藤原宣孝の家系図をわかりやすく解説!子孫は現在まで続いてる?紫式部との関係は?
藤原宣孝(不明〜1001(長保3年))は、平安時代中期に活躍した貴族です。
平安時代の女流作家・紫式部の夫としても知られています。
また、2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、佐々木蔵之介さんが演じられることでも話題となっています。
そんな藤原宣孝の子孫は現在まで続いているのでしょうか?
この記事では、藤原宣孝の家系図を見ながら、その子孫について簡単に解説していきます。
目次
藤原宣孝の家系図
藤原宣孝のプロフィール
【藤原宣孝のプロフィール】
藤原宣孝(ふじわらののぶたか) 不明〜1001年(長保3年) 享年:不明
父:藤原為輔 / 母:藤原守義の娘
妻:藤原顕猷の娘、平季明の娘、藤原朝成の娘、紫式部
子:隆光、頼宣、隆佐、明懐、賢子(大弐三位)、儀明、藤原道雅室
藤原宣孝は、平安時代中期の公卿・藤原為輔の子として生まれます。
その生年については詳細な記録がなく、はっきりとは判明していません。
藤原宣孝が、歴史上初めて登場したのは、『小右記』の982年(天元5年)正月3日条に左衛門尉として記載されているところでした。
藤原北家出身の貴族として育った藤原宣孝は、数々の要職を歴任していくこととなります。
妻も複数迎えており、中には『源氏物語』の作者として有名な紫式部もいます。
子宝にも恵まれ、全部で7人の子を授かりました。
藤原宣孝は紫式部の夫
先ほどもお伝えしたように、藤原宣孝は『源氏物語』の作者として有名な紫式部の夫としても知られています。
藤原宣孝と紫式部が結婚したのは、998年頃だと言われています。
その年の差は、なんと20歳ほどもありました。
紫式部からしてみると、父親とほとんど年の変わらない人なわけです。
そんな2人がなぜ結婚することになったのでしょうか?
それは、藤原宣孝が猛アプローチしたからです。
この際、藤原宣孝には、すでに複数の妻や恋人、さらには子供までいたのですが、そんなことはお構いなしに、紫式部に手紙にて猛アプローチを仕掛けました。
そんなアプローチをされても、最初は紫式部の反応はそっけなかったようです。
それを現しているエピソードがあります。
ある時、藤原宣孝は手紙の上に朱を振りかけて、「涙の色を見てください」と手紙を送ります。
それに対して紫式部は、
「くれなゐの 涙ぞいとど うとまるる うつる心の 色に見ゆれば」
(訳:紅の涙などというと、ますます疎ましく思います。変わりやすい心が、この色ではっきりと見えているので)
以上のような歌を返しているのです。
紫式部は、藤原宣孝が他の女性にも声をかけているのを知っていたようで、なかなか藤原宣孝のことを信用できなかったため、そっけない態度になってしまっていました。
しかし、本当に興味がないのならば、返事をしなければよいのですから、きちんと返歌をしている時点で、紫式部もこの恋の駆け引きを楽しんでいたのでしょう。
このような藤原宣孝による猛アプローチの末、ついに2人は結婚することになったというわけです。
藤原宣孝の子孫は現在まで続いており、中には天皇もいる
藤原宣孝は、7人の子供を残しました。
その中でも、特に子孫が続いているのが、隆光の家系と賢子の家系です。
藤原宣孝と藤原顕猷の娘の子・隆光の子孫には、藤原璋子という人物がいます。
この藤原璋子は、鳥羽天皇に入内し、崇徳天皇と後白河天皇の母となりました。
さらに、藤原宣孝と紫式部の子・賢子の子孫には、土御門天皇の母となった源在子がいます。
つまり、そこから今上天皇に続く歴代天皇は、藤原宣孝の子孫ということになるのです。
このように、藤原宣孝の子孫は現在まで続いています。
藤原宣孝に関するQ&A
藤原宣孝に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 藤原宣孝と藤原為時の関係性は?
- 藤原宣孝と藤原道長の関係性は?
- 藤原宣孝の『枕草子』でのエピソードは?
藤原宣孝と藤原為時の関係性は?
藤原宣孝と、紫式部の父親である藤原為時は、同僚で親しい間柄であったと言われています。
また、藤原宣孝の父・為輔と藤原為時は従兄弟でもあるため、藤原宣孝と紫式部はまたいとこの関係でもありました。
そのため、藤原宣孝と紫式部は、藤原為時の紹介で出会ったのではないかとする説も存在します。
藤原宣孝と藤原道長の関係性は?
藤原宣孝も藤原道長も同じ藤原北家の出身ですが、10親等以上離れており、ほとんど関係はありませんでした。
しかし、藤原宣孝は紫式部との結婚から数カ月後、山城守に任ぜられ出世します。
山城守となった藤原宣孝は、時の権力者であった藤原道長と接点を持つようになりました。
999年の11月には、藤原道長の娘の彰子が一条天皇の女御となるのですが、藤原宣孝はその際に祝いの席の警護を担当しています。
また、同年には豊前国の宇佐神宮への奉幣使にも任じられ、藤原道長から直々に命を受けて一条天皇に拝謁しています。
藤原宣孝の『枕草子』でのエピソードは?
藤原宣孝は、『枕草子』にて、清少納言に以下のように話しています。
「あはれなるもの、孝ある人の子。よき男の若きが御嶽精進したる。(中略)なほいみじき人と聞ゆれど、こよなくやつれてこそ詣づと知りたれ」
(『枕草子』115段より)
この段で、清少納言は
「父母を敬う身分の若い男性が、御嶽詣での前に精進している姿は、しみじみと感じられて良い(中略)よほど身分の高い人であっても、御嶽には質素な身なりで参詣するものだと聞く」
と言った後、藤原宣孝に関する噂話を口にするのです。
「藤原宣孝は、『清潔な着物を着て参詣すれば、何の問題もないだろう。御嶽の蔵王権現様がみすぼらしい着物で参れと言ったわけではあるまい』と驚くほど派手な着物を着て、息子とともに参詣したと言います。参詣で藤原宣孝父子を見た人々は、こんな姿の人は見たことがないと驚いたそうです。しかし、参詣から帰って1ヶ月ほどで藤原宣孝は筑前守に任じられたので、『(藤原宣孝の)言葉に間違いはなかった』と評判になりました」
このエピソードから、藤原宣孝のおおらかな人柄が伺えますね。
まとめ:藤原宣孝の家系図からは紫式部の夫で、その子孫も現在まで続いている
藤原宣孝は、複数の妻を持ち、7人の子供に恵まれました。その妻の中には、『源氏物語』で有名な紫式部もいました。子孫たちは現在まで続いています。
今回の内容をまとめると、
- 藤原宣孝は7人の子供に恵まれた
- 藤原宣孝は、紫式部の夫だった
- 藤原宣孝の子孫には今上天皇などがおり、現在までその血は受け継がれている
自分の子孫が天皇家に嫁いでいたわけですから、藤原宣孝は天皇家の親戚となっていたわけです。もっと長生きしていたのならば、藤原宣孝が権力を握っていた世界もあったのかもしれませんね。