アフィリエイト広告を利用しています

空海は真言宗の開祖。どんな教え?本山はどこ?四国八十八ヶ所も関係している?

空海(774(宝亀5)〜835(承和2))は、平安時代初期に活躍した日本の仏教僧です。

真言宗の開祖であり、弘法大師として知られています。

そんな空海が開宗した真言宗はどのような宗派なのでしょうか?

この記事では、空海が開宗した真言宗について、その特徴や本山などを簡単に解説していきます。

空海は真言宗を開宗した

空海は、真言宗を開宗した人物です。

遣唐使の留学僧として唐に渡り、密教を学んだ後、帰国して真言宗という宗派を開いたのでした。

開宗の時期ははっきりとはしておらず、806年とも810年とも言われています。

そして、空海はその生涯をかけて、日本国内での布教活動に力を注ぎ、たくさんの功績を残しました。

その功績を称えて、921年(延喜21年)に醍醐天皇より「弘法大師」の諡号が贈られました。

真言宗の教えの特徴

空海の開宗した真言宗とはどのような特徴があるのでしょうか?

簡単に解説していきます。

真言宗の本尊は大日如来です。

そして、即身成仏が大切な教えであるとされています。

即身成仏とは、「今この世に体があるうちに仏になれる」という教えのことです。

そして、仏になるために必要な修行が「三密」と呼ばれる、本来人間が持っている仏心を呼び起こすものです。

自分自身の

  • 身=体の行動
  • 口=言葉
  • 意=心

以上の3つを整えることこそが、三密の修行となります。

つまり、自分自身を深く見つめ直し、仏のような生き方をすることが重要だとしているのです。

また、真言宗では、文字だけではなく図を見ることによって悟りを開けるようにしようとするものもあります。

それが「曼荼羅(まんだら)」です。

曼荼羅は、仏様の世界が描かれたものです。

この曼荼羅から、仏の教えを学んでいくわけですね。

これらが、真言宗の特徴です。

真言宗の総本山は高野山金剛峯寺。真言宗十八本山とは?

空海が真言宗を開宗した当初、真言宗の総本山は高野山金剛峯寺のみでした。

しかし、空海の死後、真言宗は師資相承を重視するための事相(真言密教を実践するための作法)の違いにより、分派に分派を重ねて、最終的に全部で十六派にまで分かれたのです。

この十六派がそれぞれ大きなお寺をとりまとめることとなり、そこに二寺追加され、今では真言宗十八本山と呼ばれるようになりました。

以下、詳しく見ていきましょう。

番号山号寺院名宗派所在地
1五岳山善通寺真言宗善通寺派香川県善通寺市
2上野山須磨寺真言宗須磨寺派兵庫県神戸市須磨区
3蓬莱山清澄寺真言三宝宗兵庫県宝塚市
4紫雲山中山寺真言宗中山寺派兵庫県宝塚市
5嵯峨山大覚寺真言宗大覚寺派京都府京都市右京区
6大内山仁和寺真言宗御室派京都府京都市右京区
7五百佛山智積院真言宗智山派京都府京都市東山区
8月輪山泉涌寺真言宗泉涌寺派京都府京都市東山区
9八幡山教王護国寺(東寺)東寺真言宗京都府京都市南区
10亀甲山勧修寺真言宗山階派京都府京都市山科区
11牛皮山随心院真言宗善通寺派京都府京都市山科区
12深雪山醍醐寺真言宗醍醐派京都府京都市伏見区
13生駒山宝山寺真言律宗奈良県生駒市
14信貴山朝護孫子寺信貴山真言宗奈良県生駒郡
15四王院西大寺真言律宗奈良県奈良市
16豊山長谷寺真言宗豊山派奈良県桜井市
17一乗山根来寺新義真言宗和歌山県岩出市
18高野山金剛峯寺高野山真言宗和歌山県伊都郡
真言宗十八本山

四国八十八ヶ所は真言宗と関係している?

真言宗といえば、四国八十八ヶ所も有名です。

四国は当時、国の中心から遠く離れた場所であり、様々な修行の場とされていました。

空海は讃岐で生まれたこともあり、度々この地で修行することも多く、その縁で八十八ヶ所の寺院などを選び、四国八十八ヶ所霊場を開創されたと言われています。

この四国八十八ヶ所を巡礼することを、「遍路」といい、巡礼者のことを「お遍路さん」と呼んでいます。

このように四国八十八ヶ所は、空海ゆかりの地として発展していったのです。

空海に関するQ&A

空海に関するQ&Aを簡単に解説していきます。

  • 空海と最澄の関係性は?
  • 空海はことわざになっている?
  • 空海は今も生きて修行を続けている?

空海と最澄の関係性は?

空海と最澄は、同じ時期に遣唐使として唐へと渡っていますが、そこでは違う船に乗っていたため出会っておらず、帰国後に出会うことになります。

最初にコンタクトを取ったのは最澄の方でした。

最澄は、自身が唐で学べなかった密教を空海から教えてもらおうとしたのです。

2人は手紙のやり取りをしたり、密教典籍の貸し借りをしたりする仲となりました。

しかし、そんな2人の仲にヒビが入る出来事が起こります。

それは、最澄が『理趣釈経』の借用を願い出た時のことでした。

それまで色々な典籍を貸し出してきた空海でしたが、『理趣釈経』に関してはきっぱりと断ったのです。

何故かというと、この『理趣釈経』というものは、真言密教において非常に重要な典籍で、師僧から直接の伝授を受けていない最澄には、これを読む資格がないという理由からでした。

簡単に言うと、

「真言密教の奥義を、師僧から受け取ることなく、典籍の文面だけで学び取ろうとするとは何事だ」

と怒って依頼をつっぱねたわけですね。

さらに、ここに追い打ちをかけるかのように、最澄の愛弟子が離反し、空海の弟子となってしまいます。

これらのことがきっかけとなり、空海と最澄の2人は絶縁状態となってしまいました。

\空海と最澄の関係に関しては、こちらの記事で詳しく解説しております /

空海はことわざになっている?

空海は弘法大師です。

この弘法大師という諡を使用したことわざが、実は2つあります。

  • 「弘法も筆の誤り」
  • 「弘法筆を選ばず」

・弘法も筆の誤り

意味:どんなに優れた技術の持ち主でも間違うことがある

このことわざは、空海の以下のエピソードが由来だと言われています。

あるとき、空海は宮中にあるいくつかの門の額を書くように天皇から勅命を受けました。

そのうちの1つである応天門に掲げる看板を書いて、門に掲げてみると、「応」の文字の最初の点がないことに気付きます。

もう掲げられてしまったが故に、書き直すこともできず、空海はやむを得ず筆を放り投げて点を打ったそうです。

このことから、弘法も筆の誤りということわざが生まれました。

・弘法筆を選ばず

意味:本当の名人にとって道具の良し悪しは関係ない

「本当の名人にとって道具の良し悪しは関係ない」という意味の弘法筆を選ばずということわざですが、実際の空海はそんなことはなかったようです。

それというのも、空海は、職人に注文して作らせた自分専用の筆を愛用し、書体によって筆を何種類か使い分けていたという話があるのです。

いい文字を書くためには、道具にもこだわりたかったのかもしれませんね。

空海は今も生きて修行を続けている?

真言宗では、空海を「大師」と崇敬し、その入定を死ではなく、禅定に入っているものとしています。

つまり、空海は死んでおらず、今もなお高野山奥之院御廟で生き続けて、禅定を続けていると考えられているのです。

そのため、この御廟では、今も1日に2回空海に食事を捧げる「生身供」の儀式が行われています。

まとめ:空海は真言宗を開宗し、平安時代を代表する宗派となった

空海は、遣唐使として唐へ渡り、密教を学ぶと、その後帰国して真言宗を開宗しました。その真言宗は、貴族を中心に流行し、平安時代を代表する宗派となりました。

今回の内容をまとめると、

  • 空海は真言宗を開宗した
  • 空海が開宗した真言宗は貴族を中心に流行し、平安時代を代表する宗派となった
  • 空海が開宗した真言宗の総本山は高野山金剛峯寺
  • 四国八十八ヶ所も、空海が開宗した真言宗によって開創されたと伝えられている

「四国八十八ヶ所」「遍路」という言葉を一度は聞いたことがあるという人も多いのではないでしょうか?これが約1200年も前に生きていた空海が定めた場所なんだと思えば、より一層ロマンを感じながら巡礼することができるでしょう。

スポンサーリンク

最初のコメントをしよう

必須

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください