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徳川家斉は何した人?歴代将軍最長の在任期間だった?子作りに積極的だった?

徳川家斉は何した人?歴代将軍最長の在任期間だった?子作りに積極的だった?

徳川家斉(1773(安永2)〜1841(天保12))は、江戸幕府の第11代将軍です。

歴代江戸幕府将軍の中で最も在任期間が長く、また、最も子沢山な将軍として知られています。

そんな徳川家斉は何した人だったのでしょうか?
なぜ歴代の中で最も在任期間が長くいられたのでしょうか?

この記事では、徳川家斉のしたことについて簡単に解説していきます。

徳川家斉は歴代江戸幕府将軍の中で最長の在任期間と最多の子供の数を誇る

徳川家斉は、歴代江戸幕府将軍の中で最長の在任期間を誇ります。

その期間は、1787年から1837年の50年間です。

ここに、さらに大御所として活躍していた時期の3年間も加えると、実に53年もの間権力のトップに居続けたことになります。

これは、江戸幕府の将軍だけにとどまらず、鎌倉将軍、室町将軍を合わせても最長の記録です。

徳川家斉がそれほどまでに長くトップに君臨し続けられた理由は、3つあります。

  • 徳川家斉が生涯健康であったため
  • 徳川家斉は歴代最多を誇る子沢山であったため
  • 徳川家斉の選定眼が優秀であったため

それぞれ詳しく見ていきましょう。

・徳川家斉が生涯健康であったため

徳川家斉が将軍職に就いたのは、なんと15歳という若いときです。

始まりがそもそも早いんですね。

そこから死ぬまで現役でトップで居続けたわけです。

健康でなければそのようなことはできません。

・徳川家斉は歴代最多を誇る子沢山であったため

徳川家斉は歴代将軍の中でも最多の子供の数を誇っています。

その数、わかっているだけでも53人(26男、27女)だと言われており、加えて、流産した子も7人はいたようです。

その子どもの多くは各徳川家や諸大名の元に養子に出されたり、嫁に出されたりしました。

それにより、幕府と諸大名の繋がりが深くなったのです。

これはつまり、徳川家斉と繋がりが深い人材で周りを固められるということです。

これも間違いなく徳川家斉がトップで居続けられた要因の1つと言えるでしょう。

・徳川家斉の選定眼が優秀であったため

徳川家斉は、自身でも政治を行っていましたが、基本的にその時その時に合った人材を起用して政策を任せるという形態を取っていました。

この人材の選定眼が優秀であったため、長期政権を保っていられたのでしょう。

そうでなければ、民衆からの不満により、政権は崩されていたはずです。

以上のような理由から、徳川家斉は歴代最長の在任期間となりました。

徳川家斉がしたことを簡単に解説!

徳川家斉は歴代将軍の中でも最長の在任期間を誇っています。

徳川家斉がしたことは、大きく分けて3つあります。

  • 徳川家斉は人材の配置がうまかった
  • 徳川家斉は、将軍の最大職務である子作りを積極的に行なった
  • 徳川家斉のおかげで栄えた「化政文化」

それぞれ簡単に解説していきます。

徳川家斉は人材の配置がうまかった

徳川家斉は、長い間権力のトップで居続けたわけですが、年を重ねるごとに、普通は判断力が鈍ってきたり、勘が狂うこともあったり、物事の軽重を忘れたりと、様々な要因で失敗することがあります。

しかし、徳川家斉はそのようなことを回避するために、その時その時に合った優秀な人材を見極め、起用し、自身の代わりに政策を任せていたのです。

さらに、代わりに政策を任せていたと言っても、肝心の政策決定は自身が握っていました。

このような体制を整えたことが徳川家斉が最長の在任期間となる秘訣だったと言えるでしょう。

徳川家斉は将軍の最大職務である子作りを積極的に行った

将軍の最大の職務は、将軍家が絶えないように世継ぎを作ることにあります。

徳川家斉の先代将軍である徳川家治の時代では、大奥はあまり利用されず、世継ぎも早世するなど、養子を迎え入れるしかない状況でした。

しかし、徳川家斉の代になると、その傾向は一変します。

なんと徳川家斉が17歳から55歳に至るまで、ほぼ毎年子供が生まれていたのです。

徳川家斉は、オットセイを原料とした精力剤を愛飲していたため、「オットセイ将軍」「種馬公方」などというあだ名をつけられるほど、子作りを積極的に行っていました。

側室や妾の数はわかっているだけでも40人以上にわたり、子どもの数もわかっているだけで53人(26男、27女)いたと言われており、加えて、流産した子も7人はいたようです。

これは、歴代将軍の中で見ても、トップの子供の数でした。

これほどの数がいれば世継ぎは安泰です。

それに加え、子どもの多くは、各徳川家や諸大名の元に養子に出されたり、嫁に出されたりしました。

それにより、幕府と諸大名のつながりが深くなったのです。

このように、徳川家斉最大の功績は、子作りをたくさんしたことと言っても過言ではないでしょう。

徳川家斉のおかげで栄えた「化政文化」

徳川家斉の大奥は、非常に豪華絢爛で贅沢三昧な暮らしでした。

そして、その影響で町人文化が華やかに発展していったのです。

この町人文化は、徳川家斉の在任期間の元号にちなんで「化政文化」と呼ばれています。

江戸を中心に広がったこの文化は、皮肉や風刺が好まれ、それらが盛り込まれた滑稽本や人情本、川柳、狂歌などが流行しました。

また、歌舞伎や浮世絵などの芸事も発達したり、伊勢神宮に参拝する御蔭参りや庶民の旅行も行われるようになりました。

さらに、学問では、国学、医学、蘭学が発達し、伊能忠敬が日本地図を作成するということもありました。

化政文化を代表する文学

【滑稽本】会話文を中心に笑いを取る物語

・十返舎一九『東海道中膝栗毛』

・式亭三馬『浮世風呂』

【黄表紙】成人向けの絵入り小説

・恋川春町『金々先生栄花夢』

【人情本】いわゆる恋物語

・為永春水『春色梅児誉美』

化政文化を代表する美術

【浮世絵】

・葛飾北斎『富嶽三十六景』

・歌川広重『東海道五十三次』

化政文化を代表する芸能

【歌舞伎】

・四代目・鶴屋南北『東海道四谷怪談』

・七代目・市川團十郎『勧進帳』

化政文化を代表する学問

【国学】古典研究から発展した学問

・本居宣長『古事記伝』

【蘭学】オランダから入ってきた医学や天文学の学問

・杉田玄白、前野良沢『解体新書』

・大槻玄沢『蘭学階梯』

徳川家斉が豪華絢爛な贅沢な暮らしを行う前の時代は、寛政の改革といって、質素倹約を政策方針としていました。

そのため、このように町人が贅沢な暮らしをするなんてもってのほかだったのです。

徳川家斉がすすんで贅沢な暮らしをしていたことによって、化政文化は発展していったといっても過言ではないでしょう。

徳川家斉の健康の秘訣

生涯健康であったという徳川家斉ですが、それにも秘訣がありました。

その秘訣は主に3つのことです。

  • 早起きと散歩
  • 冬でも薄着
  • 適度な運動

それぞれ詳しく見ていきましょう。

・早起きと散歩

徳川家斉は、毎日必ず一番鶏が鳴く夜明けには起床していました。

そして、身支度を済ませた後、城内の広大な庭園を隅々までみっちりと散歩するのが日課だったようです。

・冬でも薄着

徳川家斉は、1年を通して薄着で過ごしていたそうです。

どんなに冷え込む季節でも、普段は小袖に胴着のみで、部屋にある炬燵は一切使用せず、手炉(持ち運びできるような小さいストーブ)で軽く温まる程度でした。

・適度な運動

徳川家斉は、1年を通して、月に数回、猛暑や極寒、悪天候を問わずに「鷹狩」に勤しんでいました。

場所は主に江戸近郊や郊外で、自分専用の愛鷹も所持していたようです。

他にも、若い頃は打毬のような激しいスポーツも得意としており、積極的に体力づくりをしていました。

以上のような秘訣を心がけていたことから、徳川家斉は生涯健康でいられたのでしょう。

徳川家斉に関するQ&A

徳川家斉に関するQ&Aを簡単に解説していきます。

  • 徳川家斉は一橋徳川家の出身だった?
  • 徳川家斉の先代将軍・徳川家治は愛妻家で大奥をあまり利用しなかった?
  • 徳川家斉と東京大学の赤門の関係は?

徳川家斉は一橋徳川家の出身だった?

将軍となった徳川家斉ですが、実は徳川将軍家の出身ではありません。

元々は、徳川御三卿の1つ、一橋家の2代当主・一橋治済の長男として生まれました。

そのため、本来であれば、徳川家斉はそのまま一橋家を継ぐ予定だったのです。

しかし、先代の将軍である徳川家治の嫡男・徳川家基が急死してしまい、将軍の後継者問題が起こります。

そこで白羽の矢が立てられたのが、徳川家斉です。

次期将軍候補として、他にふさわしい男子がいなかったことや、江戸幕府で老中を務めていた田沼意次と父・一橋治済が画策したことにより、徳川家斉は1781年に徳川家治の養子となります。

そして、1786年に徳川家治が亡くなったため、その翌年にまだ15歳だった徳川家斉が第11代将軍に就任しました。

徳川家斉の先代将軍・徳川家治は愛妻家で大奥をあまり利用しなかった?

徳川家治は、大奥をあまり利用しなかったと言われています。

その理由は「愛妻家だったから」です。

徳川家治の正室は、倫子という宮家出身の女性でした。

代々将軍は、正室を皇室または公卿から迎えるのが習わしで、愛情の有無などない政略結婚が当たり前でした。

そのため、歴代の将軍の正室が不幸な生涯を送りがちだったのもしょうがないことだったのです。

しかし、徳川家治と倫子の夫婦仲は非常に良く、子供が生まれたら2人で可愛がるなど、幸せな日々を過ごしていました。

時には、徳川家治があまりに頻繁に倫子のもとへ通い詰めていたせいで、倫子に付いていた御年寄(大奥の役職で、夜枷も管理していた)から反発が起きたこともあったようです。

徳川家治は、それほどまでに倫子一筋であったため、大奥を利用する必要がなかったのです。

徳川家斉と東京大学の赤門の関係は?

徳川家斉と東京大学の赤門とは、実はつながりがあります。

この赤門は、実は徳川家斉の子・溶姫が嫁ぐ際に作られたものなのです。

子沢山であった徳川家斉は、自分の娘がどこに嫁いだのかわかりやすいように、嫁ぎ先の門を赤く塗らせたと伝えられています。

現在の東京大学のシンボルである赤門こと「御守殿門」もそのうちの1つです。

溶姫が、13代加賀藩主・前田斉泰の正室として、江戸の加賀藩邸に輿入れした際に赤く塗られました。

まとめ:徳川家斉はたくさんの子供を作り、歴代将軍の中で最長の在任期間を誇った

徳川家斉は、その選定眼でその時分にあった人材を起用し、政策を任せ、その一方で子作りにも励み、歴代将軍の中で、最長の在任期間と最多の子供の数を誇りました。

今回の内容をまとめると、

  • 徳川家斉は歴代最長の在任期間だった
  • 徳川家斉は、子供の数も歴代最多だった
  • 徳川家斉は、子沢山だったため幕府と諸大名との繋がりが深くなった
  • 徳川家斉の影響で化政文化が栄えた

『三国志』が好きだった徳川家斉は、自身のことを劉備のような名君ではないと評価しています。しかしながら、50年以上も権力のトップとして君臨していたのは、間違いなく徳川家斉の優秀さを表しているのではないでしょうか?

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