徳川家斉の家系図を簡単に解説!子孫は続いている?子供の数は歴代最多?
徳川家斉(1773(安永2)〜1841(天保12))は、江戸幕府の第11代将軍です。
歴代江戸幕府将軍の中で最も在任期間が長く、また、最も子沢山な将軍として知られています。
そんな徳川家斉の子孫は続いているのでしょうか?
徳川家斉には妻や子供は何人いるのでしょうか?
この記事では、徳川家斉の家系図から、その子孫や妻について簡単に解説していきます。
目次
徳川家斉の家系図
徳川家斉のプロフィール
【徳川家斉のプロフィール】
徳川家斉(とくがわいえなり):1773年(安永2年)〜1841年(天保12年)享年:69歳
父:徳川治済/母:岩本富子
正室:近衛寔子
側室・妾:お万、お楽、お梅、お宇多、お志賀、お利尾、お登勢、お蝶、お美代、お以登、お袖、お八重、お美尾、お屋知、お八百、お瑠璃
子:淑姫、女子、竹千代、家慶、男子、敬之助、敦之助、綾姫、総姫、豊三郎、格姫、五百姫、峰姫、亨姫、斉順、舒姫、時之助、寿姫、浅姫、晴姫、虎千代、高姫、安姫、元姫、友松、文姫、斉明、斉荘、艶姫、盛姫、斉衆、和姫、孝姫、溶姫、奥五郎、斉民、久五郎、仲姫、信之進、末姫、陽七郎、喜代姫、永姫、斉温、琴姫、斉良、斉彊、斉善、斉裕、富八郎、斉省、斉宣、泰姫
徳川家斉は、一橋家当主・徳川治済の長男として誕生しました。
しかし、先代の第10代将軍・徳川家治の世嗣・徳川家基が急死してしまい、跡継ぎがいなくなってしまったため、徳川家斉が養子として江戸城に入城することになりました。
その後、15歳で将軍職に就くと、その3年後には近衛寔子を正室に迎え入れています。
しかし、徳川家斉は、若い頃から大奥に入り浸り、女遊びが激しかったのです。
その結果、17歳から55歳に至るまで、ほぼ毎年子供が生まれていました。
側室や妾の数はわかっているだけでも40人以上にわたり、子どもの数もわかっているだけで53人(26男、27女)いたと言われており、加えて、流産した子も7人はいたようです。
これは、歴代将軍の中で見ても、トップの子供の数でした。
徳川家斉の子孫はあまり続かなかった
徳川家斉は歴代将軍の中でもトップの子供の数を誇りました。
しかし、子どものうち半分は成人することなく亡くなってしまい、跡継ぎの家慶のみを残し、諸大名へ養子や嫁に出しました。
そして、その多くは、体が弱かったり子孫を残す力が無かったりしたようで、本人の代か、その子供の代で子孫が途絶え、養子に家系を譲ることとなったのです。
現在まで子孫が続いているのは、わかっている範囲で、男系では松平斉民、女系では溶姫の系譜に血筋が残っていると言われています。
徳川家斉は、子供が多かった割には、子孫はあまり続かなかったのです。
徳川家斉の子供が多かったことによるメリットとデメリット
徳川家斉の子供は、53人と多かったのですが、そのことにより、メリットとデメリットがありました。
【メリット】
徳川家斉の子どもの多くは、諸大名へ養子や嫁に出ました。
これによって、幕府と諸大名の繋がりが深くなったのです。
また、妻や子供の数が多くなったことにより、大奥は非常に豪華絢爛で贅沢三昧な暮らしとなっていました。
そして、その影響で町人文化が華やかに発展していったのです。
この町人文化は、徳川家斉の在任期間の元号にちなんで「化政文化」と呼ばれています。
江戸を中心に広がったこの文化は、皮肉や風刺が好まれ、それらが盛り込まれた滑稽本や人情本、川柳、狂歌などが流行しました。
まとめると、幕府と諸大名の繋がりが深くなった点、そして、化政文化が発展した点が、徳川家斉の子供によるメリットです。
【デメリット】
徳川家斉の子どもには、メリットもありましたが、もちろんデメリットもありました。
まず、幕府の財政です。
ただでさえ、お金がなくて、質素倹約を心がけていたところだったのに、徳川家斉の大奥はそんなことは知らないとばかりに、贅沢三昧をしてしまいました。
さらに、諸大名へ嫁ぐとなると、幕府も受け入れ先も結婚の準備などで莫大な費用がかかります。
それが毎年毎年続いたものですから、当然幕府も諸藩も財政が逼迫してしまったのです。
なんとかして財政を立て直そうとするも、賄賂などが横行し、幕政はどんどん腐敗していきました。
こうなってくると、当然幕府への不満が溜まっていきますよね。
そして、各地で幕府に対する反乱が頻繁に起こるようになってしまいます。
大阪では大塩平八郎の乱、越後では生田万の乱をはじめとする世直し型の様相を帯びる反乱が相次ぎました。
このように、華やかな舞台の一方で、着実に幕藩体制崩壊の兆しが見え始めてきたのです。
徳川家斉に妻は何人いた?
徳川家斉の妻(正室・側室や妾)は、わかっているだけでも40人以上いました。
その中でも、子供を残した妻は以下の通りです。
妻の名前 | 男児 | 女児 |
近衛寔子(正室) | 敦之助(→清水家) | |
お万 | 竹千代 | 淑姫(→尾張家正室) 瓊岸院 綾姫(→伊達家正室) |
お楽 | 徳次郎(12代家慶) | |
お梅 | 端正院 | |
お宇多 | 敬之助(→尾張家) 豊三郎 | 五百姫 舒姫 |
お志賀 | 総姫 | |
お利尾 | 格姫 | |
お登勢 | 菊千代(→紀伊家11代斉順) | 峰姫(→水戸家正室) 寿姫 晴姫 |
お蝶 | 時之助 虎千代(→紀伊家) 友松 斉荘(→尾張家12代) 久五郎 | 亨姫 和姫(→毛利家正室) |
お美代 | 溶姫(→前田家正室) 仲姫 末姫(→浅野家正室) | |
お以登 | 斉善(→福井松平家) 松平斉省(→川越松平家) 松平斉宣(→明石松平家) | 琴姫 永姫(→一橋家正室) |
お袖 | 陽七郎 斉彊(→紀伊家12代) 富八郎 | 岸姫 文姫(→高松松平家正室) 艷姫 孝姫 |
お八重 | 斉明(→清水家4代) 斉衆(→池田家) 斉民(→津山松平家) 信之進 斉良(→館林松平家) 斉裕(→蜂須賀家) | 盛姫(→鍋島家正室) 喜代姫(→酒井家正室) |
お美尾 | 浅姫(→福井松平家正室) | |
お屋知 | 高姫 元姫(→会津松平家正室) | |
お瑠璃 | 斉温(→尾張家11代) | 泰姫(→池田家正室) |
歴代徳川将軍一覧
江戸幕府の徳川将軍は、全部で15代続きました。
【徳川将軍一覧】
- 初代将軍:徳川家康 1603年(慶長8年)〜1605年(慶長10年)
- 2代将軍:徳川秀忠 1605年(慶長10年)〜1623年(元和9年)
- 3代将軍:徳川家光 1623年(元和9年)〜1651年(慶安4年)
- 4代将軍:徳川家綱 1651年(慶安4年)〜1680年(延宝8年)
- 5代将軍:徳川綱吉 1680年(延宝8年)〜1709年(宝永6年)
- 6代将軍:徳川家宣 1709年(宝永6年)〜1712年(正徳2年)
- 7代将軍:徳川家継 1713年(正徳3年)〜1716年(享保元年)
- 8代将軍:徳川吉宗 1716年(享保元年)〜1745年(延享2年)
- 9代将軍:徳川家重 1745年(延享2年)〜1760年(宝暦10年)
- 10代将軍:徳川家治 1760年(宝暦10年)〜1786年(天明6年)
- 11代将軍:徳川家斉 1787年(天明7年)〜1837年(天保8年)
- 12代将軍:徳川家慶 1837年(天保8年)〜1853年(嘉永6年)
- 13代将軍:徳川家定 1853年(嘉永6年)〜1858年(安政5年)
- 14代将軍:徳川家茂 1858年(安政5年)〜1866年(慶応2年)
- 15代将軍:徳川慶喜 1866年(慶応2年)〜1867年(慶応3年)
徳川家斉に関するQ&A
徳川家斉に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 徳川家斉は一橋徳川家の出身だった?
- 徳川家斉の先代将軍・徳川家治は愛妻家で大奥をあまり利用しなかった?
- 徳川家斉と東京大学の赤門の関係は?
徳川家斉は一橋徳川家の出身だった?
将軍となった徳川家斉ですが、実は将軍家出身ではありません。
元々は、徳川御三卿の1つ、一橋家の2代当主・一橋治済の長男として生まれました。
そのため、本来であれば、徳川家斉はそのまま一橋家を継ぐ予定だったのです。
しかし、先代の将軍である徳川家治の嫡男・徳川家基が急死してしまい、将軍の後継者問題が起こります。
そこで白羽の矢が立てられたのが、徳川家斉です。
次期将軍候補として、他にふさわしい男子がいなかったことや、江戸幕府で老中を務めていた田沼意次と父・一橋治済が画策したことにより、徳川家斉は1781年に徳川家治の養子となります。
そして、1786年に徳川家治が亡くなったため、その翌年にまだ15歳だった徳川家斉が第11代将軍に就任しました。
徳川家斉の先代将軍・徳川家治は愛妻家で大奥をあまり利用しなかった?
徳川家治は、大奥をあまり利用しなかったと言われています。
その理由は「愛妻家だったから」です。
徳川家治の正室は、倫子という宮家出身の女性でした。
代々将軍は、正室を皇室または公卿から迎えるのが習わしで、愛情の有無などない政略結婚が当たり前でした。
そのため、歴代の将軍の正室が不幸な生涯を送りがちだったのもしょうがないことだったのです。
しかし、徳川家治と倫子の夫婦仲は非常に良く、子供が生まれたら2人で可愛がるなど、幸せな日々を過ごしていました。
時には、徳川家治があまりに頻繁に倫子のもとへ通い詰めていたせいで、倫子に付いていた御年寄(大奥の役職で、夜枷も管理していた)から反発が起きたこともあったようです。
徳川家治は、それほどまでに倫子一筋であったため、大奥を利用する必要がなかったのです。
徳川家斉と東京大学の赤門の関係は?
徳川家斉と東京大学の赤門は、実はつながりがあります。
この赤門は、実は徳川家斉の子・溶姫が嫁ぐ際に作られたものなのです。
子沢山であった徳川家斉は、自分の娘がどこに嫁いだのかわかりやすいように、嫁ぎ先の門を赤く塗らせたと伝えられています。
現在の東京大学のシンボルである赤門こと「御守殿門」もそのうちの1つです。
溶姫が、13代加賀藩主・前田斉泰の正室として、江戸の加賀藩邸に輿入れした際に赤く塗られました。
まとめ:徳川家斉の家系図からは、子沢山であるが子孫は続かなかったことがわかる
徳川家斉の家系図から見てもわかるように、徳川家斉は非常に子宝に恵まれた将軍でした。その子供の数は歴代将軍の中でもトップの数を誇ります。しかし、ほとんどの子どもたちは本人かその子どもの代で血が途絶えてしまい、あまり子孫は続きませんでした。
今回の内容をまとめると、
- 徳川家斉は歴代将軍の中で最多の子どもの数だった
- 徳川家斉の子孫は、あまり長くは続かなかった
- 徳川家斉が子沢山だったおかげで、幕府と諸大名との繋がりが深くなったり、文化が栄えたりした
- 徳川家斉が贅沢三昧をしたせいで、幕府への不満が溜まり、幕藩体制崩壊の兆しが見え始めた
徳川家斉は、将軍として最高の仕事をしたと言っても過言ではありません。しかし、その多くの子どものうち約半数は成人できなかったということを見ると、当時の子供が生き残れる可能性が非常に低かったということもよくわかりますね。