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空海の死因は病死?最期の姿は?今も生きている?その生涯を簡単に解説!

空海(774(宝亀5)〜835(承和2))は、平安時代初期に活躍した日本の仏教僧です。

真言宗の開祖であり、弘法大師として知られています。

そんな空海はどのようにして亡くなったのでしょうか?

この記事では、空海の死因や最期の姿について簡単に解説していきます。

空海の死因は病死。水銀中毒が有力?

10世紀に書かれた伝真済撰『空海僧都伝』によると、空海の死因は病死でだとされています。

しかし、詳しい病名については判明していません。

状況証拠から、特に有力とされているのは「水銀中毒」です。

まず、吉野地方の修験者の間で「陀羅尼助」という薬が流行っていたことが挙げられます。

この陀羅尼助は、一種の滋養強壮薬として用いられていたのですが、原料が水銀だったのです。

さらに、水銀は仏像の装飾に使われる金メッキの原料となるため、その制作には欠かせないものでした。

空海は、精力的に仏像を制作していたこともあり、先程の陀羅尼助とも合わさって、相当な量の水銀を接種していたと考えられます。

また、晩年は「よう」と呼ばれる悪性の腫れ物ができていたり、肝臓障害にも悩まされていたと言われています。

これらの症状は、水銀中毒が引き起こす症状に当てはまるのです。

以上のことから、空海は水銀中毒で亡くなったのではないかと考えられています。

空海の生涯を年表で簡単に解説!

【空海の年表】

  • 774年(宝亀5年):0歳
    讃岐国で地方豪族の子として誕生する。幼名は真魚(まお)
  • 792年(延暦11年):18歳
    京の大学寮に入る
  • 793年(延暦12年):19歳
    大学寮の勉学に飽き足らず、山に入り仏門修行へと身を投じる
  • 803年(延暦23年):29歳
    遣唐使の長期留学僧として唐へ渡る
  • 806年(大同元年):32歳
    唐にて密教を学び、日本に帰国する
  • 810年(大同5年):36歳
    薬子の変が起こったため、嵯峨天皇につき鎮護国家のための大祈祷を行った
    東大寺第十代別当に就任する
  • 816年(弘仁7年):42歳
    嵯峨天皇より高野山を賜り、高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創する
  • 821年(弘仁12年):47歳
    満濃池の改修を指揮する
  • 823年(弘仁14年):49歳
    朝廷より東寺を賜り、真言密教の道場とする
  • 824年(天長元年):50歳
    朝廷からの命で雨乞いの儀式を行う
  • 828年(天長5年):54歳
    綜芸種智院を開設する
  • 835年(承和2年):61歳
    高野山において御入定される
  • 921年(延喜21年)
    醍醐天皇より「弘法大師」の諡号が贈られる

空海は晩年、闘病しながら弟子たちに言葉を遺した

空海は晩年、先ほどもお伝えしたように、「よう」と呼ばれる悪性の腫れ物ができていたり、肝臓障害にも悩まされていました。

それでもなお、1人でも多くの人を救おうと、真言宗の布教に努めました。

そして、832年(天長9年)には、高野山で「万燈万華会」と呼ばれる初めての法要が開かれます。

この時、空海は願文に以下の想いを表しています。

「虚空尽き 涅槃尽き 衆生尽きなば 我が願いも尽きなむ」

意訳:宇宙が尽きるまで、悟りを求めるものが尽きるまで、生きとし生けるもの全てが輪廻転生して解脱するまで、私の願いは尽きることがない

その後、空海は高野山に隠棲し、穀物を断ち、禅定を好む日々を送り始めます。

そして、835年(承和2年)に空海は自身の死期を悟ると、以下のような遺言を弟子たちに遺しました。

「3月21日の寅の刻に入定し、弥勒菩薩のいる場所へ往生して、56億7千万年後に、弥勒菩薩とともにこの世に戻ってくるだろう。それまでの間は、天より仏道に励む者たちを助けるであろう」

この遺言通り、空海は入定します。

そして、最後の最後まで多くの人を救いたいという意思を貫き通したのです。

空海は今も生きて修行をしている

平安時代に成立した歴史書『続日本紀』には、空海の遺体は荼毘に付されたとされています。

しかし、年月を重ねるに連れ、空海は病死したのではなく、「永遠の瞑想に入った」とする文献が見られるようになります。

真言宗では、空海を「大師」と崇敬し、その入定を死ではなく、禅定に入っているものとしたのです。

つまり、空海は死んでおらず、今もなお高野山奥之院御廟で生き続けて、禅定を続けていると考えられているのです。

そのため、この御廟では、今も1日に2回空海に食事を捧げる「生身供」の儀式が行われています。

空海に関するQ&A

空海に関するQ&Aを簡単に解説していきます。

  • 空海と最澄の関係性は?
  • 空海の功績は?
  • 空海はことわざになっている?

空海と最澄の関係性は?

空海と最澄は、同じ時期に遣唐使として唐へと渡っていますが、そこでは違う船に乗っていたため出会っておらず、帰国後に出会うことになります。

最初にコンタクトを取ったのは最澄の方でした。

最澄は、自身が唐で学べなかった密教を空海から教えてもらおうとしたのです。

2人は手紙のやり取りをしたり、密教典籍の貸し借りをしたりする仲となりました。

しかし、そんな2人の仲にヒビが入る出来事が起こります。

それは、最澄が『理趣釈経』の借用を願い出た時のことでした。

それまで色々な典籍を貸し出してきた空海でしたが、『理趣釈経』に関してはきっぱりと断ったのです。

何故かというと、この『理趣釈経』というものは、真言密教において非常に重要な典籍で、師僧から直接の伝授を受けていない最澄には、これを読む資格がないという理由からでした。

簡単に言うと、

「真言密教の奥義を、師僧から受け取ることなく、典籍の文面だけで学び取ろうとするとは何事だ」

と怒って依頼をつっぱねたわけですね。

さらに、ここに追い打ちをかけるかのように、最澄の愛弟子が離反し、空海の弟子となってしまいます。

これらのことがきっかけとなり、空海と最澄の2人は絶縁状態となってしまいました。

\ 空海と最澄の関係性については、こちらの記事で詳しく解説しております /

空海の功績は?

空海の功績で1番のものは、もちろん真言宗を開宗したことですが、その他にも様々な功績を残しています。

主な功績は以下の通りです。

【空海の功績】

  • 満濃池の堤防を作った
  • 綜藝種智院を開設した
  • 多くの著書や字書を残した

・満濃池の堤防を作った

空海は、香川県にある満濃池の修築工事を、嵯峨天皇より依頼を受け行いました。

そこで空海は、水圧に対してアーチ型の堤防を築くことを提案するという、技術指導を行ったのです。

この約1200年前に作られた堤防は、なんと現在も使用されています。

・綜藝種智院を開設した

空海は、京都に「綜藝種智院」という、日本初の庶民教育機関を開設しました。

日本初の私立学校でもあります。

当時、大学や国立大学への入学は、厳格な身分制度があり、一般庶民が教育を受けるのは難しかったのです。

空海が綜藝種智院を開設したことにより、教育の機会均等が実現しました。

しかし、空海の死後は、後継者が見つからずに廃絶してしまっています。

・多くの著書や字書を残した

空海は、多彩な文化活動にも精を出していました。

『秘密曼荼羅十住心論』や『秘蔵宝鑰』など、数々の著書を残しています。

また、『篆隷万象名義』という日本に現存する最古の漢字字書を作りました。

さらに、中国語やサンスクリット語にも造詣が深いことから、書道や美術の発展にも寄与しています。

特に書道では、嵯峨天皇・橘逸勢に並ぶ三筆の1人に数えられているのです。

空海はことわざになっている?

空海は弘法大師です。

この弘法大師という諡を使用したことわざが、実は2つあります。

  • 「弘法も筆の誤り」
  • 「弘法筆を選ばず」

・弘法も筆の誤り

意味:どんなに優れた技術の持ち主でも間違うことがある

このことわざは、空海の以下のエピソードが由来だと言われています。

あるとき、空海は宮中にあるいくつかの門の額を書くように天皇から勅命を受けました。

そのうちの1つである応天門に掲げる看板を書いて、門に掲げてみると、「応」の文字の最初の点がないことに気付きます。

もう掲げられてしまったが故に、書き直すこともできず、空海はやむを得ず筆を放り投げて点を打ったそうです。

このことから、弘法も筆の誤りということわざが生まれました。

・弘法筆を選ばず

意味:本当の名人にとって道具の良し悪しは関係ない

「本当の名人にとって道具の良し悪しは関係ない」という意味の弘法筆を選ばずということわざですが、実際の空海はそんなことはなかったようです。

それというのも、空海は、職人に注文して作らせた自分専用の筆を愛用し、書体によって筆を何種類か使い分けていたという話があるのです。

いい文字を書くためには、道具にもこだわりたかったのかもしれませんね。

まとめ:空海の死因は病死が有力だが、現在も入定していると信じられている

空海の死因は病死だとされています。しかし、詳しい病名は判明していません。そして、真言宗では、空海は未だに生き続けて入定していると信じられています。

今回の内容をまとめると、

  • 空海の死因は病死
  • 空海の死因である、詳しい病名は判明していないが、水銀中毒が有力である
  • 空海は、真言宗では今も生き続けて入定していると信じられている

現代だと水銀を自ら定期的に摂取するなんて信じられないことです。

しかし、昔の人はそれを滋養強壮薬として摂取していました。空海も水銀を定期的に摂取していなければもっと長生きできたのかもしれないと考えると、非常に惜しまれますね。

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