徳川家重は大奥が好きだった?なぜ大奥に入り浸っていた?妻は何人いた?
徳川家重(1712(正徳元年)〜1761(宝暦11))は、江戸時代中期に活躍した江戸幕府第9代将軍です。生まれつき体が弱く、障碍があったため言葉が不明瞭でありながらも、人材登用に優れていたことから「隠れた名君」とも言われています。
2024年のテレビドラマ『大奥』で、高橋克典さんが演じられることでも話題となっています。
そんな徳川家重は、大奥にこもっていたという話があります。
徳川家重は、なぜ大奥にこもっていたのでしょうか?
この記事では、徳川家重の大奥や妻との関わり方について簡単に解説していきます。
目次
徳川家重は大奥が好きだった?
徳川家重は大奥にこもって、女遊びをしていたという話があります。
ここでは、徳川家重の大奥との関わり方について簡単に解説していきます。
徳川家重は幼少期から大奥に入り浸っていた?
徳川家重は幼少期から大奥に入り浸っていたと言われています。
それは何故かというと、徳川家重が生まれながらに身体が弱く、障碍を持っていたことに由来します。
この障碍のせいで、徳川家重は言語が不明瞭で、周りとコミュニケーションを取ることが非常に難しかったのです。
周囲の人からなかなか理解を得られず、時には馬鹿にされることもありました。
そのため、自分を攻撃する人がいない大奥にこもるようになってしまったのです。
徳川家重は大奥で遊びすぎて将軍候補から外されるところだった?
幼少期から大奥に入り浸っていた徳川家重ですが、青年になっても酒や色事にふけってばかりの不摂生な生活を送っており、武芸にも学問にも興味を示しませんでした。
自分の様々な苦痛を和らげるためにしていた行為なのでしょうが、周囲の人からしたら、次期将軍候補がそのような生活を送っているのは不満が募るばかりです。
家臣の中には、徳川家重ではなく、弟の徳川宗武を次期将軍候補として跡継ぎにしたほうがいいのではないかと言い出す者も出てきました。
しかし、徳川家重の父で8代将軍・徳川吉宗は、徳川家重を将軍候補として外すことはしませんでした。
この時、徳川吉宗が重要視したのは、「長幼の序」という順序です。
「もし徳川の家が、しかも将軍家たるものが、家の勝手な事情や子供の生まれつきの性質を理由に、後から生まれた子供を将軍にしたとして、全国の大名たちも同じようなことをしたらどうするのか。そうすると、嫡子と庶子、あるいは最初に生まれた子と2番目に生まれた子以下のお家騒動や争いごとになる。だから、相続や将軍職は、正嫡あるいは兄を優先させなければならない。それが徳川である」
つまり、弟の徳川宗武のほうがいくら優秀だからといっても、そちらを優先してしまったら、全国的に混乱が起きてしまうと危惧したわけですね。
こうした徳川吉宗の判断で、徳川家重は遊び呆けていたけれど、無事に将軍になれたというわけです。
徳川家重の妻にはどんな人がいた?
徳川家重は、人とうまくコミュニケーションが取れないため、大奥に引きこもっていました。女遊びをしていて周囲を困らせていた徳川家重ですが、実は妻の人数はそこまで多くありませんでした。
ここでは、徳川家重の妻について簡単に解説していきます。
徳川家重の正室|比宮増子女王
徳川家重は、20歳になった時に、皇族である伏見宮邦永親王の第4王女・比宮増子女王を正室として迎えます。
2人はそれなりに仲睦まじかったようで、結婚の翌年には隅田川で舟遊びをしたという記録が残っているほどです。
結婚から2年後には、増子女王が懐妊し、2人の関係は順調に行っているかと思われました。
しかし、子供は早産・死産の果てに亡くなってしまい、さらに増子女王自身も産後の身体を回復させることができず、そのまま逝去してしまいます。
徳川家重は、その後正室を再び迎えることはありませんでした。
徳川家重の側室|お幸の方(至心院)
お幸の方は、徳川家重の嫡子である徳川家治を産んだ人物です。
この人物は、元々増子女王の女中でしたが、増子女王亡き後、次第に徳川家重から寵愛を受けるようになりました。
世継ぎを産んだお幸の方は「お部屋様」と呼ばれ、我が世の春を満喫します。
しかし、この頃から次第に徳川家重の寵愛が他の側室へと移っていくのです。
世継ぎを産んで盤石かと思われたお幸の方の地位ですが、酒を暴飲する徳川家重に注意を促したせいで、徳川家重から遠ざけられるようになってしまいます。
さらに、徳川家重が他の側室と過ごしていた部屋にお幸の方が入ってくるという事件があり、このことに徳川家重は激怒し、お幸の方を牢に入れてしまうのです。
さすがに「跡継ぎの母親を牢にいれるべきではない」と徳川吉宗が仲裁したことで、お幸の方は解放されましたが、徳川家重との間にできた亀裂はその後も埋まることはありませんでした。
徳川家重の側室|お遊喜の方(お千瀬、お逸、お遊の方、安祥院)
徳川家重の後半生において寵愛を欲しいがままにしたのが、お遊喜の方でした。
お遊喜の方は、徳川家重の次男である徳川重好を産んでいます。
側室として大奥に入った後は、お幸の方の早世もあり、お遊喜の方が専ら大奥の中心人物となっていました。
お遊喜の方は、徳川家重の死後は落飾し、徳川御三卿の1つである清水家を立てて独立した徳川重好のもとで生活を送ったそうです。
大奥とはどのような場所?
徳川家重が入り浸っていた大奥とは、そもそもどのような場所だったのでしょうか?
また、どのような目的で存在していたのでしょうか?
ここでは、大奥について簡単に解説していきます。
大奥の目的は江戸幕府将軍の血を絶やさないこと
大奥とは、江戸城内にある居住区の中でも、特に将軍の妻子が住んでいる場所のことを指します。
大奥が置かれた最大の目的は、
「江戸幕府将軍の世継ぎとなる、血の繋がった男児をもうけること」
当時、将軍の後継者は、血の繋がった男児でなくてはならないという不文律がありました。
そのため、将軍は一夫多妻が当たり前であり、できれば正室、無理でも側室が男児を生むことを期待されていました。
そのための仕組みが、大勢の女性を住まわせた大奥という存在だったのです。
ちなみに、一番大奥を利用していたとされるのは、第11代将軍・徳川家斉です。
徳川家斉は、なんと16人もの女性との間に、53人の子供を授かったと言われています。
これは、歴代徳川将軍の中で断トツトップの子供の数でした。
大奥は、幕府の財政を圧迫していた?
将軍の世継ぎ問題解消を担っていた大奥でしたが、実は幕府の財政を圧迫し続けていたという事実もあります。
大奥では、女中への報酬や側室による浪費などによって、出費がかさんでいたのです。
このことを危惧した、徳川家重の父で第8代将軍である徳川吉宗は、享保の改革の際に、大奥を縮小しようとしています。
しかし、それは失敗に終わり、その後大奥は幕府の財政を圧迫しながら、明治維新が行われるまで続いていくこととなるのです。
まとめ:徳川家重は大奥で遊びまくっていたが、正室は生涯1人しか持たなかった
徳川家重は、幼少期から身体が弱く障碍を持っていたせいで、他人とコミュニケーションが取りづらかったため、大奥に入り浸っていました。そして、酒や色事にふけった生活を送っていたのですが、その生涯で持った正室はたった1人でした。
今回の内容をまとめると、
- 徳川家重は生まれつき身体が弱く障碍を持っていたため大奥に入り浸っていた
- 徳川家重は、大奥で酒や色事にふけった生活を送っていた
- 特川家重は、大奥での女遊びも激しかったが、生涯で正室は1人だけだった
- 徳川家重は、側室も2人しかおらず妻の数自体は少なかった
徳川家重がその生涯で妻を3人しか持たず、それぞれをきちんと愛していたというところを見ると、女遊びにふけっていたのは本当に自身の苦痛を紛らわせるための現実逃避であったのだなと伺えます。正室である増子女王が長生きしていたら、愛妻家として名を馳せることになっていたかもしれませんね。