徳川家斉の死因は腹膜炎?病気になりにくい健康法とは?墓所は?晩年の姿は?
徳川家斉(1773(安永2)〜1841(天保12))は、江戸幕府の第11代将軍です。
歴代江戸幕府将軍の中で最も在任期間が長く、また、最も子沢山な将軍として知られています。
そんな徳川家斉はどのようにして亡くなったのでしょうか?
また、徳川家斉は、晩年どのように過ごしていたのでしょうか?
この記事では、徳川家斉の死因や晩年の姿などについて簡単に解説していきます。
目次
徳川家斉の死因は腹膜炎
徳川家斉の死因については、はっきりとは判明していないのですが、晩年疝痛(原因不明の腹痛)により医者にかかっていたことから、「腹膜炎」で亡くなったのではないかと考えられています。
疝痛を患うまでは、在職した50年間のうちで病臥したのは数回の感冒のみでした。
それほどまでに生涯健康的な将軍だったのです。
たくさんの妻や子供がおり、栄華を極めた徳川家斉でしたが、その最期は放置されたままに息を引き取りました。
これにより、侍医長・吉田成方院は責任を問われ、処罰されたという記録が残っています。
なお、命日は、『井関隆子日記』には閏1月7日と記されていましたが、『続徳川実紀』では閏1月30日と記されており、幕府が徳川家斉の死を秘匿したと考えられています。
徳川家斉は生涯病気になりにくかった?その健康法は?
生涯病気になりにくかったという徳川家斉ですが、独自の健康法がありました。
その健康法とは主に3つのことです。
- 早起きと散歩
- 冬でも薄着
- 適度な運動
それぞれ詳しく見ていきましょう。
・早起きと散歩
徳川家斉は、毎日必ず一番鶏が鳴く夜明けには起床していました。
そして、身支度を済ませた後、城内の広大な庭園を隅々までみっちりと散歩するのが日課だったようです。
・冬でも薄着
徳川家斉は、1年を通して薄着で過ごしていたそうです。
どんなに冷え込む季節でも、普段は小袖に胴着のみで、部屋にある炬燵は一切使用せず、手炉(持ち運びできるような小さいストーブ)で軽く温まる程度でした。
・適度な運動
徳川家斉は、1年を通して、月に数回、猛暑や極寒、悪天候を問わずに「鷹狩」に勤しんでいました。
場所は主に江戸近郊や郊外で、自分専用の愛鷹も所持していたようです。
他にも、若い頃は打毬のような激しいスポーツも得意としており、積極的に体力づくりをしていました。
以上のような健康法を心がけていたことから、徳川家斉は生涯健康でいられたのでしょう。
徳川家斉の晩年の姿
生涯酒や女遊びの激しかった徳川家斉ですが、晩年になっても政治は側近任せでした。
しかし、毎晩浴びるように飲みまくっていた酒は、晩年になると節酒に転じたそうです。
そして、世の中が大飢饉や反乱によって不安定になってくると、徳川家斉は将軍の座を徳川家慶に譲ります。
譲った後も、自身は大御所として3年間実権を握り続けたのですが、そのまま亡くなってしまいました。
つまり、徳川家斉は、将軍職に就いてから、死ぬまで実権を握り続けたということになります。
徳川家斉の葬送の様子は絵巻で残されている
徳川家斉の葬送の様子は、絵巻『紙本著色文恭院殿葬送絵巻』に残されています。
この絵巻には、徳川家斉の棺が、東叡山寛永寺から廟所へ向かう葬送行列、埋葬地となった厳有院殿廟前に仮説された仮堂(龕前堂(がんぜんどう))とそこで執行された法要の様子、棺を納める石槨とその上に置かれた石造宝塔の構造などが描かれています。
絵巻では、特に人物注記が細かくされており、さらに行列に並ぶ人々の服装や持ち物などもとても丁寧に描かれていることから、徳川家斉の葬送の様子を視覚的に詳しく伝えてくれる貴重な史料となっているのです。
徳川家斉の墓所は東京都台東区にある寛永寺
徳川家斉の墓所は、寛永寺にあります。
この寛永寺は、徳川将軍家の菩提寺でした。
しかし、徳川将軍家には菩提寺自体が2つ存在しているのです。
元々徳川将軍家の菩提寺は、浄土宗のお寺である増上寺でした。
しかし、徳川家康・徳川秀忠・徳川家光は、天台宗に帰依していました。
徳川家としては浄土宗に所属していたのですが、個人的には天台宗に帰依していたという、少し複雑な状況だったわけですね。
そして、天海という天台宗の僧で、徳川家康の側近だった者が、
「江戸に天台宗の寺を建てさせてくれ」
と希望してきたのです。
そこで、徳川秀忠が現在の上野のあたりに土地を与え、徳川家光がそこにお寺を建てました。それが「寛永寺」です。
ここから、寛永寺は徳川将軍家の菩提寺となるのですが、そこで黙っていないのが元々菩提寺であった増上寺です。
色々と話し合った結果、両方とも徳川将軍家の菩提寺ということになり、その後は交互に将軍を埋葬していくことになりました。
寛永寺
住所:東京都台東区上野桜木1丁目14番11号
開門時間・閉門時間:9時〜17時
歴代徳川将軍の死因と墓所一覧
- 初代将軍:徳川家康 胃がん(享年:75歳) 墓所:日光東照宮
- 2代将軍:徳川秀忠 消化器がん(享年:54歳) 墓所:増上寺
- 3代将軍:徳川家光 脳卒中(享年:48歳) 墓所:日光東照宮(輪王寺)
- 4代将軍:徳川家綱 心筋梗塞(享年:40歳) 墓所:寛永寺
- 5代将軍:徳川綱吉 成人麻疹(享年:64歳) 墓所:寛永寺
- 6代将軍:徳川家宣 インフルエンザ(享年:51歳) 墓所:増上寺
- 7代将軍:徳川家継 急性肺炎(享年:8歳) 墓所:増上寺
- 8代将軍:徳川吉宗 脳卒中(享年:68歳) 墓所:寛永寺
- 9代将軍:徳川家重 脳性麻痺による排尿障害(享年:51歳) 墓所:増上寺
- 10代将軍:徳川家治 脚気による急性心不全(享年:50歳) 墓所:寛永寺
- 11代将軍:徳川家斉 高齢による腹膜炎(享年:69歳) 墓所:寛永寺
- 12代将軍:徳川家慶 暑気あたり(享年:61歳) 墓所:増上寺
- 13代将軍:徳川家定 脚気による急性心不全(享年:35歳) 墓所:寛永寺
- 14代将軍:徳川家茂 脚気による急性心不全(享年:21歳) 墓所:増上寺
- 15代将軍:徳川慶喜 急性肺炎(享年:77歳) 墓所:谷中霊園
徳川家斉に関するQ&A
徳川家斉に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 徳川家斉の妻と子供の数は?
- 徳川家斉は一橋徳川家の出身だった?
- 徳川家斉の先代将軍・徳川家治は愛妻家で大奥をあまり利用しなかった?
- 徳川家斉と東京大学の赤門の関係は?
徳川家斉の妻と子どもの数は?
徳川家斉は、若い頃から大奥に入り浸り、女遊びが激しかったと言われています。
そして、17歳から55歳に至るまで、ほぼ毎年子供が生まれていました。
その結果、妻は正室に加えて、側室や妾の数はわかっているだけでも40人以上、子どもの数もわかっているだけで53人(26男、27女)いたと言われており、加えて、流産した子も7人はいたようです。
これは、歴代将軍の中で見ても、トップの子供の数でした。
徳川家斉は一橋徳川家の出身だった?
将軍となった徳川家斉ですが、実は徳川将軍家の出身ではありません。
元々は、徳川御三卿の1つ、一橋家の2代当主・一橋治済の長男として生まれました。
そのため、本来であれば、徳川家斉はそのまま一橋家を継ぐ予定だったのです。
しかし、先代の将軍である徳川家治の嫡男・徳川家基が急死してしまい、将軍の後継者問題が起こります。
そこで白羽の矢が立てられたのが、徳川家斉です。
次期将軍候補として、他にふさわしい男子がいなかったことや、江戸幕府で老中を務めていた田沼意次と父・一橋治済が画策したことにより、徳川家斉は1781年に徳川家治の養子となります。
そして、1786年に徳川家治が亡くなったため、その翌年にまだ15歳だった徳川家斉が第11代将軍に就任しました。
徳川家斉の先代将軍・徳川家治は愛妻家で大奥をあまり利用しなかった?
徳川家治は、大奥をあまり利用しなかったと言われています。
その理由は「愛妻家だったから」です。
徳川家治の正室は、倫子という宮家出身の女性でした。
代々将軍は、正室を皇室または公卿から迎えるのが習わしで、愛情の有無などない政略結婚が当たり前でした。
そのため、歴代の将軍の正室が不幸な生涯を送りがちだったのもしょうがないことだったのです。
しかし、徳川家治と倫子の夫婦仲は非常に良く、子供が生まれたら2人で可愛がるなど、幸せな日々を過ごしていました。
時には、徳川家治があまりに頻繁に倫子のもとへ通い詰めていたせいで、倫子に付いていた御年寄(大奥の役職で、夜枷も管理していた)から反発が起きたこともあったようです。
徳川家治は、それほどまでに倫子一筋であったため、大奥を利用する必要がなかったのです。
徳川家斉と東京大学の赤門の関係は?
徳川家斉と東京大学の赤門とは、実はつながりがあります。
この赤門は、実は徳川家斉の子・溶姫が嫁ぐ際に作られたものなのです。
子沢山であった徳川家斉は、自分の娘がどこに嫁いだのかわかりやすいように、嫁ぎ先の門を赤く塗らせたと伝えられています。
現在の東京大学のシンボルである赤門こと「御守殿門」もそのうちの1つです。
溶姫が、13代加賀藩主・前田斉泰の正室として、江戸の加賀藩邸に輿入れした際に赤く塗られました。
まとめ:徳川家斉の死因は腹膜炎で、生涯あまり病気にはならなかった
徳川家斉は生涯あまり病気にはなりませんでしたが、晩年疝痛を患うと、そのまま腹膜炎で亡くなってしまいました。しかし、将軍職に就いてから約50年間実権を握り続けたのでした。
今回の内容とまとめると、
- 徳川家斉の死因は腹膜炎
- 徳川家斉は生涯あまり病気にはならなかった
- 徳川家斉の墓所は寛永寺にある
多くの妻や子供に恵まれた徳川家斉でしたが、放置されたまま亡くなるという、とても寂しい最期を迎えてしまいました。子供たちはほとんどが養子や嫁に出てしまっていたから仕方がないにしても、妻は最期を看取りにくるくらいあっても良かったのではないかと考えてしまいます。