藤原宣孝の死因は疫病?晩年の姿は?紫式部の『源氏物語』が生まれるきっかけになった?
藤原宣孝(不明〜1001(長保3年))は、平安時代中期に活躍した貴族です。
平安時代の女流作家・紫式部の夫としても知られています。
また、2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、佐々木蔵之介さんが演じられることでも話題となっています。
そんな藤原宣孝はどのようにして亡くなったのでしょうか?
この記事では、藤原宣孝の死因などについて簡単に解説していきます。
目次
藤原宣孝の死因は疫病
藤原宣孝の死因は、はっきりとは判明していないのですが、亡くなる前年の冬から流行っていた病に罹って亡くなった説が有力とされています。
また、『権記』長保3年2月5日条では以下のような記載がされています。
「……右衛門権佐宣孝朝臣又申痔病発動之由……」
(訳:右衛門権佐である藤原宣孝が病を申し出てきた。どうやら再発したらしい)
ここから、藤原宣孝は、亡くなる直前に何かしらの痔病に罹っていたことがわかるのです。
実際、深刻な下血があったのは確かなようで、そのため、内臓を患って亡くなったのではないかとも推定されています。
藤原宣孝の晩年の姿
藤原宣孝は晩年になってから、紫式部と結婚しました。
紫式部との結婚後は、豊前国宇佐神宮の奉幣使に派遣されたり、平野臨時祭の勅使となったり、相撲の召合に武官として列席したり、殿上音楽にも出仕したりと多忙な日々を送っていたのです。
山城守にも任命され、出世街道まっしぐらであり、紫式部との間にも娘・賢子が生まれるなど、公私ともに絶好調であったと言えるでしょう。
しかし、1001年2月5日には、春日祭使を辞退しているのです。
先ほどもお伝えしたように、『権記』の記述によればこのあたりから藤原宣孝は痔病が発動しています。
そして、そのまま同年4月に急逝してしまうのです。
紫式部との結婚生活は、わずか3年ほどで終わりを迎えてしまいました。
藤原宣孝が亡くなった際、紫式部は和歌を捧げた
紫式部は藤原宣孝が亡くなった際、以下のような和歌を捧げました。
「なにかこの ほどなき袖を ぬらすらむ 霞の衣 なべて着る世に」
(訳:取るに足りない私は、どうして夫の死を悲しんで袖を濡らしているのでしょう。国中の方が喪服を着ている時に)
※この際、円融天皇の女御で、一条天皇の母である藤原詮子が崩御しており、京都の貴族たちも皆喪服を着ていた
「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつまじき 塩釜の浦」
(訳:連れ添った人が煙となった夕べから、(海藻を焼いて塩を採ることで知られる)「塩竈の浦」という名に親しみさえ感じるようになりました)
これらの歌から、紫式部が藤原宣孝のことを慕っていたということが伺えますね。
藤原宣孝が亡くなったことがきっかけで『源氏物語』が生まれた
愛する夫に結婚3年目で先立たれ、突如としてシングルマザーになってしまった紫式部は深い悲しみに包まれます。
しかし、この不幸な境遇が、実は『源氏物語』を生み出すきっかけとなったのです。
紫式部は、藤原宣孝の死後、その悲しみや将来の不安を紛らわせるために、友人たちと「物語」についての感想を語り合ったり、手紙をやりとりするようになりました。
多くの学者たちの間では、これが『源氏物語』を執筆する大きなきっかけとなったと考えられているのです。
つまり、紫式部にとって『源氏物語』を執筆することは、さみしい気持ちや不安な気持ちを癒やす時間であった可能性があります。
藤原宣孝との死別がなければ、世界最古の長編小説である『源氏物語』は生まれていなかったかもしれませんね。
藤原宣孝に関するQ&A
藤原宣孝に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 藤原宣孝と藤原為時の関係性は?
- 藤原宣孝と藤原道長の関係性は?
- 藤原宣孝の『枕草子』でのエピソードは?
藤原宣孝と藤原為時の関係性は?
藤原宣孝と、紫式部の父親である藤原為時は、同僚で親しい間柄であったと言われています。
また、藤原宣孝の父・為輔と藤原為時は従兄弟でもあるため、藤原宣孝と紫式部はまたいとこの関係でもありました。
そのため、藤原宣孝と紫式部は、藤原為時の紹介で出会ったのではないかとする説も存在します。
藤原宣孝と藤原道長の関係性は?
藤原宣孝も藤原道長も同じ藤原北家の出身ですが、10親等以上離れており、ほとんど関係はありませんでした。
しかし、藤原宣孝は紫式部との結婚から数カ月後、山城守に任ぜられ出世します。
山城守となった藤原宣孝は、時の権力者であった藤原道長と接点を持つようになりました。
999年の11月には、藤原道長の娘の彰子が一条天皇の女御となるのですが、藤原宣孝はその際に祝いの席の警護を担当しています。
また、同年には豊前国の宇佐神宮への奉幣使にも任じられ、藤原道長から直々に命を受けて一条天皇に拝謁しています。
藤原宣孝の『枕草子』でのエピソードは?
藤原宣孝は、『枕草子』にて、清少納言に以下のように話しています。
「あはれなるもの、孝ある人の子。よき男の若きが御嶽精進したる。(中略)なほいみじき人と聞ゆれど、こよなくやつれてこそ詣づと知りたれ」
(『枕草子』115段より)
この段で、清少納言は
「父母を敬う身分の若い男性が、御嶽詣での前に精進している姿は、しみじみと感じられて良い(中略)よほど身分の高い人であっても、御嶽には質素な身なりで参詣するものだと聞く」
と言った後、藤原宣孝に関する噂話を口にするのです。
「藤原宣孝は、『清潔な着物を着て参詣すれば、何の問題もないだろう。御嶽の蔵王権現様がみすぼらしい着物で参れと言ったわけではあるまい』と驚くほど派手な着物を着て、息子とともに参詣したと言います。参詣で藤原宣孝父子を見た人々は、こんな姿の人は見たことがないと驚いたそうです。しかし、参詣から帰って1ヶ月ほどで藤原宣孝は筑前守に任じられたので、『(藤原宣孝の)言葉に間違いはなかった』と評判になりました」
このエピソードから、藤原宣孝のおおらかな人柄が伺えますね。
まとめ:藤原宣孝の死因は疫病によるもので、その死がきっかけで『源氏物語』が生まれた
藤原宣孝の死因ははっきりとは判明していませんが、疫病によって亡くなった説が有力とされています。また、その死がきっかけで、紫式部の『源氏物語』が生まれたと言われているのです。
今回の内容をまとめると、
- 藤原宣孝の死因は疫病によるもの
- 藤原宣孝は、内臓を患っていたのではないかとする説もある
- 藤原宣孝の死がきっかけで『源氏物語』が生まれた
公私ともに絶好調であったところからの急逝。藤原宣孝からしてみたら、まだまだ叶えたい野望があったかもしれません。やっとの思いで手に入れた紫式部との結婚生活もわずか3年で終わってしまい、本当にあの世で悔しい思いをしていることでしょう。