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最澄の死因は何?最期の姿は?弟子に遺した言葉とは?その生涯を簡単に解説!

最澄(766(天平神護2)or767(神護景雲元年)〜822(弘仁13))は、平安時代初期に活躍した日本の仏教僧です。天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られています。

そんな最澄はどのようにして亡くなったのでしょうか?

この記事では、最澄の死因や最期の姿などを簡単に解説していきます。

最澄の死因は判明していない

最澄の死因は、詳しいことは判明していません。

しかし、時期は判明しており、822年6月4日の午前8時頃、比叡山の中道院において寂滅したと言われています。

この際、釈尊入涅槃の儀式に従って、頭北面西右脇臥で円寂したそうです。

56歳でした。

また、遺告により、遺体は比叡山東塔の浄土院に納められました。

最澄の生涯を年表で解説!

【最澄の年表】

  • 766(天平神護2)or767(神護景雲元年):0歳

  誕生する

  • 778年(宝亀9年):12歳

  出家する

  • 780年(宝亀11年):14歳

  得度を受け沙弥となり最澄と名付けられる

  • 785年(延暦4年):19歳

  東大寺にて具足戒を授戒する。比叡山に入山する

  • 788年(延暦7年):22歳

  一乗止観院を創設する

  • 797年(延暦16年):31歳

  桓武天皇により内供奉十禅師に任ぜられる

  • 802年(延暦21年):36歳

  入唐の勅命を受ける

  • 804年(延暦23年):38歳

  遣唐使として入唐する

  • 805年(延暦24年):39歳

  帰国し、天台宗を開宗する

  • 806年(延暦25年):40歳

  天台宗が公認される

  • 818年(弘仁9年):52歳

  『山家学生式』を定める

  大乗戒壇の設立を奏上する

  • 821年(弘仁11年):55歳

  『顕戒論』を提出する

  • 822年(弘仁13年):56歳

  入滅

  • 866年(貞観8年)

  日本史上初の大師号である「伝教大師」の諡が贈られる

最澄は晩年も天台宗のために奔走していた

最澄は晩年に大きく分けて以下の2つのことに尽力しました。

  • 宝塔を建てること
  • 大乗戒壇の設立

【宝塔を建てる】

最澄は法華一乗による世の安寧を具現化するために宝塔を各地に建てようと考えました。

その結果、比叡山に二箇所(近江国比叡山東塔、山城国比叡山西塔)、北関東に2箇所(上野国浄法寺、下野国大慈寺)、九州に2箇所(豊前国宇佐弥勒寺、筑前国竈門山寺)の六寺院に設置することに成功しました。

これは、六所宝塔と呼ばれ、実際に完成したのは最澄の没後となりました。

【大乗戒壇の設立】

当時の戒壇で授けられていた具足戒では、一切衆生を救うことはできないと考えた最澄は、大乗戒壇を設けるため朝廷への働きかけを積極的に行いました。

『山家学生式』や『顕戒論』を著したのもそのためでした。

亡くなる3ヶ月前にも、三度目の提言をするほどの執着を見せていたと言われています。

しかし、既存の南都七大寺の強い反発を受け、最澄の存命中にそれが実現することはありませんでした。

この南都七大寺の反発の中で、特に激しい論争であったと言われているのが、法相宗の徳一との「三一権実論争」でした。

簡単に言うと、天台宗の一乗と、法相宗の三乗、どちらが正しいかの論争です。

この2人の論争はのべ4年間にわたって繰り広げられましたが、論争に決着がつくことなく、徳一の死によって終結しました。

以上のように、晩年は天台宗を広めるために奔走していた最澄でしたが、存命中に大乗戒壇の設立をすることは叶いませんでした。

しかし、最澄の死から7日後に、ようやく戒壇設立の勅許が出されたのです。

最澄の悲願は、死後にやっと叶ったのでした。

最澄は弟子たちに遺言を遺していた

最澄は、亡くなる間際、弟子たちに向けていくつか遺言を残しました。

「自分が死んでも喪に服さなくてよい。国家を守護するために、毎日大乗経典の講義を行うように」

「人々を救うために、懸命に努力しなければならない。正しい修行を行い、国家の恩に応えなければならない」

「私は幾度もこの国に生まれ変わって、仏教を学び、一乗の教えを弘めようと思う。私と心を同じくするものは、道を守り、道を修行し、あい思ってその時を待ってほしい」

最澄は、自身が生涯をかけて臨んだ一乗仏教への強い思いを、弟子たちに託したのです。

そして死後、朝廷から最澄は「伝教大師」の諡を与えられています。

最澄に関するQ&A

最澄に関するQ&Aを簡単に解説していきます。

  • 最澄と空海の関係性は?
  • 最澄は女性だった?
  • 最澄は日本にお茶を伝えた?

最澄と空海の関係性は?

最澄と空海は、同じ時期に遣唐使になり唐へと渡りましたが、実際は違う船に乗っていたため、そこで出会うことはありませんでした。

2人が正式に出会ったのは、帰国後のことです。

真言密教について学び足りなかった最澄が、真言密教を極めていた空海から教えてもらおうとコンタクトを取ったのです。

そこから、2人は手紙のやり取りをしたり、典籍を貸し借りしたりと良好な関係を築いていきました。

しかし、真言密教において非常に重要な典籍を簡単に借りようとした最澄に対して、空海がキレたことや、最澄の愛弟子が空海のもとへ弟子入りしてしまったことなどがきっかけとなり、一気に2人の関係は悪くなってしまいました。

その後、2人がコンタクトを取ることはなく、絶縁状態となってしまったのでした。

\ 最澄と空海の関係に関しては、こちらの記事でも詳しく解説しております /

最澄は女性だった?

最澄によって805年(延暦24年)に建立された能福寺には、唐に渡った頃の最澄の姿が像として建てられています。

この最澄像を見てみると、髪型は当時唐の幼い少女たちの間で流行っていた垂練髻をしており、服装も唐の少女たちが着ていた漢服を身につけています。

このことから、最澄は実は女性だったのではないかとする説が存在するのです。

しかし、この他に明確に女性であるとする史料はないため、現時点では、最澄は男性であるとする説が有力となっています。

最澄は日本にお茶を伝えた?

最澄は仏教だけではなく、お茶を日本に伝えたことでも知られています。

最澄が中国より持ち帰ったお茶の種子が、日本におけるお茶の始まりだと言われているのです。

最澄が持ち帰ったお茶の種子は、比叡山の麓の日吉大社に植えられました。

この場所は、日本茶発祥の地として残され、現在でも「日吉茶園」が茶の栽培を手掛けています。

まとめ:最澄の死因は判明していないが、死ぬ間際まで天台宗のために尽力していた

最澄の具体的な死因は判明していません。しかし、死ぬ間際まで天台宗を少しでも多くの人に広めようと尽力していました。

今回の内容をまとめると、

  • 最澄の死因は判明していない
  • 最澄は晩年、天台宗を広めるために奔走していた
  • 最澄が存命中には、大乗戒壇の設立は実現しなかった
  • 最澄の死後、すぐに戒壇設立の勅許が出た

一切衆生を救おうとしていた最澄の、大乗戒壇設立にかける思いは本当に強いものだったのでしょう。そんな最澄自身が大乗戒壇設立を目にしないまま亡くなってしまったのは、とても悔しいものだったでしょうね。

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