、御簾越しに逢う男性へセンスの良さをアピールしていました。
平安時代の服装|庶民の服装
平安時代の貴族の服装はきらびやかで、それぞれが服装で自身を表現するようなものでした。
それでは、庶民の服装はどのようなものだったのでしょうか?
ここでは、平安時代の庶民の服装を簡単に解説していきます。
男性庶民の服装は?
平安時代の男性庶民の服装は、上半身に「直垂(ひたたれ)」という前合わせの部分に紐がついていてそれを結ぶようになっている服を着て、下半身には着丈の短い裾絞りの「小袴」を履いていました。
柄はどのような柄でも自由に使用できたようです。
また、庶民であろうとも、髷を見せることは恥だという認識はあったので、貴族男性同様帽子を被っていました。それが「萎烏帽子(なええぼし)」です。
「直垂には萎烏帽子」という決まりがあったようです。
ちなみに、この直垂は次第に武士の常装となっていきました。
女性庶民の服装は?
平安時代の女性庶民の服装は、舟型袖に細帯をまとうか、あるいはこれに「褶だつもの(しびらだつもの)」と言われている奈良時代の裙(も)の名残のようなものを腰に巻いていました。
また、腰布をまとい、その上に袖なしの衣をつけることもあったようです。
平安時代の服装|その他
平安時代では、貴族と庶民以外にも特殊な服装をしていた人々がいました。
それは、武士や僧侶といった人々です。
ここでは、平安時代のその他の服装について簡単に解説していきます。
平安時代に日本式甲冑が誕生した?
合戦と言えば甲冑というイメージが強いですが、実は日本式の甲冑が誕生したのは平安時代なのです。
その最も正式かつ最上のものと言われていたのが、「大鎧」です。
大鎧の特徴は、胸につけられた「栴檀板(せんだんのいた)」と「鳩尾板(きゅうびのいた)」です。これらの板は、馬上でスムーズに弓を引けるようにとつけられたものでした。
また、大鎧には、漆芸、金工、染織など、伝統的な技法が尽くされていました。平安時代の国風文化と仏教関係の工芸技術が、日本式甲冑を完成させたと言っても過言ではないでしょう。
僧侶の服装は?
平安時代の僧侶は、貴族とも庶民とも異なる服装をしていました。
法会用の装束と、国家行事の儀式に用いる・鈍色装束、宿直(とのい)用の宿装束、加行(げぎょう)の律装束などが用いられました。
基本的には、僧綱襟という方立て襟ををつけ、衵、単、大帷を着ます。そして、大口または下袴を履き、指貫を重ね、襪(しとうず)をつけました。
まとめ:平安時代の服装は日本独自の国風文化を表すような服装だった
平安時代の服装は、それまでずっと参考にしてきた唐の文化の影響を受けたものから一新し、独自の国風文化が開花した結果できあがった服装でした。
今回の内容をまとめると、
- 平安時代前期から中期にかけては、唐の影響を受けた服装が多かった
- 平安時代中期以降は、日本独自の国風文化の影響を受けた服装となった
- 平安時代の服装は、身分や性別などによって異なっていた
10kgもある服を着るとは、今ではとてもではないですが考えられませんよね。しかし、そうでもしないと、自分をアピールすることができなかったのだとしたら、当時の人々の苦労が伺えますね。