平安時代の貴族の暮らしはどうだった?服装は?食事は?貴族の生活を簡単に解説!
平安時代(794(延暦13)〜12世紀末)は、桓武天皇が平安京に都を移してから、鎌倉幕府が成立するまでの約390年間のことです。
古代の末期とも、中世の萌芽期とも言われており、古代から中世の過渡期になる大事な時代に当たります。
そんな平安時代を象徴している人物が「貴族」です。
貴族というと、優雅で雅な雰囲気をイメージする人が多いのではないでしょうか?それでは、実際はどのような暮らしをしていたのでしょうか?
この記事では、平安時代の貴族の服装や食事、遊びなどの暮らしについて簡単に解説していきます。
目次
平安時代の貴族の暮らしはどうだった?
平安時代は、貴族たちが主となって政治などを行っていました。
そんな貴族たちは、どのような一日を過ごしていたのでしょうか?
ここでは、平安時代の貴族の暮らしについて簡単に解説していきます。
平安時代の貴族の一日の流れは?
【平安時代の貴族の一日のスケジュール】
・起床
平安時代の貴族は午前3時には起床していました。
何故かというと、午前3時に天皇の住んでいる「内裏」の門が開かれるからでした。この門が開かれる際には、太鼓でお知らせがあったので、その音で起きてしまうという感じだったようです。
・星の名前を7回連呼
起床した貴族がまず行うのは、自分が属するとされる星の名前を7回唱えるということです。貴族はこれが毎日のルーティンとなっていました。
・運勢を確認
星の名前を唱えた後は、その日の運勢を顔や星、暦を基準とした占いを行って確認します。
この際に、吉と出ればそのまま出勤するのですが、不吉と出た場合は欠勤するのです。
それほどまでに、貴族はその日の運勢に縛られた生活をしてました。
・朝食
運勢確認後、日記を付けたりして、ここでやっと朝食をとります。
しかし、現在の朝食のようにしっかりとした食事ではなく、お菓子をちょっと食べる程度のもので、食事扱いではなかったようです。
・出勤
身なりを整えて出勤します。だいたい午前6時くらいのことです。
夜明けとともに皇居に参上し、朝議(朝廷の会議)を行っていました。
そして、昼ごろまで自分の担当部署で政務を行うのです。
・昼食
朝食は食事扱いではないので、昼になって初めてちゃんとした食事をとることになります。昼食を食べたら、貴族の仕事はもうおしまいで、その後は自由時間です。
・自由時間
午後の時間は自由時間です。
和歌や史書などの勉学に励む人もいれば、蹴鞠といったスポーツをする人、すごろく、貝合わせで遊ぶ人など様々でした。
・夕食
午後4時頃になると夕食です。2度目の食事の時間ですね。
夕食後も就寝前までは自由時間なので、各々好きなことをして過ごしていたようです。
・就寝
日没にはすぐに就寝です。朝が早いので、就寝時間も早かったようです。
しかし、中には夜の儀式や宴、仕事がある人もおり、そのような人たちは徹夜をすることもありました。
平安時代の貴族は「寝殿造り」に住んでいた?
平安時代の貴族は「寝殿造り」と呼ばれるとても広い屋敷に住んでいました。
この寝殿造りの建築様式は、中国古来の宮殿建築をベースに、日本文化を取り入れた建築様式だと言われており、10世紀頃にはほぼ完成したと言われています。
一般的な形式としては、
- 大きな敷地内の中央に主人の住む「寝殿」が置かれている
- 東西北の三方に家族の住む「対の屋」が置かれている
- 寝殿と対の屋の間は「渡殿」や「透渡殿」という渡り廊下で結ばれている
- 寝殿の南側には池や庭園が置かれている
- 東西の対の屋の南には「釣殿」や「泉殿」が置かれている
以上のような配置でした。
ちなみに、お客をもてなしたり、儀式や行事をしたりした場所は、寝殿でした。
室内の特徴としては、ほとんど壁がないことが挙げられます。
屏風や布、衝立を用いて、自由にスペースを使っていました。
平安時代の貴族はどんな遊びをしていた?
貴族たちは午後の時間は自由時間という人が多く、それぞれ好きな遊びをしていました。
【貴族たちの遊び一覧】
・蹴鞠
・小弓
・競馬
・闘鶏
・打毬
・石投
・独楽
・弾棋
・双六
・囲碁
・投壺
・竹馬
・雛遊び
・毬打
・意銭、銭打ち
・貝合わせ
・偏継
・洲浜作り
こんなに色々と遊んでばかりでずるいと感じる人もいるかもしれません。
しかし、当時の貴族にとって、遊びとは社交儀礼のようなものでした。
今でいうと、接待ゴルフのようなものです。
遊びをこなせない人は、あまり好ましく思われませんでした。そのため、宮廷社会を生き抜くためには、遊びが必須だったのです。
平安時代の貴族の服装は?
平安時代の服装というと、十二単などを思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?
実際はどのような服装をしていたのでしょうか?
ここでは、平安時代の貴族の服装について簡単に解説していきます。
平安時代の貴族の服装は男女で異なっていた?
平安時代の貴族は、男性と女性で全く異なった服装をしていました。それぞれを簡単に解説していきます。
【平安時代の男性貴族の服装】
男性貴族の服装は、大きく分けると4種類ありました。
その4種類とは、「束帯」「衣冠」「直衣」「狩衣」です。
「束帯」
宮中に仕えるときに着用する服で、いわゆる正装です。
朝服(中国王朝由来の服)からできた服のため、唐の影響を強く受けています。
また、上に着る袍(ほう)は、身分によって使用できる色が決められています。
黄櫨染(こうろぜん)という色は天皇のみが使用できる色で、東宮も黄丹(おうだん)という色に決められていました。
親王以下臣下の着用できる色はその色以外ということになります。
高い位から、紫系→赤系→緑系→青系となっていき、位のない人は黄色となりました。
「衣冠」
束帯とよく似ていますが、束帯が正装だとすれば、衣冠は略正装といったところの服装です。束帯は宮中で日中に着るための服でしたが、衣冠は宿直のためにできた服でした。
「直衣」
直衣は、男性貴族の普段着で、家で寛いだり、宴の時の遊び用の服です。
家で着る服のため、束帯や衣冠のように色での区別はありません。色は個人の自由で選べたようです。
「狩衣」
狩衣は4種類の中で、最もカジュアルな普段着です。
主に鷹狩などを行うときに着られていたようです。
つまり、直衣がおしゃれでカジュアルな普段着だとすれば、狩衣はトレーニングウェアといったところでしょう。
動きやすいように袖周りにある紐で絞ることができて、左右の紐の端を結んで首の後ろに掛けることで、袖が邪魔にならないようになっていました。
ちなみに、正装と普段着の見分け方は、頭に乗せるものでも決まります。
「冠」であれば正装、「烏帽子」であれば普段着です。
当時は、髷が見えることは恥を晒していることでしたから、冠か烏帽子を必ず被っていました。
また、この冠と烏帽子は聖徳太子が発案した冠位十二階制の影響を受けています。
平安時代末期にもなってくると、どんどん略装が進んでいき、宮中の出入りするのに狩衣でもよいと許可が出ていました。
【平安時代の女性貴族の服装】
女性貴族は男性貴族と比べると、服の種類はそんなに多くありませんでした。
女性貴族が朝廷で着用する正装を「女房装束」と言い、時代が進むに連れ、衣を12枚着ているように見えるため「十二単」と一般的に呼ばれるようになりました。
この当時の女性貴族が着用していた着物は、布団ほどの大きさがあり、たくさん着すぎて動けなくなってしまった人もいたようです。
着物の総重量は10kgとも言われており、ほとんどの女性貴族がこれを着たら一日中あまり動かずに過ごしていました。
また、女性貴族にも普段着のようなものがあります。それが、「小袿」と呼ばれるものでした。
女性貴族は、着ている着物の重ねの色目を楽しんでおり、色の組み合わせに名前をつけるなどしていたようです。
重ねの色目がきれいか、季節に合っているのかを重視し、御簾越しに逢う男性へセンスの良さをアピールしていました。
平安時代の貴族は服装で異性にアピールしていた?
平安時代の貴族は、服装で異性にアピールしていました。
その理由としては、男女が気軽に会えるような時代ではなかったということが挙げられます。
男女が会わなければ、子孫を残すことはできませんが、当時は気軽に会うこともできなければ、当然話しながら相手がどのような人か理解する機会もありません。
たとえ会えたとしても、御簾ごしに顔を隠しながら話すのがやっとです。
そこで、当時の人々がどのように相手に自分のことを知ってもらうために大切だったのが服装です。
男女ともに、着ている衣装や色合わせによって、人柄や位階の高さ、センスの良さなどをアピールしました。
服装以外に異性にアピールすることができなかったので、、平安時代の人々は服装に大きな関心を持っていたようですね。
\ 平安時代の貴族の服装に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております/
平安時代の貴族の食事は?
現代の私達は、基本的に一日3回の食事をとり、和洋中色々なジャンルのものを食べています。
それでは、平安時代の貴族たちはどのような食事をとっていたのでしょうか?
ここでは、平安時代の貴族の食事について簡単に解説していきます。
平安時代の貴族の食事は和食の原型だった?
平安時代の貴族は、一日に2回(朝10時頃と夕方4時頃)食事をとっていました。
そして、米を主食とし、主菜や副菜、デザートまで付いた豪華な食事でした。
ただし、米といっても、現代のようにふっくらとした白米を食べていたわけではなく、うるち米を甑で蒸した「強飯(こわいい)」と呼ばれる少し硬めの米を食べていました。
主菜は、魚、鶏肉、くまやイノシシの肉などが食べられていました。
しかし、貴族が暮らしていた京都は、海が遠かったこともあり、魚などの海産物は新鮮な生のまま食べるということが困難な状況でした。
そのため、食卓に並ぶ魚は、川で獲れる魚がメインであり、腐らないように干物や塩漬けにしていたようです。
デザートも種類が豊富で、平安時代中期にまとめられた『延喜式』などによると、
- 梨、麹、なつめなどの果実類の「木菓子」
- もち米の粉を練って焼いた「ひちら」という煎餅のようなもの
- 肉桂皮の粉末をつけた「てんせい」という名のもち
- 「酪」という牛乳を濃縮して粥にしたもの
- 「蘇」という酪をさらに濃縮してチーズにしたもの
以上のようなものが食べられていました。
中には、かき氷を食べていた人もいたようで、デザートに関しては現代のものとあまり変わらなかったといっても過言ではないかもしれません。
ちなみに、現在の和食の基本は、ご飯、味噌汁、おかずと漬物の4つの「一汁三菜」となっています。
そして、平安時代の絵巻物には、ご飯とお汁とお菜が3つ乗った「一汁三菜」が並んでいる食事風景が描かれています。
このことから、和食の原型とも言える「一汁三菜」は、平安時代から始まったと言われています。
平安時代の貴族は栄養が偏り生活習慣病に苦しんでいた?
平安時代の食事は素材をそのまま調理し、塩、酒、酢、醤の中から、自分の好きな調味料をつけて食べるのが一般的でした。
また、ほとんどの食材は長持ちさせるために、干物にされたり塩漬けにされたりしていました。
このことから、貴族の食生活は非常に栄養が偏ってしまっていたのです。
さらに、当時の貴族は日頃からあまり体を動かすという習慣がありませんでした。
そのため、平安貴族のほとんどは生活習慣病に苦しんでいたと言います。
慢性胃炎や糖尿病になる人が非常に多く、死因の上位には「栄養失調」や「脚気」が来るほどでした。
このように、貴族は贅沢な食生活を送る一方で、深刻な健康問題に悩まされていたのです。
まとめ:平安時代の貴族は雅で優雅な暮らしをしていた反面、苦労も多かった
平安時代の貴族は、一日の半分は自由時間で遊んでいたり、食事は一汁三菜にデザートまでついたものであったりと、雅で優雅な暮らしをしていました。しかし、その反面、高い教養を求められたり、生活習慣病に悩んでいたりと苦労も多かったようです。
今回の内容をまとめると、
- 平安時代の貴族は、半日仕事をして半日遊ぶというような一日の過ごし方をしていた
- 平安時代の貴族は、宮廷社会を生き抜くために遊びが必須だった
- 平安時代の貴族の服装は、男女によって異なっていた
- 平安時代の貴族の食事は、一日二回。一汁三菜にデザート付きだった
- 平安時代の貴族たちは、生活習慣病に悩まされていた
平安時代の貴族は、自由時間が多く、羨ましいと感じる人も多いかもしれません。
しかし、朝3時起床や、遊ぶことが社交儀礼であることなど、当時の人々も色々と気苦労が多くありそうです。その時代その時代で、悩むことは色々とあるということですね。