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松平定信の改革内容は?寛政の改革とは?どんな政策だった?なぜ失脚した?

松平定信(1759(宝暦8)〜1829(文政12))は、江戸時代中期に活躍した大名です。第11代将軍・徳川家斉のもとで老中となり幕政再建を目指しました。

また、第8代将軍・徳川吉宗の孫にあたる人物でもあり、一時は次期将軍候補とも言われていました。

そんな松平定信は老中として改革を行っています。

それはどのような改革だったのでしょうか?

この記事では、松平定信が行った改革について簡単に解説していきます。

松平定信の改革は寛政の改革。その特徴は?

松平定信の改革は「寛政の改革」と呼ばれています。

それはどのような改革だったのでしょうか?

ここでは、松平定信の改革の特徴について簡単に解説していきます。

松平定信は改革で、田沼時代の悪習を一掃し、質素倹約を目指した?

松平定信が老中に就任する前は、田沼時代と呼ばれ、老中・田沼意次による商業中心の政治が行われていました。しかし、その際に、度重なる天災が起きてしまうのです。

その結果、農村部から人が消え、江戸に多くの人々が流入してしまいました。

幕府の財政の基盤は、あくまで農村から挙げられる年貢収入です。

しかし、農村が荒廃していき、幕府の財政は傾いていく一方でした。

さらに、江戸に流入してきた農民たちの中には、生活基盤が築けずに、いわゆるホームレスのようになってしまっている人たちも出てきました。

また、田沼時代は役人間での賄賂も横行しており、とにかく国中が荒れてしまっている状態だったのです。

そこで田沼意次が失脚し、代わりに老中となったのが松平定信でした。

松平定信が目指したのは、田沼時代の悪習を一掃し、質素倹約を心がけ、クリーンで統制が取れた幕藩体制です。

また、松平定信は税を民に還元する「国民福祉」の思想を取り入れ始めます。

それまでは、税を取る対価として行政サービスを施すという現代と同じような仕組みは全くありませんでした。

松平定信は、天明の大飢饉などの致命的な打撃を受け、国が国民を救うための貯蓄などを始めたのです。

このような取り組みは現代に続く税制に影響を与えていると言っても過言ではないでしょう。

寛政の改革は江戸の三大改革の1つ?

松平定信が行った寛政の改革は、江戸の三大改革の1つに数えられています。

江戸の三大改革は以下の通りです。

  • 享保の改革(1716〜1745):将軍・徳川吉宗:主導した人物・徳川吉宗

「上げ米の制」や「株仲間」の結成を公認するなどして、財政再建を目指した。

  • 寛政の改革(1787〜1793):将軍・徳川家斉:主導した人物・松平定信

享保の改革を参考に財政再建を目指しつつ、飢饉などの凶作を乗り切るための政策を実施した。

  • 天保の改革(1841〜1843):将軍・徳川家慶:主導した人物・水野忠邦

株仲間の解散などを通して、凶作による物価高の解消を図った。

松平定信は改革で何をした?その内容は?

松平定信の改革である寛政の改革は、江戸の三大改革の1つに数えられていました。

それでは、実際にどのようなことをしたのでしょうか?

ここでは、寛政の改革の内容について簡単に解説していきます。

倹約を徹底する政策を数々出した?

松平定信は、幕府が率先して倹約し、支出を減らすことをまず行いました。

それは、自分の祖父である8代将軍・徳川吉宗の享保の改革を手本としていたこともあったでしょう。

  • 大奥の支出を3分の1に減らした
  • 旗本・御家人に対して「贅沢禁止令」を発布
  • 朝廷にも経費の節約を要請
  • 民衆にも贅沢を厳しく禁止

このように、各所に厳しい倹約を求めた松平定信ですが、その一方でその倹約を今後のために活かそうとした政策もありました。

それが、「囲い米」や「七分積金」という制度です。

囲い米は、凶作や天災によって作物が取れなくなっても、しばらくの間は民衆が飢えないようにするために米を備蓄する制度です。大名に1万石につき50石の米を蓄えさせました。

また、七分積金は、江戸のみで行われた、米や穀物だけではなく、お金を積み立てて有事に備えるという制度です。

天明の打ちこわしのように、国民が飢えて権力にたてつくことを防止しようとしたわけですね。

武士やホームレスを救済しようとした?

倹約を柱としていた松平定信ですが、「棄捐令」というものを出しています。

これは、旗本・御家人の札差からの借金で、6年以上経っているものは帳消しにするというものです。

つまり、借金で困っていた武士を救済しようとしたわけです。

借金がなくなった武士たちは、大いに喜び、松平定信のことを「世直し大明神」と呼んで拝んだと言われています。

また、救済したのは武士だけではありません。

田沼時代に農村部から江戸に流入したものの生活基盤が築けず、ホームレスとなってしまった人々も救済しようとします。

主に行ったことは「人足寄場」の設置と、「旧里帰農令」の発布です。

人足寄場とは、いわゆる職業訓練所です。帰る農村がなくなりホームレスとなってしまっている人たちを強制的に収容し、職業訓練をさせました。

こうすることにより、様々な技術を習得させ、独立できるようにサポートしたのです。

また、旧里帰農令は、江戸に流入した農民に、旅費を支給して帰村を奨励したものです。

帰村を奨励することにより、荒廃した農村部を再び活性化させようと狙ったわけですね。

このように、様々な人々の生活をサポートするような制度を出すことにより、荒れてしまった江戸ないし国中を、落ち着かせようとしました。

思想を統一しようとした?

松平定信は、改革を進めていく中で、

「世が混乱してしまうのは道徳心が欠如しているからである」

という考えに至ります。

そこで出したのが「寛政異学の禁」というものです。

寛政異学の禁では、朱子学を正学とし、それ以外の学問を禁じました。また、新しい書物の出版も原則として禁ずるなどの厳しい言論統制も行います。

松平定信がなぜ朱子学を正学としたのかというと、朱子学は「忠」と「孝」を重んじており、非常に秩序というものを大事にしていたからです。

つまり、幕府の権威を護持し、忠誠の重要さを説くためにはもってこいだったわけですね。

松平定信はなぜ失脚した?

松平定信の改革は一定の成果を上げましたが、僅か6年で老中を失脚することとなります。

松平定信はなぜ失脚することになってしまったのでしょうか?

ここでは、松平定信が失脚した理由などを簡単に解説していきます。

庶民の不満が高まり狂歌が生まれた?

松平定信の改革は、幕府の財政を一時的に潤わせ、人々の生活も安定させました。

しかし、厳しすぎる倹約や統制は、次第に世間の反感を招くようになっていきます。

その世間の不満を表している狂歌が2つあります。

「白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」

(意訳:白河藩出身の松平定信の政治は清廉を求めすぎており、賄賂は横行していたが商業活動が盛んだった昔の田沼意次の政治がなつかしい)

「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶというて 夜も寝られず」

(意訳:文武に励めという松平定信の政治がうるさくて仕方ない)

どちらの狂歌にも、松平定信の政治に嫌気が差しているのがよく伝わってきますね。

最後は将軍と対立して失脚した?

民衆の不満が高まっていたある時のことです。

時の将軍・徳川家斉が実父に大御所の称号を贈って、徳川治斉を江戸城に迎え入れようとします。

しかし、曲がったことが嫌いな松平定信は、「大御所は隠居した将軍にのみ許される」としてこれを却下してしまうのです。

このことや尊号一件などの出来事がきっかけとなり、松平定信は1793年に老中の座を解任させられてしまいます。

これを機に、老中ではなく将軍自らが直接政治を司る「新政時代」が始まっていくのです。

まとめ:松平定信の改革は寛政の改革で、厳しい倹約や統制が敷かれた

松平定信は、自身の改革で田沼時代の悪習を一掃し、クリーンで統制の取れた幕藩体制を目指しました。その結果、とても厳しい倹約や統制が敷かれることとなりました。

今回の内容をまとめると、

  • 松平定信が行った改革は寛政の改革
  • 松平定信が行った寛政の改革は、江戸の三大改革の1つ
  • 松平定信は、寛政の改革によって田沼時代の悪習を一掃し、クリーンで統制の取れた幕藩体制を目指した
  • 松平定信の寛政の改革は、とても厳しい倹約や統制が敷かれた

厳しすぎる倹約や統制により、民衆から不満が出て追放されてしまった松平定信ですが、国民福祉という概念を政治に取り入れたという点で、非常に優秀な人物であったということが伺えますね。

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