室町幕府滅亡の理由を徹底解説!いつ、誰が室町幕府を滅ぼしたのか?
鎌倉幕府を滅亡させた足利尊氏が征夷大将軍に任命され、始まった室町幕府ですが、第15代将軍 足利義昭で終わりを迎えます。
室町幕府が滅亡した頃は、世は戦国時代に突入し、各地の戦国大名が力と力をぶつけ合っていました。
そんな中、頭一つ飛び出した織田信長によって、第15代将軍の足利義昭が京都から追放されることで、室町幕府が滅亡したのです。
今回は、約240年続いた室町幕府が滅亡した背景に迫っていきます。
目次
室町幕府の滅亡はいつ?
室町幕府が滅亡したのは、1573年のことでした。
織田信長が15代将軍 足利義昭を、室町幕府がある京の都から追放したことが滅亡とされています。
「行こう涙の室町滅亡」と語呂合わせで覚えている方も多いのではないでしょうか?
「い(1)こう(5)な(7)み(3)だ」と、西暦を当てはめることができる語呂合わせです。
室町幕府が事実上滅亡したのは、織田信長が足利義昭を室町幕府があった京都から追放した時でした。
室町幕府が形式上滅亡したのは、足利義昭が将軍職を朝廷に返上した時です。
事実上滅亡してから、形式上滅亡するまでの間はなんと16年間もあります。
他にはあまりない室町幕府ならではの特徴といえるでしょう。
室町幕府が滅亡したのはなぜ?その理由は3つ!
室町幕府が滅亡した理由は大きく3つあると考えられていいます。
- 応仁の乱で室町幕府の将軍職の権威が失墜した
- 明応の政変の後に、戦国時代に突入していった
- 織田信長を筆頭とした、戦国大名が勢力を拡大していった
一つ目は、応仁の乱です。
家督を巡る争いが将軍家で勃発します。そこに、代々将軍の補佐を行っている一族の利害関係も絡み合い、身内同士での争いが次々に勃発します。
まず、第8代将軍の足利義政の息子の義尚と、義政の弟の義視との争いがおこりました。
また、守護大名の畠山家の当主の畠山持国の実弟である畠山持冨と、持国の実子である畠山義就とで家督争いがおこります。
さらに、斯波家でも、当主の斯波義健に後継ぎないなかったことから、斯波義敏が一族から養子として迎えられますが、重臣の渋川氏との相性が悪く、渋川氏の後ろ盾を持つ養子である斯波義簾との家督争いが勃発します。
さらに、細川氏でも山名宗全と細川勝元が、幕府の実権を握ろうとして、それぞれが足利義尚と義視を支援したため、対立が激化していきます。
この応仁の乱は、室町幕府の権威が失墜する大きな原因となりました。
二つ目は、明応の政変です。
これは、代々将軍の補佐を行っていた細川政元が、第10代将軍の足利義植に対して起こしたクーデターです。
足利義稙は応仁の乱で家督争いを行っていた足利義視の息子です。
応仁の乱では足利義尚軍に押され、父の義視と共に土佐の地へと落ち延びていた義稙でしたが、第9代将軍の足利義尚が死去すると、京に戻され第10代将軍へと就任します。
これに納得できなかったのが、足利義視勢と争っていた細川政元です。
足利義稙が京の地を離れている間に、クーデターをおこし、細川家が支持する足利義澄を第11代将軍に据てしまいました。
当然、幕府内は大混乱。
こうして、応仁の乱で疲弊していた幕府権威がますます失墜していったのです。
ここが、戦国時代の始まりであると主張する研究者もいるほどの、ターニングポイントとなる大きな出来事でした。
三つ目は、織田信長を筆頭とした、戦国大名が勢力を拡大した。
室町幕府の権威が失われていくのに比例して、各地の武士たちが力をつけてきました。この武士たちが戦国大名となり、時代は戦国時代に突入していきました。そんな中、尾張の地を支配していた一人の大名が織田信長が頭角を現してきます。
織田信長は、最初は第15代将軍 足利義昭に協力的でした。
しかし、しだいに両者の中は対立していき、争いは最終的には織田信長が勝利します。
織田信長が京都から足利義昭を追放することで、事実上室町幕府は滅亡したのです。
このように、応仁の乱から室町幕府滅亡へのカウントダウンは始まっていたのです。滅亡への道のはじまりが、将軍家・守護大名の家督争いなんて。。自分たちの権力を威厳を保とうとした、人間の欲が結果的に自分たちを滅ぼしたのです。
応仁の乱から滅亡へのカウントダウンは始まっていた
室町幕府が滅亡への道を歩み始めた一歩目は、応仁の乱といえるでしょう。
応仁の乱は、3本のお世継ぎ問題がはしらになっています。
室町幕府は、足利家が就任する征夷大将軍を筆頭に掲げ、ナンバー2の補佐役の位置を3つの家(畠山家と細川家と斯波家)が担っていました。
補佐役が「管領」と呼ばれていたことから、3管領とよばれていました。
そんな、室町幕府の中枢を担う守護大名の畠山家と斯波家で後継ぎ問題が発生します。
問題の原因は、養子を迎えた後に実子が生まれたことによるものだったり、迎えた養子が重臣と折り合いが悪かったりといったものでした。
そのころ、第8第将軍の足利義政も正妻(日野富子)に子どもが出来ない問題を抱えていました。
そこで義政は自分の弟の足利義視を養子に迎え、次期将軍に指名しました。
ところが、その後、正妻に実子が生まれたため、次期将軍にと変更します。
しかし、足利義視は納得できません。こうして足利将軍家でも、義視と義尚との、お世継ぎ争いが勃発したのです。
室町幕府の中枢を担う大名達のお世継ぎ争いは、3管領の残りの1つである細川家の内部が足利義視派と足利義尚派にわかれることにより、さらに大きく発展していきます。
畠山家と斯波家も自分たちの争いの派閥をそれぞれ、義視派と義尚派に付けたことにより、西と東にわかれる大きな争いになっていきました。
これが応仁の乱です。
応仁の乱は、約11年間もの間続き、室町幕府があった京の都は焼け野原となりました。都としての機能は崩壊し、急速に室町幕府の権力が衰退していきます。
応仁の乱が勃発したのは、1467年(応仁元年)。
「人世むなしい応仁の乱」との語呂合わせが有名ですよね。
「ひと(1)よ(4)む(6)な(7)しい」と西暦を当てはめていきます。
応仁の乱は、この語呂合わせの通り、まさにむなしさだけが残る11年間だったといえるかもしれません。
明応の政変の与えた影響
明応の政変は1493年に将軍家の側近の細川政元が起こしたクーデターです。第10代将軍の足利義稙を将軍から引きずり下ろし、細川家が支持する足利義澄を第11代将軍に据えたものです。
第10代将軍の足利義稙は、1493年、応仁の乱の影響でまだ争いを続けている畠山家の鎮静化に自ら出陣します。
足利義稙が京を離れているそのすきに、細川政元は、義稙派の屋敷や寺を徹底的に破壊します。
そして、義稙を将軍から廃して足利義澄を第11代将軍に擁立することを一方的に公表してしまうのです。
その間、わずか1週間でした。
急に将軍が変ったことにより、室町幕府内は大混乱です。ただでさせ応仁の乱で疲弊していた幕府の力は衰退の一途をたどっていきます。
もはや幕府の力に頼ってはいられないと、各地で一揆が勃発し始めます。
これが、戦国時代の幕開けとなったとも考えられており、明応の政変こそが、その後の戦国時代の始まりとする説も有力です。
戦国大名が力を強めていった
室町幕府の力が衰退するのに伴い、各地で力をつけた武士たちが現れました。
この武士たちが戦国大名とよばれるものたちです。
越後からは上杉謙信が、駿河からは今川義元が台頭してきます。
他にも、北条氏康や武田信玄、毛利元就などといった有名な武将だちが台頭してきたのもこの時代です。
こうした武士たちは、荘園を守っていた大名を倒し、領地を奪う下剋上も頻繁に起こるようになります。
こうして世の中が、地位が低いものでも力をつけて名をあげられる時代と変化していったのです。戦国時代の突入です。
室町幕府の滅亡。最後の将軍 第15代「足利義昭」
第15代将軍の足利義昭の時、室町幕府は滅亡を迎えます。室町幕府を滅亡させたのが、尾張地方の戦国大名である織田信長でした。
足利義昭は無能な将軍だったのか?
室町幕府の最後の将軍となった足利義昭はどのような人物だったのでしょうか。貧乏公方や傀儡といったイメージを持たれることも多い足利義昭ですが、実際は
筆まめで外交力もあり、行動的で粘り強く行動し続けられる人物であったと考えられています。
その性格を示すエピソードとして、
最終的に織田信長に京都を追い出されてしまった足利義昭は、京都を離れてもなお、何度も何度も見方を募り、織田信長を倒そうと、将軍位に返り咲こうと画策しています。
将軍になった直後は、少し年上の織田信長を「室町殿御父」と呼び、まるで父のようだと慕うほど、一時は信頼し合う仲だった足利義昭。
将軍になったときは、堂々としていたのが、京都を追放されるときは下をむき、「貧乏性軍」と呼ばれる有様でした。
しかし、そんな逆風の中でも、援軍を募り、将軍へ返り咲こう・織田信長を倒そうとするその気概は、決して無能な人間のできることではないでしょう。
室町幕府を滅ぼしたのは織田信長。足利義昭と織田信長の争い
無事に将軍となることのできた足利義昭でしたが、もはや自分よりも織田信長の方が、権力が強いことを痛感することとなります。
筆まめで各地の大名へ頻繁に手紙を送っていた足利義昭。
「自分には将軍という張りぼてしか持っているものがない」と嘆いた手紙が残っているそうです。
ますます力をつけていく織田信長は、足利義昭に対して、幕府に対して様々な要求をするようになります。
信長はまず最初に、足利義昭に「五か条の条書」をつきつけ、政治関連は全て、信長に任せる事を約束させます。
その2年後にさらに今度は「十七条のご意見書」をつきつけ、義昭の行う行動を痛烈に避難したのです。
これにより、二人の対立は決定的なものとなっていきます。
危機を感じた足利義昭も各地の大名に織田信長の討伐を命じますが、聞き入れられることはなく、あえなく失敗に終わります。
1573年、織田信長の援軍が、三方ヶ原の戦いで、最大のライバルだった武田信玄に大敗を喫したことをチャンスと受け、足利義昭は織田信長に対して攻撃を仕掛けます。
足利義昭が自ら二条城にこもって挙兵したのです。
足利義昭は、武田信玄と連携を結び、織田信長包囲網を確立しました。
この時は、最終的には天皇の勅命により和解となりましたが、足利義昭は織田信長を討つことで頭がいっぱいです。
今がチャンスとばかりに、和解のわずか3ヶ月後に再び挙兵します。
義昭は、槇島城に籠り、武田信玄の援軍を待ったのです。
しかしいくら待てども、援軍は来ませんでした。
足利義昭が再挙兵した時、すでに武田信玄は病に倒れ、この世を去っていたのです。
織田信長は槇島城を攻め入り、足利義昭を京の都から追放してしまいます。
この時が、室町幕府の事実上滅亡です。
では、なぜ織田信長は足利義昭を殺害せず、追放したのでしょうか?
それは、「将軍」を殺してしまうと、大義を失い、自分の声望が落ちる事を織田信長は知っていたからです。
足利義昭は、「これ(将軍という地位)しか持っていない」と嘆いていた、その将軍という地位によって、命が奪われることなく追放されたというわけです。
まとめ:室町幕府が滅亡した理由は、応仁の乱から始まっていた
室町幕府が滅亡は、応仁の乱が勃発した時から始まっていました。
簡単にまとめると、
- 応仁の乱で将軍家と守護代が争った
- 明応の変をきっかけに各地で一揆などが頻発した
- 最終的には織田信長の武力に屈し、将軍足利義昭は京都から追放され、室町幕府は滅亡した
応仁の乱の原因は、家督争いです。
家を存続させたいとの思いが根本にあるからこそ発生したのだと思います。すると、この争いが最終的には滅亡へ繋がってしまっていることは、なんとも皮肉なことですね。
助かりました!一つ見てて気になったところがあったんですが
応仁の乱のところで実権を実験と間違っていたと思います!
見間違えだったらごめんなさい!
とてもわかりやすかったです
コメントありがとうございます^^
また、ご指摘ありがとうございます!
今、修正させていただきました。
今後とも、歴史を楽しくわかってもらえるようコンテンツを作っていきたいと思います。
これからも宜しくお願いいたします♪