松平定信の家系図を簡単に解説!子孫は現在まで続いている?徳川吉宗との関係は?
松平定信(1759(宝暦8)〜1829(文政12))は、江戸時代中期に活躍した大名です。
第11代将軍・徳川家斉のもとで老中となり幕政再建を目指しました。
そんな松平定信の子孫は現在まで続いているのでしょうか?
この記事では、松平定信の家系図を見ながら、その子孫について簡単に解説していきます。
目次
松平定信の家系図をわかりやすく解説!
松平定信の家族構成は?
【松平定信のプロフィール】
松平定信(まつだいらさだのぶ)1759年(宝暦8年)〜1829年(文政12年)享年:72歳
父:田安宗武/母:香詮院
正室:松平定邦の娘
継室:隼姫
側室:貞順院
子:定永、真田幸貫、福姫、清昌院、保寿院、寿姫、蓁、松平輝健正室
松平定信は、御三卿・田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男として誕生します。
松平定信は側室の子でしたが非常に聡明な子であり、長男から四男までが早世し、家督を継いだ五男の徳川治察は病弱かつ凡庸であったため、いずれは田安家を継ぎ、将軍になると期待されていました。
しかし、17歳の頃に松平定邦の養子となることが決まり、そのまま松平定邦の娘を正室として迎えます。
松平定邦の娘との間に子は授かることはありませんでしたが、その後継室と側室との間に2男6女の子を授かりました。
松平定信と徳川吉宗の関係は?
松平定信は、田安徳川家の祖・田安宗武の子として生まれました。
田安宗武の父は、第8代将軍・徳川吉宗です。つまり、将軍の孫だったわけです。
幼少期から聡明で、いずれは田安家を継いで、将軍になるだろうと期待されていました。
しかし、実際は将軍になることはなく、奥州白河藩主・松平定邦のもとへ養子に出されました。
これは、松平定信が田沼意次の政治を「賄賂政治」だと批判したことで、田沼派から不興を買ったためではないかと言われています。
こうして松平定信は、田沼派のせいで将軍候補から外されてしまいました。
そのため、とても田沼意次のことを恨んでいたと考えられています。
その証拠として挙げられるのが、田沼意次に対する処遇です。
老中を辞任させられた田沼意次は、異例な過酷な処分を受けました。
まず、第11代将軍・徳川家斉が着任すると、田沼意次は老中時代に不正があったという罪で蟄居を命じられます。
さらに、江戸と大阪にあった蔵屋敷は没収され、領地であった相良城は破壊され、財産まで没収されてしまうのです。
これは、江戸時代の幕閣に対する処分としては異例の厳しさでした。
この処遇を決めたのが松平定信です。
松平定信は、田沼意次に対する私怨でこのような厳しい処分を下したのではないかと言われています。
松平定信の子孫は現在まで続いている?
松平定信の子供は2男6女の全部で8人いました。
松平定信の子孫は現在まで続いているのでしょうか?
ここでは、松平定信の子孫について簡単に解説していきます。
松平定信の男系の子孫は途絶えてしまった?
松平定信の子供は2男6女の8人です。
6女はそれぞれ大名家に嫁いでいき、2男のうち、松平定永が跡を継ぎ、もう一人の次郎丸は真田家に養子に出ることになり、真田幸貫と名乗るようになりました。
松平定永の代からは、定綱系久松松平家として血統を伝えていくことになりますが、14代当主・松平定教で男系の子孫は途絶えてしまいます。
しかし、その後は女系で血統を伝えていき、その血は現在まで続いています。
養子に出た真田幸貫のほうの子孫も、男系の子孫は途絶えてしまいましたが、女系の子孫が現在まで続いています。
松平定信の子孫で活躍した人は?
松平定信の子孫の中で、特に活躍した人をご紹介していきます。
・松平定教
松平定教は、男系子孫の最後の人物となります。
松平定教が10歳の時に、鳥羽・伏見の戦いが起こります。
この際、松平定教は藩主・松平定敬の代わりに桑名藩を預かっていたのですが、勝利していた新政府側に降伏し、桑名城を無血開城します。
その後、藩主の松平定敬も上海に逃亡しようとしますが失敗し、横浜に戻って降伏するのです。
そして、家督を松平定教が継ぐことになるのですが、廃藩置県が起こり、そのまま桑名藩松平家は事実上解体をすることになります。
しかし、その後の松平定教は横浜やアメリカで英語の勉学に励み、やがてイタリア公使館の書記官として活躍することとなるのです。
つまり、文明開化の新しい世に、その身で貢献していくこととなったのです。
・板倉勝静
板倉勝静は、備中松山藩の藩主としてかなり優秀な人物でした。
藩の産業を活性化させ、藩にあった借金を失くすどころか、余財まで築き上げました。
その功績が買われて、やがて幕府の重職に就くこととなります。
その際の大老は井伊直弼です。
井伊直弼は、自分のやり方に異を唱える人には容赦がなく、意見する人はあまりいませんでした。
しかし、板倉勝静は、それに怯むことなく井伊直弼に意見します。
そのせいで、一時は幕府の職を解任させられてしまいますが、井伊直弼が暗殺されると、再び幕政に戻り、老中首座にまで出世しました。
戊辰戦争で負け、終身刑とされましたが、やがて許されました。
そして第八十六国立銀行、現在の中国銀行の前身を設立しました。
松平定信の子孫は優秀な人物が多い?
松平定信の子孫は現在まで続いていました。
その中にはどのような人物がいたのでしょうか?
ここでは、松平定信の子孫の様子について簡単に解説していきます。
松平定信はあまり子作りに乗り気ではなかった?
松平定信は、2男6女の子供を授かりましたが、実はあまり子作りに乗り気ではありませんでした。
本人の申告によれば、
「房事なども子孫ふやさんとおもへばこそ行ふ。かならずその情慾にたへがたきなどの事はおぼえ侍らず。そのうへ平日これぞうれしきこれぞたのしきとおもふ事はなし」
(意訳:性行為は子孫繁栄のためだけに行っている。性欲が高まって抑えきれないということもないし、快楽を覚えたこともない)
以上のように言っていたようです。
従兄弟の徳川家治も子作りに関してはあまり乗り気ではなく、跡継ぎが生まれると側室のもとにパタッと通わなくなったと言われています。
そのため、これは遺伝なのかもしれません。
松平定信の子孫は出世した人物が多い
あまり子作りに乗り気ではなかった松平定信ですが、きちんと8人の子宝に恵まれ、その子孫は代々続いていきました。
そして、その子孫の中には出世した人物がかなり多いのです。
・松平定信の子孫で老中になった人物
真田幸貫、板倉勝静、諏訪忠誠、内藤信思
・松平定信の子孫で若年寄になった人物
松平近説、土岐頼之
判明しているだけでも、これだけの子孫たちが幕府の重職に就いています。
松平定信の優秀な血が、子孫にもしっかりと流れていることが伺えますね。
まとめ:松平定信の子孫は現在まで続いており、子孫も優秀な人物が多かった
松平定信は、2男6女の全部で8人子供を残しました。男系の子孫は途絶えてしまいましたが、女系の子孫は現在まで続いています。
今回の内容をまとめると、
- 松平定信の子供は2男6女の8人
- 松平定信の男系子孫は途絶えてしまったが、女系子孫は現在まで続いている
- 松平定信の子孫の中には、老中や若年寄を務めるなど出世した優秀な人物が揃っている
松平定信も、政治に初めて行政の福祉サービスを取り入れるなど、非常に優秀な人物でしたが、その子孫たちも政治の重職についているところを見ると、その血が確かに受け継がれているのだなと思わざるを得ませんね。