藤原宣孝は紫式部の夫。年の差婚だった?『源氏物語』が生まれるきっかけになった?
藤原宣孝(不明〜1001(長保3年))は、平安時代中期に活躍した貴族です。
平安時代の女流作家・紫式部の夫としても知られています。
また、2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、佐々木蔵之介さんが演じられることでも話題となっています。
そんな藤原宣孝と紫式部はどのような関係だったのでしょうか?
この記事では、藤原宣孝と紫式部の関係について簡単に解説していきます。
目次
藤原宣孝は紫式部へ猛アプローチの末、年の差婚をした
藤原宣孝と紫式部が結婚したのは、998年頃だと言われています。
その年の差は、なんと20歳ほどもありました。
紫式部からしてみると、父親とほとんど年の変わらない人なわけです。
そんな2人がなぜ結婚することになったのでしょうか?
それは、藤原宣孝が猛アプローチしたからです。
この際、藤原宣孝には、すでに複数の妻や恋人、さらには子供までいたのですが、そんなことはお構いなしに、紫式部に手紙にて猛アプローチを仕掛けました。
そんなアプローチをされても、紫式部の反応はそっけなかったようです。
それを現しているエピソードがあります。
ある時、藤原宣孝は手紙の上に朱を振りかけて、「涙の色を見てください」と手紙を送ります。
それに対して紫式部は、
「くれなゐの 涙ぞいとど うとまるる うつる心の 色に見ゆれば」
(訳:紅の涙などというと、ますます疎ましく思います。変わりやすい心が、この色ではっきりと見えているので)
以上のような歌を返しているのです。
紫式部は、藤原宣孝が他の女性にも声をかけているのを知っていたようで、なかなか藤原宣孝のことを信用できなかったため、そっけない態度になってしまっていました。
しかし、本当に興味がないのならば、返事をしなければよいのですから、きちんと返歌をしている時点で、紫式部もこの恋の駆け引きを楽しんでいたのでしょう。
このような藤原宣孝による猛アプローチの末、ついに2人は結婚することになったというわけです。
藤原宣孝と紫式部の結婚生活は情熱が冷めており、3年で終わった
藤原宣孝の猛アプローチの末結婚した2人でしたが、結婚後は藤原宣孝に結婚前のような情熱がなくなってしまっていたようです。
その証拠に、紫式部は以下のような藤原宣孝を恋しがる歌をいくつか詠んでいます。
「折りて見ば 近まさりせよ 桃の花 ひぐまなき 桜をしまじ」
(訳:桃の花は遠くから眺めるより、折って近くでじっくり見たほうがきれいに見えます。だからもう、あなたを思いやってくれない遠い桜の花のことなんて惜しく思わなくていいのです)
この歌は、紫式部が他の妻のことを気にして詠んだ歌ではないかと言われています。
つまり、桃が自分で、桜が他の妻ということですね。
これに対し、藤原宣孝は以下のような返歌をしています。
「ももといふ 名もあるものを 時の間に 散る桜にも 思ひ落とさじ」
(訳:桃の花は、もも、つまり『百』という意味もあるのだから、百年間咲き続けるのだろう?それに対して、桜の花なんてすぐに散ってしまうのだから、気にもとめておりません)
藤原宣孝からの返事では、「他の女性なんて見ていないよ、君だけだよ」と言っていますね。
しかし、当時紫式部と藤原宣孝は結婚しても同居はしておらず、なかなか紫式部のところへは藤原宣孝はやってこなかったようです。
そこで、紫式部は以下のような歌を詠んでいます。
「入るかたは さやかなりける 月影を うはのそらにも 待ちし宵かな」
(訳:月がどの方角に入るのかわかるように、あなたが他の女性のところに行くことはわかっていたはずなのに、昨晩はうわの空で待ちわびてしまった)
このように、紫式部は寂しさをアピールしていたわけですね。
これに対して、藤原宣孝の返歌は以下のようなものです。
「さして行く 山の端も みなかき曇り 心の空に 消えし月影」
(訳:月もそちらの方に行こうとしたのだけれど、山の端が曇っていたから夜空に消えてしまったのである。昨晩はあなたの機嫌も悪そうであったから…)
以上のように、少し紫式部を突き放すような歌ですね。
結婚前の情熱はどこに行ってしまったのかと言わんばかりの冷めっぷりです。
このことから、藤原宣孝と紫式部は不仲だったのではないかとする説もあります。
しかし、2人の間には賢子という娘も生まれており、一概に不仲であったと決めつけることもできません。
そんな2人の結婚生活は、わずか3年で終わりを迎えます。
なぜ終わってしまったかというと、藤原宣孝が1001年に疫病により亡くなってしまったからです。
こうして、紫式部は未亡人となってしまったのでした。
藤原宣孝が亡くなった際、紫式部は和歌を捧げた
結婚生活があまりうまくいっていなかったように思える2人でしたが、紫式部は藤原宣孝が亡くなった際、以下のような和歌を捧げました。
「なにかこの ほどなき袖を ぬらすらむ 霞の衣 なべて着る世に」
(訳:取るに足りない私は、どうして夫の死を悲しんで袖を濡らしているのでしょう。国中の方が喪服を着ている時に)
※この際、円融天皇の女御で、一条天皇の母である藤原詮子が崩御しており、京都の貴族たちも皆喪服を着ていた
「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつまじき 塩釜の浦」
(訳:連れ添った人が煙となった夕べから、(海藻を焼いて塩を採ることで知られる)「塩竈の浦」という名に親しみさえ感じるようになりました)
これらの歌から、紫式部が藤原宣孝のことをきちんと慕っていたということが伺えますね。
藤原宣孝が亡くなったのがきっかけで『源氏物語』が生まれた
愛する夫に結婚3年目で先立たれ、突如としてシングルマザーになってしまった紫式部は深い悲しみに包まれます。
しかし、この不幸な境遇が、実は『源氏物語』を生み出すきっかけとなったのです。
紫式部は、藤原宣孝の死後、その悲しみや将来の不安を紛らわせるために、友人たちと「物語」についての感想を語り合ったり、手紙をやりとりするようになりました。
多くの学者たちの間では、これが『源氏物語』を執筆する大きなきっかけとなったと考えられているのです。
つまり、紫式部にとって『源氏物語』を執筆することは、さみしい気持ちや不安な気持ちを癒やす時間であった可能性があります。
藤原宣孝との死別がなければ、世界最古の長編小説である『源氏物語』は生まれていなかったかもしれませんね。
藤原宣孝に関するQ&A
藤原宣孝に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 藤原宣孝と藤原為時の関係性は?
- 藤原宣孝と藤原道長の関係性は?
- 藤原宣孝の『枕草子』でのエピソードは?
藤原宣孝と藤原為時の関係性は?
藤原宣孝と、紫式部の父親である藤原為時は、同僚で親しい間柄であったと言われています。
また、藤原宣孝の父・為輔と藤原為時は従兄弟でもあるため、藤原宣孝と紫式部はまたいとこの関係でもありました。
そのため、藤原宣孝と紫式部は、藤原為時の紹介で出会ったのではないかとする説も存在します。
藤原宣孝と藤原道長の関係性は?
藤原宣孝も藤原道長も同じ藤原北家の出身ですが、10親等以上離れており、ほとんど関係はありませんでした。
しかし、藤原宣孝は紫式部との結婚から数カ月後、山城守に任ぜられ出世します。
山城守となった藤原宣孝は、時の権力者であった藤原道長と接点を持つようになりました。
999年の11月には、藤原道長の娘の彰子が一条天皇の女御となるのですが、藤原宣孝はその際に祝いの席の警護を担当しています。
また、同年には豊前国の宇佐神宮への奉幣使にも任じられ、藤原道長から直々に命を受けて一条天皇に拝謁しています。
藤原宣孝の『枕草子』でのエピソードは?
藤原宣孝は、『枕草子』にて、清少納言に以下のように話しています。
「あはれなるもの、孝ある人の子。よき男の若きが御嶽精進したる。(中略)なほいみじき人と聞ゆれど、こよなくやつれてこそ詣づと知りたれ」
(『枕草子』115段より)
この段で、清少納言は
「父母を敬う身分の若い男性が、御嶽詣での前に精進している姿は、しみじみと感じられて良い(中略)よほど身分の高い人であっても、御嶽には質素な身なりで参詣するものだと聞く」
と言った後、藤原宣孝に関する噂話を口にするのです。
「藤原宣孝は、『清潔な着物を着て参詣すれば、何の問題もないだろう。御嶽の蔵王権現様がみすぼらしい着物で参れと言ったわけではあるまい』と驚くほど派手な着物を着て、息子とともに参詣したと言います。参詣で藤原宣孝父子を見た人々は、こんな姿の人は見たことがないと驚いたそうです。しかし、参詣から帰って1ヶ月ほどで藤原宣孝は筑前守に任じられたので、『(藤原宣孝の)言葉に間違いはなかった』と評判になりました」
このエピソードから、藤原宣孝のおおらかな人柄が伺えますね。
まとめ:藤原宣孝は紫式部と年の差婚をしたが、3年で結婚生活は終わってしまった
藤原宣孝は、手紙などで猛アプローチをして、紫式部と20歳以上も離れた年の差婚をしました。しかし、藤原宣孝が疫病のため亡くなってしまい、2人の結婚生活はわずか3年で終わりを迎えてしまいました。
今回の内容をまとめると、
- 藤原宣孝は紫式部に手紙などで猛アプローチをした
- 藤原宣孝と紫式部は20歳以上も年が離れた年の差婚となった
- 藤原宣孝は紫式部と結婚後、あまり紫式部の元を訪れなくなった
- 藤原宣孝と紫式部の結婚生活は、藤原宣孝が疫病で亡くなったためわずか3年で終わった
藤原宣孝と紫式部には20歳以上の年の差がありました。しかし、2人の和歌のやり取りを見ていると、そんな年の差などないように感じます。それほどまでに、2人の関係は年の差など関係なく、対等なものだったのかもしれません。